経験を軸に要素を取ることの弊害。

今回は経験を軸にして、要素を取る時に起こる弊害についてお話しします。


まず小難しい話はさて置くとして、皆さんは要素をどのように取るでしょうか。

サラサラと読んで気になったところをメモする。それもありそうです。一つの主題に絞っての要素を取る。読み手に配慮する、そういうやり方もありそうですね。


まあ他にもあると思いますが置いておきます。要素取りは、大抵向き合うのは相手の文章だと思います。そりゃそうですよね。相手の考察を纏めるのですから。相手の文章から、要素を取得していくはずです。


さて。ここからは小難しい話になります。

その要素の取得というのは何により、為されているのでしょうか。多く、取得する要素の判断や、取得した要素の扱い方というのは、勝手に行われることだと思います。勝手にというのは、自分の気付かないところでという意味です。


ということは、僕たちが普段書いている考察の多くは、自分でも気付いていない感覚が影響しているのでしょう。


そしたら不思議ですね。一体、何が自分の判断に影響を及ぼしてるのでしょうか。


少し例を交えていきますね。

目の前に、アンパンがあったとします。

そのアンパンを見て、ある男性はアンパンマンを思い浮かべました。

対して、ある女性は普通のアンパンと捉えました。


目の前にあるのは一つのアンパンですが、人によって解釈の仕方が違います。これは何故でしょうか。簡単に言えば、男性はアンパンマンを知っており。対して、女性はアンパンマンを知らなかったということです。


これを人狼に当てはめてみましょう。アンパンマンを知ったことで、アンパンをアンパマンと判断できるのなら。人狼の動きも、人狼の動きを知らなければ、人狼の動きだと判断することができないわけです。


この辺りは、皆さんも周知の事実かもしれません。知らなければ判断はできませんしね。


本題はここからです。さて。このように、自分の経験で判断が行われるということは、どのような弊害が起きると思いますか?


自分の経験で判断するということは、自分と同じ経験をしたことない人には、経験が当てはまらない可能性というのがあるのです。


向かい合うものが、人ではなく物なら良いかもしれません。物は常に情報が固定されています。失敗をしないという点に重点置くのなら、自分の経験を軸にして判断すれば、大凡失敗というのは減るでしょう。


しかし人を考察するというのは、固定されてない情報を如何に探り、組み合わせていくのかということです。経験を軸にして見るということは、人を物として固定し、容易に判断を行ってしまうということです。


そしたら、どうなるでしょう。

論法として、自分はこのような経験をしてきたから、相手はしてないのはおかしいとか。このようなことがあったから、相手はこうだとか。大抵、相手のことを真に見てない、考察になってしまうと思います。


こういうのは恋愛でもあると思います。

相手の態度がぶっきらぼう。また仕事も忙しい。私の話をあまり聞いてくれない。


この三点の情報と、自分だったらこうするという経験を組み合わせて。相手は、私のことを嫌ってるとか。もしかしたら、愛は冷めたのかもとか。そんな、判断をしてしまうかもしれません。


でも事実はそうじゃないかもしれません。

仕事があまりに忙しすぎて、イライラし過ぎてたとか。イライラしてる最中に、彼女と話してしまうと、彼女に当たってしまう。だから、今は話さないでおこうと、実は彼女に対して気を遣っていたりとか。


真実は、思っていたなとは違った、というのは恋愛に限らずたくさんあると思います。


しかし、取得する情報に自分の経験などを重ねたりしてしまうのが人間です。人狼においてでも、相手にはリアルの事情があること。感情や今までの人生があること。そのような、言葉からは見えてこない情報というのを疎かにしがちになってしまいます。


言葉以外から情報を取得するというのは難しいことです。相手の見えない事情を思いやる優しさも必要です。誤解した時の、恥ずかしさを恐れない勇気も必要です。


しかし、情報は言葉だけではないのだと。自分の経験知から起きる判断を超えていく覚悟ができれば、出来ることだと思います。


是非、様々な方に言葉以外の部分から、情報を取得することをしていただけたらなと思います。


今回もお読みいただきありがとうございました。