相手を疑うことが怖い、優しさを生かす。

人狼においては、一人一人が人外を推理し、誰かを疑うことを求められます。誰かを疑わないと、自分が疑われてしまったり、誰かの役に立てなかったりします。

誰かを疑うことで役に立てるというのは総じて、歪なものです。されると悲しいことをして、役に立つということですから。
日常のように、されて嬉しかったことをしてあげることとは、全く異なるものなのです。

そうなると、疑うことを求められることは、しんどいことだと感じます。悲しいことを知っていて、なお、悲しいことを相手にしなければならないのですから。すごく、罪悪感を感じてしまう行動だと思います。

僕はこの罪悪感をできれば、感じたくないものだと感じています。疑われると悲しいです。だからこそ、悲しいことを相手にしたくないと思います。 

でも、ゲームに1プレイヤーとして立つと、疑うことをしなければなりません。
悲しい行動をゲームだからという、理由で行うことにより、いつしか疑うことは、楽しいではなく、やらねばならない義務になっていたと思います。

ただ、罪悪感がないわけではありません。
義務で感じる罪悪感は、自分の悲しさを麻痺させることをしていたと思います。
そして、時間が経つにつれて、相手の気持ちがわからなくなるのです。

となると、ついつい相手の気持ちを無視した疑い方をしてしまうことがあるんですよね。注意深く見てみると、相手が悲しんでいたり、傷ついていたりしている姿が見て取れるはずなのに。悲しさが麻痺していると、ついつい行き過ぎてしまうことがあるのです。

本題を書く前に、そんな自分の体験談を書いてみました。自分の悲しさも相手の悲しさも無視した疑い方っていうのは、どちらも救われません。できれば、どちらも、あまり悲しくならないような疑い方をしたいですね。

さてさて。それにはどうしましょうか??
それは、簡単に言うと、疑われて悲しい気持ちを、ただ生かしてみることです。

多く、強い方というのは、端から見ると、疑われても悲しそうにしているようには見えないと思います。でも、それは多くの場合、事実ではないということです。疑われて悲しくならない人は、多分居ないと思います。

けど悲しい気持ちを感じた時の、受け止め方が人によって違うということです。
僕のように、悲しさを隠して、とにかく義務的に行動する人もいると思います。
悲しさを隠すために、相手のことをスルーする人もいるかもしれません。
中には、悲しい姿を見せないために、攻撃的になって身を守る人もいると思います。

たとえば、発見の多くが理論で塗り固められているとか。正しさに拘って、人をコントロールしようとするとか。
とかく、攻撃的に回れば、悲しい気持ちは感じなくて済むのです。なので、攻撃や怒りは、悲しさを遠ざける一つの方法なのです。

特に、男性の方が理性的な人は多いと思います。頼りにされることを多く求められると思いますから。とかく、事態に対処できる方法を求めることが多くなると思います。

まあそんな感じで、疑われて悲しい気持ちっていうのは、中々人前に出すことはできないと思います。多くの人はだしてはいけないと感じていると思うので、だしている人は多く責められてしまうと思います。

けど、もし責められたところで、疑われて悲しいのは自分だけじゃないと思えたとしたら、相手に対する見る目が変わってくるかもしれません。

この人は、もしかしたら疑われて悲しくて努力したのかなぁとか。
この人は、一人で努力して、味方が居なかったから、ちょっと強引なのかなぁ?とか。

自分の悲しさを通して、相手に対して理解できるようになったり。相手に合わせて対応することができたり。自分の行動にも、変化がでてくるかもしれません。

今回は、相手の心を思いやれるからこそ、感じる疑うことの怖さを生かす選択について書いてみました。

今回もお読みいただきありがとうございました!

