共感することは愛を感じる道のようなもの。
ひたすら、全てに共感するという練習をしていた時に気づいたことを纏めていく。
共感というのは、相手の感情を共に感じてあげる事であると思うが、
これは私とあなたは今同じ感情を感じている、というものだと思う。
そして、心は共感してもらえると楽になるのだけど、それがなぜなのか。
僕もそうなのだけど、深く傷つく経験をすると、
この気持ちを誰かに分かって欲しい、
誰かにこの気持ちを寄り添ってもらいたい、と感じることがある。
これは共に感じてくれる人を求める声なのだけど、
この時に、じゃあ助けを求める声以外に何を感じてるかというと、
自分じゃこの気持ちは受け止めることはできないから、とか、
あんな事をされるなんて、やっぱり自分はダメなんだ、とか、
どうしてあんな事をされたのだろうか、などなど。
自分にはそんな愛はない、自分だからあんな事をされたなどの、
無価値感と呼ばれる感情を感じている。
この感情を感じるときは絶望もセットでもあるからこそ、
諦めとか限界のような気持ちとかを感じたりするし、
その気持ちが高まれば高まるほど、助けを求めたくなるように思う。
さて、ここまで共感を求める時に、どんな気持ちを感じてるのかを書いた。
ここからはまだ説明が中々難しいのだけど、
要は、愛を求めているからこそ、共感を求めている。
どういうことかというと、共感してもらうということは、
要するに攻撃してきた対象の感情を、自分じゃ感じられない替わりに、
誰かに感じてもらえるということではないのかなということ。
無価値感という感情は自分には愛される、また愛するだけの価値がない、
と呼ばれる感情であるが、
この感情を感じていなければそこに愛を見出せるということ。
ということは、愛を求めて共感を求めるということは、
無価値感の先の感覚を、
無価値感を抱いたと同時に知っているということになる。
しかし、自分には無理だという判断によって、
そんな存在にはなれないと自分の愛に蓋をするのではないかと。
つまり、共感をしてもらうことによって、
自分が無理だと思った事を代わりにやってもらいながら、
今度は自分で無理と思った先に向かって行く。
それが、要は理解をしていくということではないかなとも感じる。
要は共感をするということは、
その人が感じられない、無理と感じた事を代わりに感じてあげる事であり、
その人が今度はその感情を一人で感じられるようにサポートする事なのではないかなということ。
・ここからは、少し例を出して説明していきたい。
例えば、いじめの経験があるとして、
いじめられる自分なんてダメだ、
いじめられるってことは自分には価値はない、って思ってたとする。
この時、この無価値感の層にいる時は、
自分はいじめられても、何もできないという判断があるので、
またいじめられるかもという恐れを強く感じるし、
いじめた存在に対して愛から分離しているだけに、
お前さえこんなことをしなければ、という怒りや憎しみも感じる。
あの体験をしたせいで、僕はこんなにも自分のことを責めただと、恐れになり、
あの体験さえなければ、自分のことをこんなにも責めなかったは、憎しみや恨みに。
自分は無価値感だと価値判断した以上、
愛はないと意識が判断したということなので、
そんな体験をしたから、しなかったら、という部分に焦点が当たる。
この状態が先に説明した、共感を求めたくなるような状態。
自分には愛がないと思ってるので、愛を持つ誰かの存在が必要になる。
分かって欲しい、誰かに側にいて欲しい。寂しい・怖い…。そんな感覚。
・次は、じゃあ共感は何を促してくれるのか?ということ。
いじめの経験があり、共感を求めてる時に話すことといえば、
辛かった・苦しかった・怖かった・不安・悲しい・助けて欲しかった、などなど。
僕はいじめられる存在だからと思いながらも、
戦い前を向いてきた時の気持ちを、
あなたはいじめられるような人ではないよと価値を見てくれる人に対して、
価値を取り戻すために、気持ちを吐き出していく形となる。
こうすることで、自分はいじめられる存在ではないと、無価値感が癒えて、
正当な価値を感じられるようになることが共感の目的となる。
・次に、なぜ攻撃してきた側の感情を感じられない判断が無価値感になるのか?について。
これがこの記事を書いた一番の理由である。
誰かをいじめるということは、その人もいじめられると思っている部分がある。
もしくは、虐げられるとか、バカにされるとか、そんな無価値感。
この時、弱さを出せれば、助けを誰かに求められるのだけど、
弱さを出せないときは、無価値感でいっぱいになってどうしようもないので、
その無価値感を感じてくれる存在が必要になる。
つまりどういうことかというと、攻撃してきた側を通して感じた感情は、
無価値感という点で対等な部分にいるので、
ほとんど同じである、ということが考えられたりしてくる。
この辺は僕もまだ詳しく理解することはできていないが、
無価値感で同じ目線に立つということは、
価値のない自分を通して様々なしんどい感情を感じることになる。
言い換えれば、大きな愛になれないと無意識に判断しただけに、
同じ感情を共に感じることで、助けようとしたのではないかということ。
つまり、人は常に愛したい生き物であるということになるのかな。
この辺はもう少し煮詰めたい部分かな。
・では、同じ感情だったと認めるとどうなるの?
僕とあの人が同じ感情だったと認めるということは、
敵だった、傷つけるやつだったという痛みを手放すということ。
そしてここからが大事なのだけど、同じだと認めるということは、
同じ無価値感を感じている視点に立たないということを示している。
つまりそれは、相手の痛みを自分の痛みを通して感じていきながら理解すること。
そして理解していく先の、愛に触れる。
つまり、僕も君もいじめられる存在じゃないね、に至ることなのかなと。
この無価値感を超えた先にある本当の価値に触れることが怖いからこそ、
無価値感で助けることを選択するのではないかと。
そしてその恐れは、普段無意識に感じているものなので、
誰かに共感してもらうという発想を持つことしかできないのではないかと。
発想を持たない要因に、痛みが強いのもあるかもしれないが。
・ここまでのことを、纏めると…?
離婚した、失恋した、いじめられた、という人が相談をしてきた時、
あなたは離婚する人ではない、失恋する人でもない、いじめられる人でもない。
そういった、その人本来の価値を見ていくことが求められるのだと思う。
そうしないと、癒着・共依存という言葉のように、
お互いに、無価値感で繋がり合うので、
助けように対して・傷つけないようにしよう。
という、相互で助け合うことで膠着状態になる可能性がある。
だから人を癒したいならまずは自分を癒すこと、という言葉があるように、
自分を癒すことは、愛から物事が見れるようになるので、
相手の愛を見続けながら、話を進められるということなのだと思う。
・と言っても…、一人で癒しを進めるには?を考えてみる。
相談事例集などを使って、「あなたはそれを感じる必要はない。あなたはそう思い考える必要はない。なぜなら、あなたにはこうならないだけの価値があるから」
という無価値感ではなく、愛という真実から見ていく練習をするのが良いかなと感じる。
これは投影を使った練習方法でもあるが、
必要はないことを示していくことで、
「これだけの価値があるから、これは必要なかったんだ」と感じることのできる、
マインドが自分の中に出来上がるのではないかなと目論んでる。
ちょっと、やってみたい。