愚痴や文句って才能として使えるな。なる。
ふとお風呂に入りながら思ったのだけど、怒り、愚痴、文句、批判、見下す、バカにする等々の感覚というのは、才能として使えるなと感じた。
僕はこれらの感覚はめっちゃ嫌ってた。
良い子のパターンがあるので、どうしてもこの感覚を使うのに抵抗があった。
そんなこと言っちゃダメだよ〜とか。
そんなこと言うなんて最低だし、人としてどうなんだよみたいな感覚を持ってた。
だから、文句とか愚痴とかを聞くとめっちゃ嫌な気分になることが多かった。
その度に、それすらも許容できない俺最低だなぁとか。
これ完全に投影なんだよなぁ、俺が愚痴とか文句を潜在的に持ってて、でも抑圧してるからこそ感じるんだよなぁ、とか思ってた。
でさっき、この感覚って使えるなってピンときた。
そもそもで愚痴を吐いたり文句を言ったり怒りを表現したりするには、
前提として自分の何かを少しでもよく見てないと、口に出すことはできない。
愚痴とすると、僕の場合なら、すぐに機嫌が悪くなる自分を許容できてないので、本当にすぐに機嫌悪くなるやつって最低だよなぁ、こっちは何もしてねぇってのに、こっちの気分が悪くなるわ。と感じたりする。
そして、このとき、この愚痴というのは、すぐに機嫌が悪くなる自分を感じていたら、吐き出すことができない。
何故なら、すぐに機嫌が悪くなる自分が、すぐに機嫌が悪くなる人の愚痴を吐いていたとしたら、共感してもらえないし、自分の辛さを分かってもらえないから。
そしてこのとき、自分はすぐに機嫌が悪くなる人物ではないという形で、自分に対してプラスのイメージというのを持つことができている。
つまり、愚痴を吐けるということは、自分はそんな人じゃないという、肯定を自分に対してできている状態。
他の文句や怒りに関しても同じかなぁと。
俺はこんなことしてるのに!と言った自らに対しての正当性や正しさといったような感覚がないと、相手が悪い、俺は正しいといった主張ができない。
しかし、このとき、自分は正しいといった形なのかもしれないけど、俺はこうしたことをしてるし、こうしたことをできていると肯定ができている。
だから、こうした誰かを責めたり、誰かを傷つける可能性のある言葉や行動というのは、見方を少し変えると、自分に対する肯定無くしては成り立たないなと。
ただ言われた方は、良い気持ちはしないと思う。
言われた方が、そういった言葉で引き出される感覚は、肯定できてない時の自分である場合が多い。
何故なら、相手は自分の肯定を軸にして話をしているのだが、物事が一面的に語られることなどない以上、肯定があれば同時に否定も引き出される。
要は、否定無くして肯定もないし、肯定なくして否定もないのだから、肯定だけ語られれば否定はどこにいったの?という意識が生まれ、言われた方は、その否定の部分を自らの自己否定していた時を通して理解する。だから不快感を感じる。
と同時に、愚痴とか怒りというのは危険性も含んでいる。
こうした言葉や行動というのは、自分に対する正しさや正当性といった前提を持って、展開されてることが多いと思うので、そうした前提が通用しない世界においては、脆く崩れさってしまう可能性がある。エリートは崩れやすいみたいな感覚。
状態や状況が違えば、自らも同じことをしてしまう可能性がある以上、ある意味で、正しさや正当性だけを主軸に行動などをしていくのは、その人にとっては、辛い現実になる可能性もあるのだろうなと。
だいたい、その正しさを持たざるを得なかった、悲しい寂しい体験の時に感じた感情と同じよう感情に行き着く可能性が多いんだと思う。
ただそうだとしても愚痴等々を吐くのはやっぱ必要だなぁと感じる。
持っていけないわけではなく、そもそもで持たないのは無理だと思う。
だからここでは、発想を転換できたらなと感じる。
言われた方の気持ちと、正しさなどからくる肯定のリスクを理解してない時というのは、愚痴や怒りを吐くことだけで満足したり、それを主軸にして行動してしまう可能性があると思う。
しかし、こういった二つの部分を理解すると、なるべく愚痴を吐いたり、怒ったりすることはやめていこうといった形に意識はシフトしていくはず。
自分と相手の幸せを強く望む人程、こう感じる傾向は強い気もする。
ただ、僕の場合だとすごく極端になってたよなと感じた。
人の気持ちと正しさからくる表現のリスクだけに目を取られ、愚痴や怒りの感覚のメリットに目を向けてなかった。
表現したりしてしまうと、確かに、あまり良くない現実が展開されるかもしれない。
でも抑圧しすぎると、正しさ等々からくる自己に対する肯定の感覚まで失うことになる。そうすると、中々自分に対する肯定感が引きあがらなくなる。
だから、感じることまで否定してしまうと、逆に本末転倒になると。
でそうやって、怒りとか愚痴の肯定感といったメリットに目を向けられると、誰かの愛を受け取る時に感じていた違和感に目が向いていくなと感じる。
受け取る時に感じている違和感というのは、僕の場合は、大抵、下に見られてるのかな?これをできない人と思われてるのかな?とか。あとは、俺なんかがこんなこと言われるのに相応しくないと感じてる感覚だったりする。
しかし、ここで愚痴などの肯定感のメリットを知っていると、
下に見られてると感じるということは、俺本当は、こんなことできてるんだぜ!って言いたいんだっていう視点に切り替えられるし。
俺なんかがこんなことを言われるのに相応しくないという感覚は、こんなことをしてしまっている自分は責められるといったような感じで、誰かに否定されたりして、誰かの肯定のエネルギーに潰された時があるんだなの視点に変えられる。
そうすると、自然と、俺は本当はこれだけの価値があったんだなぁとか、俺こういったことができていたんだなぁという肯定感へと変わっていくはず。
この肯定感だと、なんかあったかいし誰かに優しくしたくなる感覚がある。
そうしてここに入ると、人に対して与えていこうとか思えそうだなと感じた。
おそらく、受け取れない時の感情や、またそういったことを感じている時の攻撃性などに対する理解などが深まったために、落ち着きがでるからなのと。
あとは、受け入れない時があるだけではなく、愚痴とか文句とか怒りすらも未来の幸せに繋がる希望であり才能である、というのが自分の経験を通して実感できるはずなので、投影が変わり、不快に思われても良いや、それが相手のためになるならといったような感覚に変わっていったらとかしていく感じになるはず。
と同時に、そんなに与え方も独りよがりにならなさそうな気がする。
怒りや悲しみやまた愚痴などを受容できる形になるとは思うので、そこに対する配慮も一つの与え方だよねと自分を肯定できる感じに繋がる気がする。
ここはまだようーわからんけど。あんま悪くない感じになる気がする。
とりあえず、良かったかなぁ、今すごく自信を感じてる。無敵って感じ。
あ、何思われてもよかったんやんみたいな、とかく、自分の愚痴とか怒りとか嫌な部分に目をつければよかったんだなぁと、なんか幸せだなぁという感覚。
またこの感覚を通すと適当なことを言えたり、笑いやユーモアの方にも視点が向いて、自然と楽しいが増えるような感じになる気がする。