圧倒的な武を感じさせる雰囲気を文章で出すには。
こんばんは。
今回は少し題材を変えて、一騎当千の武将のような雰囲気の文章を書くにはどうするか?ということについて書いていきたいと思います。
このような独特なテーマは、今まで避けていた部分なので、非常に緊張と腹痛を感じています。トイレに行かず、無事なまま書き終えられるかな笑。
さてさて。戦場って聞くと、どんなイメージを持つでしょうか。
僕は死が浮かびます。生きたいけど、生きれない。死にたくないけど死ぬかも。
自分のしたいことなど、何もさせてもらえないような感覚です。
僕は戦場に立ったことがないので、想像の範囲でしか考えることができませんが。
戦場に立った時というのは、生きたいという気持ちに対して、殺されるという感覚がぶつかり合うのではないかなと感じてます。
そうして、生きるための選択に、恐怖が付き纏う、という非日常的な感覚を強く感じるのではないかなと思っています。
自分の中の生きるという選択と、相手の中の生きるという選択がぶつかり合い。
お互いに戦場である以上、相手を殺すという選択肢しかない。
ということは、生きるという選択を結果にするには、殺されずに殺すしかなく。
そうして、生を得るために2つの条件がつき、常に恐怖感を感じる状態になるのかなと思ってます。
さて。今のところトイレに行っていません笑。というか楽しく書けてます。
まあそれは良いとして。これを人狼ゲームで例えるとどうでしょう。
死というのは吊りとして捉えられると思います。
人狼の場合、初心者の方が吊られることを意識するのは、恐らく、各々が吊り先を提出するようになってからだと思います。
ここで、ようやく、自分が発言できなくなる何かがある、という感覚で吊りという概念を捉えるようになる思います。
そうして、発言できなくなるのは嫌だからといった前提から、吊られないためにどうするかというのを、考えるような形になるのかなと。
人狼と戦場とでは感覚と対象が違いますけども。
自分の主体的な選択を拒む、他の誰かの選択があるから、自分はこうしよう。自分が相手の選択によって、この選択をせざるを得なくなるのは嫌だから。といった論理展開の部分では、共通しているのかなと感じています。
まあ何で、こんな話をしているかというと、生と死。人狼で言えば、生と吊。という概念はイコールだと思ってるからです。
そうしてイコールだからこそ、ここの論理展開を丁寧にやっていくことで、一騎当千の感覚が分かるからです。
なぜイコールなのかはこれから説明していくとして。話を戦場に戻します。
生きるを手にするには殺すしかない。
そう悟った人物が、1度目の戦を、何とか乗り切ったとしたらどうなるでしょうか。
恐らく、死線を乗り越えたことにより、選択の内容が変わると思います。
戦場での死という概念が、生きることに対しての選択を生ませるのならば。
生き残った人物は、生を手にする感覚を得たことになる。
ということは、限定下において、戦場が死の場ではなくなる可能性が高い。
なぜなら、相手の生の選択とは関係なく、自らが生の選択をできるということ。
なので、選択と結果がイコールな訳なので、恐れが消える。
勿論、これは相手と自分の力量が同じ場合のみだろうけども。
とすると、自らの力量が相手の力量を上回ることをしていたとき。
自らが死という選択を選ぶ状況は一切なくなる。
ということは、どういうことか。
最初の話に戻りますが、生きるためには殺して殺されない。
そんな時の心理状態ってどんなものでしょう。
きっと恐れや不安や怖さや絶望や。もう色々な感情を感じるでしょう。
恐らく、周りも全く見えてないでしょう。
文字通り、生きるのに必死。そんな状態だと思います。
しかし、そんな心理状態の中、戦場において、生き抜けることが当たり前みたいな雰囲気を持つ人が居たら、どうでしょう。
きっと、めっちゃ恐怖だと思うんですよ。
めっちゃ背筋ピンとしてるわ。めっちゃ綺麗に剣を振るうわ。
なんか、めっちゃ突っ込んでくるわ。恐怖でしかないと思うんですよ笑。
あ、今のところトイレに行ってませんよ笑。なんか楽しい笑。
まあそれは良いとして。
これを人狼で例えるとするのなら、吊られないためにどうするか、というのを必死に考えてる状態だと言えると思います。
疑ってきた人に、突っかかるとか。
自分の情報を、脈絡なく場に提示するとか。
恐れに満ちていて、その恐れが現実にならないように、発言を通して調整しているような、そんな状態だと思います。
こうした時って、他の人からどう見えるでしょうか。
きっと、何かしらの違和感を感じると思います。
だって、その人の、その言葉を理解するための情報が、その人の中にしかないような状況ですから。
大元の目的から逸れるような。その人の世界観に引きずり込まれるような。
そんな、異質な感覚に至ると思います。
ということは、他の人がそうした文章を見ても、こいつは圧倒的だなとか。勝てないなとか。そうした感覚を感じることはまずないわけです。
さて。ではどうしましょうか。再度、話を戦場に戻しますね。
戦場において、ある程度死の葛藤を超え、自軍の最終目的を意識できるようになるとどうなるでしょう。
選択が変わるので、必然的に行動も変わってくると思います。
すると、その人の選択は、その目的を達成するにはどうするか?という範囲の中から行われることとなり。その目的を達成するに当たって障害となるのは、どいつだ?一体何なんだ?といった風に、発想が向いていくわけです。
とすると、個を見るよりも集団を見るようになり。
例え、個を見るとしても、戦況に大きく関わるような人物を見るようになるのです。
したら、自軍から見ると頼れる存在となり。
敵軍から見ると恐れられるような存在になると思います。
なぜなら、国としての目的があるから戦をやるわけですからね。
これを人狼に例えるとどうなるでしょうか。
どの陣営も最終的に得たいのは勝利なわけです。
そうしてその勝利に向けて、ひたすらに行動する。
例えば、人外側の油断がでやすい、初動や更新開けを注意深く見るとか。
村側にとって良い結果がもたらされた時に、各々の反応を注意深く見るとか。
動揺等々で嘘が出やすい、上記の状態を観察するのは、目的と論理的な関係性にあるわけです。つまり、めっちゃ頼れる人っであると同時に。
その人を根本の目的を通して理解することができるので、理解しやすい人であるわけですか。
た…だ……。これだと、頼れるけれども、じゃあ圧倒的な凄みを感じるような。また逃げ出したくなるような雰囲気に繋がらないわけです。
だって、これじゃあ、わかりやす過ぎて、その人の底が見えてしまってますからね。
その人の底が表面に現れているのであれば、それに対して自分はどうするか?という向き合い方のみで良いわかですからね。
ということで、話をもう一度戦場に戻します。
ここまでこんな長ったらしく書いたのは、ようやくここで繋がります。
長い文章を、ここまでお読みいただきありがとうございます、もう少しです。
ついでに、腹痛に襲われることなく書けてますぜ!やった!
