一旦、纏め。
勝ち負け、という競争の感覚はやはり大切だなと感じる。
細部を感じ取る繊細な感覚は、競争の感覚がないと、
身近な不安や恐れというものに変わってくるような気がしてる。
いじめられた自分に対して弱いと見なしていた感覚は、ある角度から見ると事実だったなと感じた。もし、敗北すなわち死であったとしたら。
いじめられていた自分というのは狩られる側であったために、客観的に見た時に、弱者という表現になり得ることもある。
もちろん、ここは心の側面のアプローチをなくした場合の視点。
しかし、男性性を引き上げるには、弱いという事実を、やはり受け入れる必要があるなと。君は弱いんだって、生き抜けなかったんだって。
もしそれが、戦場だったら?
もし相手が、感情のままに殴り倒すタイプだったら?死んでいたよねと。
冷酷であり残酷であるが、この事実に入らないと
どんな状況でも手段を厭わず、生き抜くという感覚が入ってこないなと感じた。
そしておそらくこの感覚が入ってこないと、
どんな困難だろうと、この状況を打破する手は必ずあるの視点に向かわないはず。
実際これに近いワークをさっきやってみたけど、
やはり心の中で一旦、死を迎えるなという風に感じた。
やりたかった自分の気持ちというのは、誰かの言葉により実現しなかったし、誰かの言動により、もうできなかったと感じた。
それはすなわち角度を変えれば、そのやりたいの感覚を感じていた自分はかつて生き残ることができなかったということ。だから死を感じるのだろうなと。
そこに入って、絶望に入り、ここで自己否定が見つかり、
恐らく、これが自己否定し続けるというパターンになってたのだと思う。
そうして次に、怒りや憎しみと同時に、やりたいとかしたいという、繊細な気持ちが浮かび上がってくるなという風に感じた。
そうすると、大概死んでいた感覚が情熱と共に戻ってくるなと。
どんな手傷を負ったとしても、たとえ死にそうになったとしても、
やりたいという思いだけは、何があっても貫いていくという信念に繋がるなと。
と考えると、やはり、死と生はイコールなのかなぁと感じる。
ここから考えられるのは、問いかけとして、
・結果が出なかったら、死が待ってるとしたらどうする?
・ここで負けたら、死が待ってるとしたらどうする?
といったような死を含んだ問いかけは、本当はやりたいのにやりたくないと思ってることを、引き出すのに役立つだろうから。
これで、ひとまずやれなかった自分を引き上げて、やるに変えていくこと。
これで、傷を乗り越えた自分と、やるを信念とした自分が出来上がるはず。
そうして、これが、状況や状態問わず、やり抜くという力に変わるはず。
いじめられていた時にも、脱する手段というのは他にも恐らくあった。
しかし、自分の場合、耐える我慢するという選択肢を取った。
これは、恐らく、殴るとか殴り倒す〜とか、徹底的に打ちのめす〜とか、
そういった相手の今後がどうなろうとも俺は生きる、俺は何かをやるために、いじめから脱する、という感覚が、親との間で傷ついていたのだろうな。
恐らく、親父がすぐ切れる人だったとか。暴言をよく吐いたりするような荒っぽい人だったというのは、強く関係しているのだろうな。
いじめられていたとき、殴るなんてとんでもないとと思ったり。
もし殴って喧嘩して、自分が大怪我したらどうする?それこそバカでしょと思ったり。俺よりもあいつのが強いし、俺はいざとなったら殴れないしとか。
そういったできない、乗り越えられない情報ばかりを取得してたのは、
乗り越えることで不都合な何かがあったのだろうな。
要は、その乗り越えようとする感覚を持ってる自分が死んでいたので、
乗り越えた先には死しか見えないといった形だったはず。
だから、こうした死に繋がるような情報ばかりを取得していたのだろうな。
そう考えた時に、今後どうしていこうかな。
この何があっても乗り越えるという男性性は、理解や受容という女性性を使うことで、俺はこの状況を乗り越えるけど、自分も相手も幸せになるような形で抜けていく、といったような方向へと変わっていくはずだと思う。
とすると〜、
ひとまずはいじめの体験を変えること、父を超えることかな。
ここでの超えるの意味合いは、彼らが俺に何をしてこようが何をいってこようが、俺はやりたいことを貫いていく。たとえ、そこで俺がどうなろうとも、その意思だけは貫く、という姿勢を作ることかな。
ひとまず、これを繰り返そうか。ここは結構未知な感覚だなぁ。
死の感覚と絶望があるからなのか、嬉しいや楽しいが湧いてこない。
湧かそうとすると、いやまだ乗り越えると決まったわけではないと感じるし。
とりあえず、今日でここを乗り越えようー!