怒りや不満を上手く使う。
なんでこの人はこんな最低なことを言うのだろうか。
なんでこの人は、こちらのお願いを聞いてくれないのだろうか。
そんな不満や怒りという感情は、
使い方によっては誰かを傷つけるものであり、中々扱いづらい感情。
僕もこの感情を扱うのはあまり得意ではない。
怒ったり、不満を言うくらいならば、
何も言わない、何も感じてないフリをする、ということを選択することが多い。
これは、あくまで誰かの気持ちを考えているという優しさから生じるものであるが、
本人が心の中で感じるのは、こんな気持ちを感じてしまってごめんなさい。
という罪悪感であるので、中々人と近付けなくなるのである。
怒りや不満を押し殺すことは、人を傷つけない利点があっても、
人との距離を何故か遠ざけてしまうことに繋がる。
誰かのため、という思いが逆に誰かを遠ざけるというのは不思議なものであるが、
何故か心の仕組みそのようになっているみたい。
・じゃあ、怒りや不満って何のためにあるの?
怒りや不満を隠すことで人との距離が遠のき、
自分の中に寂しさや悲しさが溜まるとしたら…。
怒りや不満という感情は何か自分のために必要だから生じていることになる。
じゃあ、何のために必要なのかといえば、自分の愛を感じるためであると言える。
例えば、自分の夢をもし否定されて怒りを感じたとしたら、
その人はその夢に何か願いや祈り、という愛を込めていたかもしれない。
けど、その人もどこかで、その願いや祈りに迷いや自信のなさがあり、
そこを突かれたことで、怒りを感じたのかもしれない。
自分はそんな願いや祈りをする存在ではないというのか…。
自分がそんなことを思うことの何がいけないんだ…。
そんな思いを持っても良いじゃないか!
自分だってそんな風に誰かのことを思っても良いじゃないか!
過去にその愛を否定したという痛みがあればあるほど、
こんな形で強く悲しみと怒りを感じるのもかしれない。
だから、怒りや不満は、その愛に触れる機会を求めるために、
自分の心の中から生じてきているのだと思う。
要は、その自分の中の愛を持つのに自分が相応しいと思うと、
自信のなさや迷いを自分の中から弾き出すためにも、
怒りや不満という形でその愛を感じようとするのだと思う。
・怒りや不満を上手く使うには?
無価値観や罪悪感と呼ばれる感情があるが、
この感情は自分の愛は愛ではないとの判断から生まれたものである。
これを心の痛み、という形で表現するのであるが、
この痛みの奥にあるのは、祈り、願い、意欲等々の、
誰かのためにという純粋な愛が埋まっているのである。
この愛をほじくり返し、その愛を感じることが怒りの目的である。
つまり、ここからは論理的に詰めていくが、
・誰かの言葉を通して傷ついた時、優しい人は怒りや不満を押し殺す。
→しかし、この時、心の中はそんな感情を感じた罪悪感と、
その言葉を通して引き出された無価値観で心はいっぱいになる。
→すると、心の中では怒りとか憎しみとかごろごろでるのである。
→この時に、怒りをぶつけられれば、万々歳なのだが、
人の気持ちを考える優しさを持つ人はそれが難しい。
→なので、何でそんなことを言うのだという怒りを通して、
そんなことを言われると、僕はこう思えないという悲しさを引き出す。
→悲しさは同時に愛の存在を示しているので、ここまで感じることができると、
自分の中の純粋な愛というものを見つけることができる。
・もう一つは罪悪感から距離が離れた時に感じる寂しさを使う。
→この時に、何故責められた自分がこうしないといけないの?
という癇癪を感じることがある。
→この癇癪は、愛に触れられないという強い痛みであるが、
同時にこの癇癪は愛の存在を感じられるからこそ生じるもの。
→だからこの癇癪のもう一個下にある、僕もこれを感じたい。
僕もこの人と一緒にいたいという、寂しさをちゃんと感じられると、
自分の中の純粋な愛に近づくことができるのである。
要は、僕の中の欲圧した、願い・祈り・意欲などの愛を持っている人に、
寂しさという感情を抱くので、
癇癪という形の怒りを使ってその感情を探すこともできるのである。
と、長々書くことをしたが、
愛を感じられたからこそ、怒りや不満を感じることができるわけである。
場合によっては、誰かに対しての何かしてほしいというニーズの形での怒りや不満であることもあるかもしれないが、
この時は、相手の価値を自分の愛を通して感じられているからこそ、
その愛を求めて、くれない相手は怒りや不満が生じるのである。
だから論理的に詰めていくと、無価値観や罪悪感とは違う
生の新鮮な寂しさや悲しさなどの感情を感じれる時には、
どこかの愛に呼応し自分の愛が反応しているとも言えるのである。
そこで、過去の痛みを通して嫉妬や疑いの気持ちを感じることもあるが、
その裏には自分の中の純粋な願いや意欲や祈りなどの愛が存在しているという目で見られると、その奥底の部分にまで触れる機会を得られるのである。