素黒、素黄だからこそ言えること。

素黒や素黄と言われる表現があります。

いつから生まれたのか定かではありませんが、相手のことを責める時に、多く用いられるものだと感じています。

時には、場を和ませる目的で、そのような言葉を用いる時もあるかもしれませんが、それは今回は置いておきます。


話を戻しますね。

多くは、素黒や素黄という言葉を誰かが発する時というのは、相手の行動を責める時に使われたり。相手が村人と思えなかったときに使われたりすると思います。

分かりづらいからもっとわかりやすい動きをしろ。そんな要求をどこかで感じてしまう寂しい言葉なのかもしれません。


僕も素黒と見なされたことはあります。

別に怪しい行動をしたかったわけではないです。しかし、そういう評価を頂いてしまう。感じたままに話してしまうというのが、一つそう見られた要因かもしれません。


なので、感じたままに話すということを一時期やめました。少し、頭の中で発言を整理すしてから発言するようにしたんです。

そしたら、素黒と言われることは無くなっていた気がします。

少しホッとしたのを覚えています。


人狼をしていた頃の僕のスタイルは、昔とは違い、分析を中心にしています。

感覚のままに話してしまう癖が抜けているわけではないので、感覚で感じたことを分析して言葉にするようにしています。

時間はかかりますが、僕の短所を考えると、分析というのは、短所を長所に変えてくれたものだと感じています。


素黒や素黄と言われる理由は様々かもしれません。そして、多く素黄や素黒というものは短所に捉えられると思います。

でも、それは短所でないということです。

その短所を補ってくれる、何かを見つけれれば短所を軸にして、長所にできるはずです。


僕の分析力も、きっと素黒と見なされた短所がなければ、僕の武器にはならなかったと思います。


なので、僕は素黄や素黒は一つの限界を表していると同時に、別の長所をもたらしてくれる言葉だと感じています。


素黒と素黄のケースごとに、何があれば長所に変わるのか、というのを書けたら良いんですけどね。ちょっと、今はハードルが高そうです。いつか書けたらなと思います。


では今回はこの辺で。

今回もお読みいただきありがとうございました!

深みのある、単体考察。

深みのある単体考察をする方をたまにいる。

読んでいて、書き手の思いっていうのが、凄く心に伝わってくる文章。


書き手が試行錯誤して、難しさや困難さがあることを知っているからこそ、表れているであろう深み。書き手の経験で得た難しさなどを引き合いに出して、書かれた考察というのは、心に深く伝わる気がします。


僕も、考察を書くというのは大変なことで難しいことだと思っています。時には、自分の欲求を置いておくことも大事。時には、感情に囚われずに、冷静になることも大事。時には、文章を深く読み込んでいくことも大事。組み合わせていくことも大事です。


自分が自分の考察を練り上げるまでの大変さや難しさを知っていると、相手のしていることの説明が相手の心に深く刺さるような文章になる気がします。相手が、自分と同じ苦労を抱えていたら尚更だと思います。


少し具体例を交えて説明したいと思います。

まず一つ目。


A君は村人だと思います。

まず、自分の感情を置いておいて、相手の事情を踏まえて考察するのは難しいです。相手のことが感情的に嫌いなら尚更です。嫌いな相手を考察する必要があるの?という葛藤。他の人に任せていけば良いという誘惑。


その中でも相手の事情を考慮して考察を作るのは難しい。何度も、考察をしてきた自分でも挫折しそうになることは多いです。


けど、A君は、2日目にB君のことを嫌いのような雰囲気を見せているのに、B君の事情を深く考慮した上で考察を練り上げています。きっと、A君の心の中にも様々な葛藤や誘惑があったはずです。でも考察を書き上げた。


そこには、嫌いな人だとしても考察を作り上げる、という熱意や必死さが感じとれます。彼の、人狼を見つける本気さというものが私には伝わってきました。



次に二つ目。

A君は村人だと思います。

彼は2日目に、B君を嫌いであるかのような雰囲気をだしていました。としたら、心には葛藤があるはずです。嫌いな人を考察したいと思う人は中々いないですからね。


だから、彼の考察には嫌いな人でも考察をするという必死さや熱意が感じ取れます。

彼の、人狼を見つける本気度が私には伝わってきました。



という二つの例を書いてみました。

さて、どちらのが心に深く刺さるでしょうか?


何と無く、一つ目の方が心に刺さるような気がすると思います。Aは自分の経験を踏まえたのに対して、Bは、少し他人事のように書いてみました。


こんな感じで、時には自分の経験を対比しながら書いた方が、相手の心に深く伝わるような文章が書けるんですよね。

そうすると、説得力も増すはずです。


ただもちろん、この辺りはケースバイケースです。時には説得力よりも、文章の簡潔さを優先するときもあるでしょう。

でも文章をどう書くかというのも、一つの駆け引きなので、奥が深そうですね。


今回はこの辺で。

お読みいただきありがとうございました!

