まめまめ。

思ったのは、孤独感という感情が、重要だったんだなと。

 

さっき、自己嫌悪から生じる、怒りや破壊的な気持ちなどから入っていって、

どんな人にでも怒ることや破壊的な気持ちが生じる可能性があるというのを投影していたところに行き着き、そうして、そのきっかけを作らないように、自分の影を消そうとしている自分がいることに気付いた。

たこの時、主体性の感覚を抑圧しているみたいなので、誰かの判断に物凄く傷ついている自分がいることにも気付いた。

 

こっから結局、入っていたのは誰も助けてくれなかった、誰も救ってくれなかったし気付いてくれなかった、だから自分には味方が居なかったんだの気持ち。

そうして、壮絶な孤独感に入ったなというのを強く感じた。

 

今までは期待するという形や、怒るという形でその孤独感を抑圧してた。

でも蓋を開けてみて思ったのは、味方なんてどこにも居なかったじゃん。自分の感じていた気持ちを感じていた人なんて誰もいなかったじゃんと。

 

結局、人は1人だし、1人でなんとかしていくしかないし、1人で自分のことをわかっていくしか道はないんだなという感覚に行き着いた。

膝を抱えた自分がなぜか歩いているし、人と話している、そんな、蹲っている自分を隠して生きてきた、というような孤独な気持ちを感じた。

 

ただそこに入って思ったのは、それはある意味で事実だった。

1人で自分のことをわからなきゃいけないのも、結局1人で切り開いていかないといけないのも事実。人は、大抵人のことはわかってくれないし分かれるものでもない。

 

でもその事実をただただ孤独感を持って受け入れると、不思議と少しでも分かろうとしてくれたこと。少しでも優しくしてくれたことが、とんでもないとほど、大きな愛だったことに気付く。孤独な中でもこうした愛は注がれてたんだって。

 

 

 

 

そうして思ったのは、大人になるっていうのは、こうした孤独感を自分の中で受け入れて、その上で人の愛を受け取るということなのかなって。

孤独感を受け入れることができない時、自分の場合は、人に対してなんでわかってくれないんだという不満を、知らずの内に強く持っていた。

 

この不満は、人の距離を作り、人生の流れの停滞を作るなと感じた。

 

 

またもう一つ思ったことがある。

それは、したいという感覚って本当に大事なんだなと。

本来、怒りに対して怒りがぶつかるものだし、殴るという行為に関しては殴るという行為がぶつかるもの。 

 

人はみんなしたいという気持ちを抱えているのだから、殴られたら殴り返してそれを止めないと、したいの実現の道はなくなる。だから殴り返す。 

けど、自分の場合、この感覚がなかったのだろうなと。

 

受け止めてもらえなかったことで、したいという気持ちは誰かを不幸にすると罪悪感を抱いてしまったのかなと。ここは、まだ想像の範囲だけど。

 

でもそう思ったりすると、やっぱり同じエネルギーでぶつかれるように、まずはしていくことかな。そうして、したいの感覚を大切に守ること。

そうしてその相手のエネルギーを自分のエネルギーの受容を通して捌けるようになれば、同じ土俵で戦わなくてよくなるはず。

 

あと思ったのは、このしたいという部分がどこかを感じ取り、それに対して人はどう行動したりしているのか、という観点から罪悪感を感じるのかなって。

この人は自分のせいで本当にしたいことをできていない的な感覚。

 

とりあえず、したいを大切にすれば良いと気付けたからなのか、幸せを感じるし嬉しいなって、これから楽しみだなって思えてくる。

同じエネルギーをぶつけた後に、どんな答えが待ってるのか、どんな景色が見えるのかめっちゃ楽しみだな〜!