罪悪感と男らしさの関係性。

いじめられた当時の怒りの感情と向き合っていたのだけど、

その時に、誰かを自分の未熟さゆえに傷つけたり、苦しめてしまった時のことを思い出したりした。しかし、その罪悪感から今まで逃げていたのだなと感じた。

 

いじめられた時の傷を持っている自分というのは、いじめてきた相手に対して、不幸や破滅を本気で望んでいる。

そうすると、自分の中で誰かを傷つけてしまった罪悪感を受け入れるということは、自分は幸せになれず一生不幸であるということを受け入れること。

 

ということは、いじめられた傷を許すというのは、同時に人の不幸せを望む依存を引き受けて、私は幸せになれないけど、幸せにならずあなたにどうされても良い、私はそれくらいのことをしてしまったから、と覚悟を決めることだなと感じた。

 

なぜかというと、全て近くするものは投影であるので、不幸せを望まれてると感じるのは、自分が誰かの不幸せを望んでるからである。

つまり、自分が不幸せになる誰かを受け入れるということは、不幸せを望む傷ついた自分を許し受け入れるということに繋がる。

 

だから、もしいじめの傷を許せないとしたら、同じなようなこと、もしくは近いようなことをしたりしまったことと、向き合う必要があるのかなと感じた。

 

 

そして、これを書いたとき、一つ例を思いついた。

それは極道の世界。

人が場合によっては死ぬし、殺すような現実に直面することがある。

そうして、誰かを殺してしまった人が、実際に自分の死に目にあった時に、自分が殺される立場になったことで、殺していった人の気持ちが罪悪感とともに感じられる可能性がある。

 

そうして、そこでその罪悪感を受け入れて、なお、何かのために自分のために生きようと選択した時、その人は一回り大きくなるはず。

 

 

基本的に人は罪悪感ストーリーを恐れる。

罪悪感から生じている、自分が死ぬかもしれないという現実。

だから、直接的に煽られたり、暴力を振るわれたりすると、それに対してやり返そうと、抗おうとする。

 

しかし、その罪悪感ストーリーを罪悪感を感じることをもって受け入れたとしたら、暴力を振るわれたりしたとしても、頭はきっちりクールなままで居られる。

だから、死線を越えた人は、落ち着くし余裕がでる。

それだけじゃなく、引き受けられる依存の幅が広いので、めちゃめちゃ男らしく頼もしい人間になるのだろうなぁという風に感じた。

 

心の中で死んでも良い、俺は幸せにならなくて良い、そうした形で、自分の人の不幸を望んだり、殺意を持った自分を受け入れ、許したから。

 

 

この罪悪感の感覚とは日常でも強くは媚びる。

大概、人は罪悪感を元にした人のことを判断するし、状況を見極める。

 

抑圧された罪悪感を持って、ここではこの言葉や行動はこう受け取られないよな?といった期待を持つことをして、言葉を発し行動をしていく。

そうした時に心では、常に恐れと不安に支配される。

なぜなら、期待があるということは、自分にとって避けたい罪悪感ストーリーがあるということ。つまり、少しでも期待通りにならないと落ち込む形となる。

 

たこの時、少しでも罪悪感ストーリーに入るようなニュアンスの言葉を与えられると、そのストーリーが今ここで現実になると錯覚するようになる。

すると、意識はそれを避けようとするので、相手を変えようとしたり、相手のことを責めたりして、そのストーリーを何とか避けようとする。

 

つまり、誰かの不幸を望んだりしてしまったという、自分を責めている罪悪感という感情が、他人を責める感情というのを生むわけである。

 

 

だから、自分を許し、他者を許し、そうして自分が不幸せになること、自分が今ここで死ぬことを、受け入れることができた時、人は変わるといって良いと思う。

そこで受け入れることができると、期待がまずは減る。

 

期待が減るということ、人の良さや魅力やまた欲求が本当に見えるようになる。

すると、この人にはこういう行動をしてあげよう、こういったエスコートをしてあげよう、といったように相手の愛して欲しいように愛せるようになる。

 

すると、男として深みも落ち着きも風格もでるはず。

それは男らしさや安心感等々に繋がるだけでなく、様々な人を育てる力にもなる。

 

またそうした罪悪感を癒せば癒すほど、ユーモアの力も上がる。

ユーモアとはそもそもで罪悪感である。

普通だったら罪悪感を感じるところを、少しバカにしてみたり、ふざけてみたりするというわけである。

 

だから罪悪感を引き受けると、場や相手を見ながらユーモアを述べることができ、相手の緊張をほぐし、安心させていくことにつながっていくはず。

 

また罪悪感は緊張感とも関連している。

罪悪感を癒すと、相手のことが本当に見えてくるとするなら、

緊張状態にあるときというのは、期待があるということ。

 

同時に、自分はこうした風な未来が起きたとき、罪悪感を引き受けていない以上、こうした問題や現実を作り出してしまう。

彼女や相手が醸し出すことをしている魅力というのは、多くの人を魅了し好きにさせる。そうして争いや喧嘩が起きたとき、自分は彼女を守れないし、救うこともできない、といったような感覚などが緊張状態を作り出す。

 

だから、より罪悪感を引き受けて、男らしさを魅力として受け取ると、

対処できる場面も増えるので、緊張状態も収まり、落ち着いて接することができる。

 

というわけで、俺は世界一男らしい人になると今決めた。