思考ロックが解けない時って、何が起きてるの?

今回は思考ロックをしている時の、心理状態について説明していきたいと思います。

思考ロックはできればしたくないです。
自分もあまり良い結果にならないし、相手にとってもあまり良い結果にならない。
治せるのなら、治したものだと思います。

僕も結構な思考ロッカーです。
一度疑ってしまったら、中々、疑いが晴れません。執着してしまうんですよね。
理屈で違う可能性を考えたりするんですけどね……。それでも、執着は取れない。

別にそんなことよくあるはずなのになーとか。他の人はそんなことを思ってないのになーとか思っても、どこかで気にしてしまう。なので、僕は、考察をたくさん書いて、執着しているのを誤魔化してました笑。

とにかく、多角的な観点から判断していくと時間はかかりますが、執着しつつも執着した判断が減ってくると思います。
ただ今回は、あくまで心理の説明。
方法論はまた今度にでも書けたらなと思います。

さてさて。では、心理状態について説明していきたいなと思います。
えーと、どこから設定していきましょうか。

そうですね。
これを読んでいるみなさんは、怪しくない人に対して疑ったりってしますか?
多分、しないと思います。怪しくなかったら、疑う必要ないですからね。

次に。無邪気に笑っている子供を疑ったりってしますか?
多分、する人は少ないと思います。子供に騙される人は少ないでしょうから。相当、賢い子だったら別ですけどね。

次に。楽しそうに笑っている大人を疑ったりってしますか?
人によっては疑ってしまいそうですね。
笑っている人に騙されたことがあったら、笑ってくる人を疑ってしまうかもしれません。
子供と違って、大人は判断するには難しいですからね。笑いを見ただけで、疑いたくもなるかもしれません。

こんな感じで、自分に騙された経験があったり。相手のことを判断しづらかったりすると、感情の部分で相手に対して執着をし続けてしまうんですよね。

簡単に言うと、昔に騙された時の感情を今そこに居る相手に投影しているということです。これが思考ロックの時の心理状態です。

だから、まだ誰にも騙されたことがない人は、相手に執着しないんですよね。
騙されてなかったら、こいつには絶対に騙されないぞ!って執着しなくて良いですから。

ということは、思考ロックを防ぐには、どうして騙されたんだろう?っていうのを考えていくのも、一つなのかもしれません。

でも考えていくに当たって注意点が一つ。
なるべく、騙された原因を自分にしないことです。

騙されていなかった時が自分にあるということは、自分は本来騙される人ではなかったということです。でも、騙されてしまって、自分が騙される人だと勘違いしてしまった。
でも本来はただ、相手が騙す技術に精通していたというだけなのです。

簡単に言うと、自分が騙されたのは事実だけど。ただ、それは相手に騙す技術があったというだけ。
自分は騙されやすいというわけでもない。だって、相手に騙す技術がなければ、自分は一生騙されなかったのだから。

騙される自分から騙されない自分に書き換えるのは大変な作業だと思います。
でも、自分は騙される人と見なしていたら、きっと相手のことに目を向けられないと思うんです。

騙される度に落ち込んでしまっていたとしたら、きっと、どんどん辛くなって、自分の殻に閉じこもってしまうと思います。
ただ自分を書き換えてあげようと決意したら、その度自分を褒めてあげてくださいね。自分を書き換えるっていうのは、得てして不安なことなので勇気のいることですから!

なので、あくまでこういうやり方もあるよ。ということで覚えていただければなと思います。

今回はこの辺で。
今回もお読みいただきありがとうございました!

弱さという強さ。弱いを生かせ!

さてさて。今回は、初心者村から普通村へとと進んだ時に直面する、弱さというものについて説明していきたいと思います。



皆さんは、弱さと聞かれると、どのようなものをイメージしますか?

