自分のペース、休むという感覚。

最近、僕は本当に楽しみにしていたことの直前になって、体調を崩したり、精神的な調子を崩したりしてしまうことが多い。

 

そうして、いつも直前になってキャンセルをするということがある。

ここ1ヶ月ほどで、それが二回ほどある。今日も二つキャンセルした。

なので、絶賛、絶不調である。

ただパターンが見つかったし、書き記しておきたいなと思う。

 

 

僕は、昔から、いや特に最近傾向として強いなと思うのだが、人に自分のために時間を使わせるということに、非常に非常に罪悪感というのを感じる。

少しでも、自分のために時間を使わせるという形で迷惑をかけたくないと思う。

だから、あまり人を頼りたくないし、人に弱みも見せたくない。

 

頼った時や弱みを見せたとき、人はそこに対して愛を持って接してくれる。

でも、その時に、少しでも時間を使わせるのが嫌だなと感じてしまう。

必ずそこで見せる弱さというのは、自分が様々な手段を用いることをすれば、解決できることがほどである。心のパターンが、問題でその弱さが生まれてくるのであれば、心のパターンを自分で治せば、その弱さは受容され、選択肢として人に頼ると違うものが生まれてくるから。

 

といってもこの自立的な思考パターンだと、問題が生じる。

非常に打たれ弱くなってしまうし、人と会うのが億劫になってくる。

時間を使わせたくないという意識を持つということは、人がもし自分に期待を持って接してきたとしたら、その期待に応えようと常に思うということ。

 

それは責任感というものであり、非常に大切なものであるが、誰に対してもこの責任を果たそうとすれば、当然心は潰れる。僕の場合は、父の遺伝だと感じるが、この責任のパターンというのは非常に強く持っている。

 

また、この時、どういった思考が生じるのかというと、

人が僕と話して僕と関わって良いものが得られたのか?楽しかったのか?

そういったものを、人によっては気にする形になることがある。

僕の場合はこの傾向が強い。

だから、少しでも不快にさせたしまう、少しでも機嫌悪くさせてしまう。

そう感じてしまうと、一気に罪悪感の海に思考が沈みそうになる。

これはもう、幼き頃からのパターンなので、パターンを変えるまでは仕方がない。

 

 そのため、キャンセルなどをするときに、どのような思考が形成されるかというと、本当はキャンセルせずに参加していれば、問題なかったはずだ。

別に体調が悪くても、相当悪くなければ、普通に楽しさは作り出せるし、実りのある体験にすることはできるだろうと。

 

といったように、まず人が喜ぶかどうかを最初に考えて、そこで喜ばないとしたらなんて俺はダメなんだ、という思考になっていく。つまり、少しでも人が喜ばないようなイメージを避けようとするため、自分のペースが形成されなくなる。

 

だから、人と会話するのも人と会うのも非常に苦手だし怖いのだろうなと。

特に二回目からは嫌だと感じる。前印象が残る以上、次からは接してくる距離感や話す話題というのが変わってくる。そこで、こうすれば良いんだろうなというのが感覚的にわかる以上、それができない自分が申し訳なくなってくる。

 

そうして、自分の場合、この誰に対しても良い顔をしようというような、八方美人的な責任感というのが、直前でのキャンセルのパターンを作ってるなと感じる。

大概、この直前になって感じる感情は楽しみである以上に、行きたくないと感じる。それは、誰かが自分に寄せてくる期待、君はこうだよねとか。君はこういったことをできるよねとか。そうした期待を考えると嫌になってくるのだろうなと。

 

だから、体調や精神の不調を作り出して、行けない理由を作り出すのかなと感じた。

ただそうはいってもキャンセルをしたこと、また体調不良でキャンセルしたのにこうしブログを書くことに、申し訳なさを感じる自分もいる。

それがバレたらどうしようとか、どう説明しようとか。時間を煩わせ、僕のために労力や愛を使わせたというのに、自分はこの頽落か、といったような感覚がある。

 

まあ、これはパターンだからしょうがないとは思うが、このパターンを持っているうちは、自分に休むことを許可を出せず。

また休むことに許可を出せないということは、誰かのために動き続けるということなので、自分らしさが欠けるだけではなく、自然な笑いや楽しさも減るはず。

 

だからここで求められるのは、如何に休むことを許可できるのかということ。

それは同時に、誰かに迷惑をかけたり、時間を使わせる自分になること。

誰かに自分を愛させることでもあるのかな、信頼することでもあるか。

 

休みを許容しないときというのは、焦りの感覚も同時に感じている。

自分はこんなんで良いのか?これではまた同じ繰り返しをするのでは?また他人にこう言われるよ?と、罪悪感の層にハマり、焦りの感覚を感じている。

しかし、この時の思考の主軸というのは、他人となっている。

だから、この焦りというのは、自分をさらに苦しめる方向に向かあわせる。

 

つまりこの時に、1.3.5.10年後の自分を見越して、今どういう選択をするか?と思うことができるのかが重要となってくる。

先の未来を見越して選択するということは、自分に対する信頼と肯定がなければできるものではない。今多少の失敗や迷惑をかけたとしても、自分はこうなれるから、今は自分のことを大切にしようと思えるかどうかとなる。

 

もちろん、その上で、他人軸の時に生じる罪悪感をちゃんと感じて、他者に配慮ができたら、尚、良いよなと感じられる。

相手の誘ってくれた気持ち、主催してくれた気持ち。

また他の作業よりも自分のことを優先してくれたこと、時間を使ってくれたこと。

少しでも、相手がより良いものを感じられるような選択が同時にできるかどうか。

 

誘ってくれて嬉しかったよとか。ごめんね、でも本当はすごく行きたかったとか。

相手の誘ってくれた好意に、ちゃんと嬉しかったよって形で受け取るとか。

 

良い時間を過ごせるよう祈ってます。楽しいものになると良いですね、など。

相手が感じた残念だなぁとか、キャンセルされると色々やることあるんだよなぁという気持ちに対して、少しでも活力や、やる気を与えたり。

自分の至らなさで時間を使わせるのだから、少しでも、参加する人や主催する人を勇気づけるような前向きになるような言葉をかけたりとか。

 

そこまでする必要はあるのかなぁとか、実際のところどう感じられるのか。

というのは、僕もまだ愛を受け取ってないからよくわからないけど、でもミスしたりして罪悪感を感じた時の対処法としては、一つありなのかなと感じる。

 

そうした上で、主軸が何年か後の自分であれば、きっと、相手の期待に強く答えようとはしないはず。なぜならば、自分が輝いていて、そしてその輝いてる姿を相手が見て、喜び幸せを感じてくれるのが確信できるだろうから。

 

こうやって思うと幸せを感じるんだよなぁ。

あとはアドバイスとか、人が作ったルールとかに従うということに対する拒否感拒絶感がどうなるかだよなぁと。こかも多分、自分の場合は母との癒着からくる、拒否感だったりさるんだろうけど。