最初に死と生はイコールだと書きました。
なぜなら、死を意識することで生を意識するからです。
ということは、圧倒的な生を感じさせる人物に対して、圧倒的な死を感じるわけです。
だって、それだけ生を熟知してるということは、その反対の死も熟知してるわけなので。要は、相手は死なないから俺は死ぬみたいな感じです。
さて。そんな人物ってどんな人物でしょう?
軍の最終目的を意識している人でしょうか。
いや、そういった人は、一人一人の人間には目もくれないでしょう。
じゃあ戦を楽しめる人でしょうか?
それも近いと思います。
ただ楽しみは制限なく自分を表現できる時に感じるものなので。
楽しいのみだとちょっと違うのです。
どうしても、自分固有の情報のみで自分を表現することとなり、情報取得が甘くなってしまいますから。
とすると、どんな人かというと、常に目の前の人と向き合い続けられる人だと思うのです。それもただ向き合うのではなく、軍の最終目的もちゃんと知っていながらも、目の前の人と向き合う人。そんな人だと思うのです。
なぜなら、一人で戦況を変えられるような、勝利を自軍にもたらせるような力を持つ人が、自分と対等に向き合ってくるって恐怖そのものでしょう?
だって、自分と向き合う必要などないわけですから。
人は目的の見えない行動に対して恐怖を感じるわけです。
なぜなら、自分の選択が危ぶまれると感じるからです。
それに、そんな人に対しては、とても強いとか。絶対に勝てないとか。そうしたイメージを抱きやすいですから。
自分が生を手にする選択を選べる自信など持てるわけないんです。
そうした圧倒的な絶望を感じさせられたとしたら、逃げたくなるでしょう笑。
さて。これを人狼で例えると、どうなるでしょうか。
人狼において、逃げたくなる、といったような感想を相手に抱かせるには、まずはどれだけ自分ができるか示すしかないわけです。
この場合は、自分が最終目的に沿った行動をしてますよという形。
それを示して初めて、人がこの人は勝利のために行動してると捉えてくれる。
その条件が揃ったところで、徹底的に一人一人と向き合う。
人狼ならば、その人のある程度の性格や言葉のパターン。また把握できるなら、その人の限界値を把握し。
限界値を軸として、その人のありのままを捉えていく。
そうして、その人固有の人外要素をその人の文脈で導いていくこと。
抽象的ですけど、こんな感じかなと思ってます。
ただ、向き合うだけではダメなんですよね。
こいつ、なんのためにこれをやってるの?となりがちになってしまう。
特に、男性的な人にはそう見られやすいです。めっちゃ合理的なんで。
逆に、合理的過ぎても、ギリギリの勝負だと微妙になると思います。
底が見えてるので、こんなものかなとなってしまう。
だからどちらの条件も必要かなと思います。
なんでって、まず思わせることが第一条件だと思うので。
まあつらつらと書きましたが、結局のところ、一人一人がどうなるのかに責任しっかりと持つことかなと感じます。
しっかりと、自分の手で相手の選択を変えてしまうことを意識すること。
だからこそ、相手のどんな細かい情報も見逃さないようにするし、相手と自分を同一のものとして捉えようとするんだと思います。
できるかできないか置いておいて、その人の人生を全部引き受けて受け止めるような覚悟。そんなものなのかなと感じます。
まあ自分もそんな人間にいつかはなりたいと思うものです。
今回書いて思いましたが、この感覚は中々に心地よいですね。
自分が全てと感じるものを出したからこそ、感じられる反省点や修正点。
人狼の時に自己表現して反省しての繰り返しの日々を思い出しました。
やっぱり、僕はこれが好きなんだなと感じます。
まあただ修正するところは多いかなぁ笑。
もっと簡潔に纏めたいですし。まだまだ噛み砕ける。
あとはもうちょっと分かりやすく書けるかな。
まあ感覚の言語化はずっとやってきたことだから、書き続けていくにつれて、効率化を図りたいものです。感覚派は辛いものです笑。
今回もお読みいただきありがとうございました。