僕だと、責められたり、怒られたり、という抽象的なことから始まり。誰かに言い返せないこととか。逃げてしまうこととか。結果を出せないこととか。そんなことを、イメージしたりすると思います。


総じて、人と比べて自分は……。というように、人と比べることによって、生まれてくるイメージなのかなと思います。


こんな、弱いっていう感覚は、凄く惨めですよね。凄く自分のことがダメなように感じられてしまうと思います。きっと、人にも見せられないものでもあると思います。

そうすると、何とか弱い自分を変えなきゃ!って思うはずです。弱い自分は惨めで嫌ですから、何とか変えたいですよね。


ただですよ。もし、弱い自分が消えて強い自分になったとします。きっと、たくさんの努力をして、自分を変えられたんだと思います。でも。自分と同じ弱さを持つ他人に対して、どんなことを思うと思いますか?


多分ですけど、キツく当たってしまうと思うんです。

もしかすると、優しい方なら、キツく当たりたい思いを、心の奥に閉まって、優しくすることに徹するかもしれません。

そして、相手に感謝されるかもしれません。でも、きっとストレスが溜まるでしょうし、相手の感謝も受け取れなくなってしまうと思います。


そしたらきっと報われないでしょう。

努力したのに、自分が満たされなかったとしたら、辛くなってしまうと思います。


ということで本題です。

自分の弱さを消すことが、相手に対してキツく当たってしまうとするのなら……。

自分の弱さを受け入れてあげることで、相手に対して優しくなれそうです。


そしたら、理解力もぐーんと上がります。

共感性が養われるんですよね。そしたら、弱さだと思っていたものが、いつの間にか自分の長所に!なんてこともあると思います。

自分の弱さを嫌っている人は、まだ自分の才能を十全に発揮していないということです!


さてさて。それでは、具体的に自分の弱さを受け入れるにはどうしましょう?

それは、初心者時代の自分(初期が普通村の方は普通村)を思い出すことです。


初心者の時の自分というのは、まだ悲しい体験をしていなかったと思います。

でも、レベルが上がるにつれて、現実というものを直視するようになりました。そして悲しい気持ちをたくさん味わいました。


ただ、努力家の皆さんは、悲しさに負けずに努力しました。そうして、強さを手に入れることができました。


でも、初心者の時の、自分の良さというのは捨ててしまいました。それがあると、どうやら自分は現実で上手くいかないみたいなのです。悲しくなってしまうみたいなのです。


ということは、もし。悲しさを乗り越えれたとしたら。初心者の村の時の自分の良さと、自分の悲しさを乗り越える過程で得た共感性の二つを手に入れられると思います。


誰かに責められたり、否定をされなければ、悲しい気持ちにはならなかったと思います。

なので、責められなかった時の自分を思い出すことで、悲しさに呑まれてない自分の良さを思い出すことができるんですよね。


少し中途半端になってしまいましたが、今回はこの辺で。

お読みいただきありがとうございました!

質問するということ〜。一人で考察することの限界とは?

さてさて。今回は質問することの重要性というのを書いていきたいと思います。


ただ、質問って、正直めんどくさいですよね。なんか上手く質問しないと怒られそうとか。理解してないと思われるかもとか。質問の内容によっては下手くそと思われるかもとか。どれも直接的に言われたりしてしまったら悲しいことですしね。


そういう悲しさがあると、どうしてもめんどくさく感じてしまうと思います。悲しまないためには、悲しまないような質問というのを考えなきゃいけないですから。


でもですよ。もし、悲しくなりたくないからという理由で、質問をしなかったとしたらどうなるでしょう?

多分、質問して得られる答えを、自分の頭で考えると思うんですよね。

そしたらきっと、すごく大変で労力のかかることだと思うんですよね。


でも、今までの書き方だと一人で考察することには限界がなさそうに見えますよね。でも、一人で考察することには、限界があるんですよね。


例を交えますね。

A君がBちゃんのことを好きだとします。

でもA君はBちゃんに嫌われたくなくて、Bちゃんに話しかけられません。


だから、一人でどうにかしてBちゃんに好かれようとアピールをします。

雑誌を読んで勉強して、髪型も整えて、勉強も運動もとにかく頑張ります。

それもすべてBちゃんに好かれるためです。


でも、頑張っても頑張ってもBちゃんは話しかけてくれません。

A君は思うでしょう。俺はこんなに頑張っているのに、どうしてBちゃんは俺に話しかけてくれないんだ!と。

それは、すごくすごく悲しいことだと思います。報われないですからね。


でもですよ。ここまで語った内容の全てにBちゃんの気持ちがありません。

A君は確かに頑張りました。

でもBちゃんが、元々A君のことが好きだとしたら?そして頑張るA君を見て、密かに壁を感じるようになっていたとしたら?


