自分が先。

人の喜んでる姿を逆算してと考えたとき、でもそもそもで人が喜ぶ姿って何を元にしてわかるんだ?って思ったけど、これ自分の喜んでる姿からわかるんだなと思った。

 

だから、まずは自分の喜んでる姿、笑い楽しんでる姿、ここから考えていくことか。

俺、何書いたら、楽しい〜!って、笑ってるかなぁ〜。

 

自分が受け取ってる時、やっぱり味わってる時だなぁと感じる。

食事に関しても、ただ食べている時は、作業的な感じで楽しくない。

 

でも、どのくらい暖かくて冷たいんだろう。食感はどうなんだろう。

味わいはどんな感じだろう、噛み具合によって味は変わるかなぁ?

あ、変わった!めっちゃ上手いわ〜!こうやって上手くなるんだなあ!と。

興味を持ったとき、興味を持って何かを発見した時、食事は楽しくなる。

 

あとは、この食べ物を作った方は、一体どんな想いを込めて作ったんだろうなぁ。

どこを気を付けて、どこに細かく神経を尖らせて作られたんだろう。

そこにはたくさんの愛や思いが込められてるんだろうなぁとか。

作った人の思いや、また作られれてから運ばれたりした時のことにイメージを馳せると、より食べ物が美味しく感じられたり、ただ感謝の念が湧くから、楽しくなる。

 

でも自分なんて、っていう思いがあるとき、この食べ物が自分に与えられたものではなく、この食べ物も自分の元にきて、不幸だろうなぁと思ったりするだろうから、その食べ物を自分を喜ばせてくれるものとして、みなすことができないはず。

あぁ、だからこの食べ物やこの相手は自分のことを喜ばせてくれるものという前提が大事なのかな。

 

そうして、あとはなんだろう。

ああこういうの記事にしても良いのか。食べ物買ってきて。食べログ的な。

そういうのも、自分が楽しいと感じるものの一つかな。

 

 

でもなんかが、奥歯に詰まってるような気がする。

前から思ってたのだけど、小中高の時に勉強したところに可能性がある気がする。

前々から、あの時の授業や勉強の、楽しみ方を見つけたいなってずっと思ってた。

歴史にしても、古典にしても、数学にしても、楽しめたとしたら、人生の幅は広がる。やることは増える。というか、ここが楽しめたら何やっても楽しいはず。

 

資格とるのも、資格とるに向けて勉強するのも、学ぶことも楽しいだろうし。

それを誰かに説明したり、解説したりするのも楽しいはず。

俺ここがずっと奥歯に引っかかってたんだなぁ。

ずっと楽しいみたいと思ってたけど、楽しめてなかった。

そうして、そこを楽しんだらスポーツも趣味も全て楽しめる気がする。人生変わる。

 

なんでだろう、なんとなくそんな感じがする。学校教育を楽しめたら無敵だなと。

じゃあ、やる。学校教育を今から楽しむ。無限大の楽しみを見つける。

多く、展示されたり、人々を楽しませているものの根本にあるのは、学校教育の時の感覚のような気がしてる。だからこれを取り戻すことだろうな。

そこに、ユーモア的な感覚もあるはず。国語力の部分でもあるかな。

 

あれでもそう考えると、今までにないくらい楽しい。なんでだろう。

俺、学校教育が好きなのかな。それとも勉強が好きなのかな。

まあいいや。やってみる。ここで楽しみ方を見つけた自分を望む。