認知論のお話。その見方をしてるのはだーれだ。
今日は、どうして人に対する見方が、人によって変わるの?というお話をしたいと思います。
えっと、人狼をしていると、人によって解釈が違うという場面には多く直面すると思います。
私はこの人が怪しいと思うのに、彼は違う人を疑ってるみたい。そういうものかなとか。
私はこの人は怪しくないと思うのに、他の人はみんな怪しいって言う。私の見方がおかしいの?とか。
時に、簡単に納得をする場面もあります。
ただ自分の見方を疑って、自分の見方に自信がなくなる時もあります。
しかも、自分の見方に自信が持てない時ほど、考察が合っていた…。なんてことも、あったりします。
そう思うと、人の捉え方って不思議ですよね。多数派が正解というわけではないですから。
さてさて。では、どうして人によって、見方というのが変わってくるんでしょうか?
簡単に言えば、人によって人生が違うからにになります。でも、今回は心理学的な立ち位置から、解説をしていきたいと思います。
えっと、どこから解説しましょう。
そうですね。例を交えましょう。
私は、終盤の局面でいつも慌ててしまう。だから慌てる性格を直さなきゃ、って思っている人が居たとします。
そんな子は、自分に似ている、終盤で慌てる子を見て、どう考えると、思いますか?
多分ですけど、あぁこの子も、私と同じで終盤に慌てる子なんだな。だったら、この子も困っているはずだから、私が努力してきて身につけた知識を教えようかな?という風に、考えると、思うんですよね。
私にとって、慌てることは直す必要のあることだから、きっとこの子も直すということを望んでいるはずだという見方をするかなと。
もしくは、相手の子が慌てることに悪びれてないことを見てしまったら、この子は慌てることに悪びれないんだなと。すごく、嫌味を感じさせるような目で見てしまうかもしれません。
次に、私は終盤の局面で慌ててしまう。ただ、それはそれで悪くないよね。という風に思っている子が居たとします。
そんな子が、自分に似ている、終盤の局面で慌てる子を見て、どう思うでしょうか?
恐らくですが、この子は終盤の局面で慌てる子なんだな。でも、まあ慌てることくらいあるよね。私もあるし。という感じで、相手の慌てる部分を受け止めれると思うんです。
たとえ、相手が慌てていることに悪びれていなかったとしても、慌てることは悪いことではないと捉えてますから。この子は、慌てることを悪いことに捉える、本当は人の役に立ちたい子なんだなと見れるかもしれません。
さてさて。認識する対象が同じなのに、感じ方がこんなにも変わるのは何故なのでしょう?
それは、慌てている自分のことをどのように扱っているのかどうかです。
最初の例を交えた彼女は、自分の慌てる姿を直すものとして捉えてました。直すものという捉え方をするということは、慌てる自分を責めるということです。
責めるということは、自分は全力でやってなかったとか。うまくやれてなかったなど。
自分に対して、それが限界だったとか、自分に弱さなどがあるとか、自分に対してありのままの愛情を吹き込む行為とは、正反対の行いをしているということです。
つまり、慌てない自分になれてこそ全力の自分で。慌てている自分は全力ではない。ということは、慌てない自分になるまでは、自分の弱さや理由はすべて認めない。言い訳だ、という姿勢を貫くということになります。
対して、二人目に例に出した彼女。
彼女は、自分の慌てている部分を直すべきものとしては捉えていません。慌てるくらい誰にでもあるよねと。自分の慌てている部分を、特別なものとして捉えていません。
ということは、特別なことではない慌てるという行為は、彼女にとっては日常のようなものなのです。すると、慌てている子を見ても、まあそういうこともあるよねくらいの目線で見ることができるんですよね。
まあ要するに、自分のできなかった部分をどのように捉えるかで、人に対する見方というのが変わってくるというわけです。
と言いましても、人が自分のできなかったことを弱さという形で、特別なものとして捉えてしまうのは仕方のないことです。
誰だって、できないというのは悲しい。
そのできないことが、自分だけがという風に感じられたら尚更悲しいはずです。
人は悲しさを変えようとする習性もあるので、まあ仕方のないことなんですけどね。
ただ、その仕方のないことを、もし…。こういう悲しい気持ちは自分だけではなく、誰しもが必ず通る道だと。特別なものから一般的なものへと捉え方を変えられたとしたら。
相手の見えない部分に着目できるようになるばかりか、きっと相手に対しても愛情を持った目で見れるようになると思うんですよね。
今回は以上です。お役に立てたら幸いです。
今回もお読みいただきありがとうございました!