A君が最初に勇気をだして話しかけていれば、Bちゃんと仲良くなれていたかもしれません。確かにBちゃんと話すことで、嫌われる可能性もあったかもしれません。

でも、A君の努力できる性格なら、早々悪い道にはならなかったはずです。


最初に、嫌われた時の悲しさを受け止めていたら、結果は違うものになっていた可能性があったかもしれないんですよね。


話を戻しますね。これは人狼でも言えます。

悲しい気持ちを抑圧して、一人で頑張ってしまったとしたら、相手がどんな人なのか中々わからないと思うんです。


もしかすると、人狼だったら、他の人が質問してくれたり。質問されずとも自ら話してくれるかもしれません。

でも、質問しないと、自分の中で完結して相手を決めつけてしまうかもしれません。


相手が何を好きなのか。どんな経験があるのか。何が嫌いで、何を許せないのか。

一見、人外を見つけるのに必要のないように思える情報というのは、知らないところで自分の思い込みを自然と溶かしてくれる働きをしてくれることがあります。


もし考察を深めたい方は、一見必要のない質問をしてみて、結論を纏める時に深みを出してみるのも良いかもしれませんね。

そしたらきっと、相手のことを知ることが、考察の精度を上げれるということに気付くことができるはずです。


今回はこの辺で。

今回もお読みいただきありがとうございました!

占い師になったら、どうすれば良いの?

さてさて。今回は占い師になった時に覚えておいた方が良いことを説明したいと思います。


一つ目です。


まず最初に、占い師って聞くと、どんなイメージが湧いてきますか?

僕なんかだと、考察しなくても人外が分かるってすげぇなーとか。簡単に人外が分かるから、楽で良いなぁとか。

でも、簡単に分かるぶん、期待が重くのしかかるだろうなぁとか。期待が重くのしかかったら辛いだろうなぁ。期待されたくないから、あまりやりたくないなぁって思います。


この辺りのイメージは人それぞれだと思います。でも、占い師というのは、考察ができるできないに関係なく、人外を見つけられる。という、過程を省いて結果を得られる役職です。なので、必然的に期待されやすい役職なんですよね。誰もが人外を当てたいと思いますから、結果だけ手にすることができる、占い師には期待してしまうんです。


ですので、占い師は期待されやすい役職だと覚えておくのも大事だと思います。期待されやすいことがわかっていれば、対処法も考えやすいですからね。


次に移りますね。

二つ目です。


さっきも言いましたが、占い師っていうのは何もしなくても結果は手にできます。ということは、考察をしなくても、結果は手に入れられるので、楽ができてしまうんです。


でも、楽をしてしまうと、相手からはどう見えてしまうでしょう?

占い師の自分は占いの楽さに胡座をかいて、真面目に発言をほとんどしません。

でも、考察をしないと結果を手にすることができない村人は、必死に考えて、狼を見つけようと努力します。


そうなると、どうなるでしょう?

何となく村人に怒られてしまいそうなイメージが浮かびませんか?

私は考察をこんなに頑張ってるのに、この占い師はこんなに楽をしやがって!と。


そうなったら、きっと、真実を知っているのに、誰にも信じてもらえないという、悲しい現実になってしまうかもしれません。


でも!それは何とか避けられるのなら、避けたいです。誰だって信じてもらえた方が嬉しいですからね。信じてもらえないことが分かっていれば、楽さにあぐらをかくというのは、そうそうないでしょうから。


では、信じてもらうにはどうしましょうか?

それは村人と同じように過程を大切にすることです。

きっと占いの時の楽さに胡座をかく方は、村人の時に、楽な方向に流れるわけではないと思います。

結果を出すにあたっての過程の大切さというのを知っておられると思います。


だから村人と同じ目線で過程を大切にすることが大事なんです。


今回はこの辺で。

お読みいただきありがとうございました。