目の前の人を喜びという目で見るには。

誰かの価値を見るということは、

その価値が自分にも与えられるものだという見方を通常する。

それが自分に対しての喜びをもたらすことに繋がる。

 

多くこのような見方は幼い頃、

自分にできることが少なかった時にもたらされるものである。

 

しかし、その見方通りのものをもらえなかった時、

人は傷つき悲しみ、痛みを強く抱えてしまう。

その時、価値のある存在の愛を覚えているために、

僕たちはもらえない理由を自分にあると決めつけ、

無価値感、又の名を罪悪感と呼ばれる感情が形成される。

 

その後、その痛みを味わうことないような人になろうと決断し、

僕達は自立していくわけなのだが、

そこではしたいからするというわけではなく、

せざるを得ないという義務や役割で生きていくことになる。

 

価値あるものを自分の不徳によって失ったと判断した僕らは、

不徳をしない自分になってその価値を得ようと必死に頑張る。

 

そこでは、ただ誰かの価値を見る存在や、

ただ自分を責めて動こうとしない存在などは、

依存という形で自分のシャドウとなり、

自分の痛みを誘発させるような存在になることがある。

 

この段階で、心理学の投影という考え方は有効となり、

人は皆、自分の心の中を映し出した存在、という考え方の元、

切り離した自分を統合していく旅が始まる。

 

そして、過去の痛みと向き合い、過去の感情を感じることを通して、

誰かの価値をみるという愛を自分が持っていたことを知ったり、

そんな価値のある存在を助け救おうとした愛が自分にあったことを知ったり、

感情の一番下にある愛を感じることで、

本来の自分に戻っていくことを試みていく。

 

依存と決めつけ切り離した部分を統合すればするほど、

人の価値というのは見えるようになり、

また、無価値観や罪悪感が減るにつれて、

自分はその価値を受け取るに相応しいという肯定感を得られるので、

より多くの喜びが受け取れるようになっていく。

 

 

掻い摘んで言えば、今ここで誰かの価値を見ることを、

誰かの愛を見ることを選択すれば、

喜びは今ここで感じることが可能になる。

 

今喜びを感じさせない感覚の全ては、本来の相手の価値を知り、

本来の相手の愛を知っているからこそ感じるものだという目線を持てれば、

その誰かの価値や愛を見ようとした意欲は失われることなく、

自分のやり方とは異なる、しかも簡単なやり方で喜びがもたらされる。

 

そしてそこで得られる感覚というのは、

無価値を通して作られた敵という存在から身を守るという感覚や、

罪悪感を通して作られた偽りの自己という感覚ではなく、

自分のダメな部分はこの人の愛を通して好きになれたという喜びや、

自分の良い部分をこの人は受け取ってくれたから好きになれたという、

誰かによって自分は成り立っている、という真実の感覚へと至っていく。