心の火山が噴火する時にこそ、人の気持ちに目を向ける。

こんにちは。

今回は、怒りに震えそうになったときには、どう対応していけば良いの?ということについて、書いていきたいと思います。

 

僕はよく人狼をやっているとき、怒りの感情を感じることが多かったです。

自分はこんなに頑張って考察してるのに、何で誰も認めてくれないんだとか。

自分は貴方のことをもっと知ろうとしてるのに、何でそんな高圧的態度を取ってくるんだとか。

 

時にはそんな感情が爆発して相手の事を責めることもありました。

ただ大抵は、良い子ちゃんを演じてそんな感情を隠していたと思います。こんな自分を人様に見せられるわけがない、隠さなきゃという感じで。

そうすると、自分の本音を隠してるわけですから、大抵の時は苦しいです。

それに相手に対して、燃えるような怒りを感じてるので、文書を読んでも柔らかく理解できなくなることも多く、一方的な判断を叩きつけることが多かったです。

 

すると、相手を全然理解できずに考察してしまうことも多くなり。結果的に考察自体も当たらなくなり、その度に自己嫌悪に陥っていたと思います。

理想としている考察が、怒りの感情などによりできなくなることが、自分にとっては本当に耐えられなかったんですね。

 

耐えられなくなると、どうしても、もっともっとと自分に違うやり方での考察を求めることになります。でも、不思議なことに、僕の場合、やり方をいくら変えても、一方的な判断をやめる、ということはできなかったんです。

だから、いくら努力しても自分の理想とする考察には辿り着かなかった。

 

 

話が変わりますが、そもそもで考察をする目的というのは何でしょうか。

僕が思うには、人外を吊るためだと思います。

人外さえ当てられてれば、考察内容は何でも良い。

しかし、たとえ合理的に考えた時、考察内容が何でも良いとしても。どう考察するか、どう相手を見ていくのか、という過程を通って、生まれた考察内容には大きなロマンがあると僕は思うんですよね。

 

だから、どうせ考察するのなら、結果を端に避けて、楽しんでやりたいと僕は思ったりもします。

 

 

さて。そうなると、ロマンを追い求めるためにも、怒りの感情とは上手く付き合いたいですね。僕の場合、怒っているときというのは、相手の言葉というものを自分の辞書で判断していたことが多かったように思います。

 

冷静な時は、この書き手の人は、ログにある文章のこういう言葉に対してこう感じたんだな。だから、こういう風な言葉を使って文章を書いてるんだなと。

冷静な時は、書き手の人の捉え方を、余裕を持って認められるんです。

だから、相手の事をより理解しやすくなる。

 

でも、怒っている時は、書き手の人はこう感じたと言ってるけど、そもそもでそれはこうなんじゃないの?と。書き手がこう見て"から"こう感じた。という、〜からの部分を認められずに一方的な判断をすることが多かったです。

 

こうした判断のポイントは人によりけりかもしれませんが、僕の場合は、どうしてもっと情報を付け足した上で考察しないの?というポイントで、怒りを感じることが多かったように思います。

 

 

じゃあその上で僕がどうしたのか、というお話をすると、とにかく相手の気持ちに目を向ける事を意識しました。相手が文章を見てこう感じて、そこで相手をこう捉えたから、こういう文章を書いたんだな、という過程を大切にしたんです。

 

ただすごく難しいんですよね。だって、相手の文章を見れば、条件反射的に相手の事を判断したくなります。怒ってるときなら、尚更、過程を大切にするという優しさなんて持ちたいと思わなくなります。

 

だから、僕の場合は、難しいからこそ、緩和策として、情報という観点で仕分けるようにしました。要は、この方の文章を見ると、〜という結論を出しているが、僕からすると情報の取得が甘い気がする。ただそれは、この人がログにある文章の中のある言葉を取得して、その情報を軸として結論を出してるからだな。

 

といったように、書き手の結論が、ログの中のどの言葉を情報として含んで出されているのか、というのを意識して見るようにしたんです。

 

そうすると、この情報を取得したときに、この人の中での出される考察の限界はこの辺りなのかなと、認めることができるので、相手の事を否定することが減るんですよね。結果的にも、相手に対する理解が進み、相手の感覚という辞書で相手の文章を読みやすくなるんですよね。

 

 

とまあこんな感じで。

今回もお読みいただきありがとうございました。