何故、人の良いところを見ることが、自分のためになるのか。

 

心理学には投影の法則と呼ばれる、他人は自分の鏡という法則があるが、

この法則を活かした心の見方として、

人の良いところは自分の中にあるから見つけられる、というものがある。

これはすなわち、人の良いところを見つければ見つけるほど、自分の良いところも才能も、たくさん見つけることができますよ〜ということ。

 

しかし、人の良いところを見つけるということには別の効能がある。

それは簡単に言えば、自分のことがどんどん好きになっていく。

 

これを詳しく説明すると、人は子供の頃から、怒る親、責める親、自分のことを構ってくれない親など、親の自分に対する扱い方を通して自己を認識する。

この時の誤った認識の仕方が無価値観や罪悪感と呼ばれるもの。

つまり、直ぐに怒る親と怒られるダメな自分、という感覚がセットになる。

 

これは成長をしてからもパターンとして残るもので、

このパターンがあると、怒ってくる相手のことを許せなくなる。

 

どういうことかというと、人は自動的に愛を感じようとするので、

怒る親という認識が残ったままであると、

怒る親に愛を感じさせようと、自分が助け救おうとする。

 

つまり、このパターンがあると、大人になってからでも、

怒ってきた相手は愛を感じられない人なんだと認識し、

その人を無意識に助け救おうとしてしまうので、

その人を許そうとしても、許してしまったらこの人はどうなるの?

という恐れや不安が先行してしまい、許せなくなるのである。

 

だからよく心理学では許すために相手の心を理解してみましょうね、と言われる。

これは怒ってきた人や親の心の中を理解することを通して、

意欲や願いや祈りといったような、愛を選択できない事情があることを理解し、

その人は愛を選択できなかった事情があるだけで、愛がないわけではなかったんだ、という実感を自分に得ていくことを目的としている。

 

そうすると、その相手は愛がある存在なので、助ける必要も救う必要もない。

つまり、愛があるなら大丈夫やん、さようなら〜と手放せるわけである。

それは同時に怒る相手を通して生まれたダメな自分という認識も手放すことに繋がるので、無価値観や罪悪感も消え、自分にはふさわしい自己評価が入ってくる。

 

普段は自分が無価値観や罪悪感にはまっているとはまさか思わないので、

このパターンに気付くために、セラピーとかヒーリングワークとかを使い、

愛に触れる機会を増やすことで、愛を感じられてない思考習慣に違和感を抱けるようにしていくという手段が求められたりもする。

 

 

ちなみに、こういった手放しを一人で行う場合は、とにかく愛を見ることを選択すること。

例えば怒ってくる相手だとしたら、この場にくるのは自分で選択してる。

選択っていうのは愛に呼応するから、それは愛だな、とか。

怒れてるってことは、自分で選択してるじゃん、なら大丈夫だな。

怒るという選択をできるくらいの力がその人にはある、とか。

 

一つ見るたびに、一つ自分の中の無価値観や罪悪感が手放せることに繋がる。

もしそこでスッキリしないのであれば、その痛みがもっと深い層にあるということ。

 

その時は、もう少し相手を理解する形で見ていくこと。

怒ってくる人を許せないとするのなら、

この人は、ここにくる前に、もしかしたら怒りを感じるような何かがあったのかもしれないけど、そこでその状況を理解するなどの愛を選択できたかもしれない。

なら、その人に愛を感じる力はあるじゃんなどなど。

 

より深い形で相手の愛を見ることを選択していくこと。

それを繰り返していくたびにより繊細により抑圧した思いに触れていくことになる。

つまりこうすることで、癒しと許しが起こっていく。

 

他には、「この状況を違った見方で見たいのです」と口に出すのも良い。

必ず、無意識の愛を感じている部分に触れることができるので、

インスピーションが落ちる時は、人により違えど、

相手の愛に触れることができるようになるので、許しや癒しが進む。

 

とにかく、愛を選択すること、それに尽きるように感じる。

コツは、誠実に投げかける感じ。

感覚的には、くっきりとしたイメージに対して言うのではなく、

漠然としているようなイメージに目掛けて、そう呼びかけること。

 

長々と書いたが、そうすることによって、

人の力が本当に細かいところからも見れるようになるので、

自分にもそれだけの力があると感じられるし、

相手の良いところや力もたくさん伝えられるしで、

自分の評価は勝手に上がるし、自分のことも凄く好きになるのである。

 

 

そして余談だが、無価値観や罪悪感を通して、相手を助け救おうとする時は、

相手の意欲や願いや選択といった、相手の力そのものを見ることなく、

何とかしてあげよう、何とかしないと、という気持ちが働くので、

これが共鳴することで、意欲や選択の力を持っていた相手にも、

無価値観や罪悪感があると、愛を感じるための力が抑圧されるので、

 

救おうとしてるはずなのに、状況が悪くなりすぎるみたいなことになり得る可能性があるのである。

この時、うざいとか邪魔とか重いとか言えれば、自分の選択に力が戻ってくるのだが、

互いに無価値観や罪悪感が共鳴すると、どららも対応は違えど、相手のことを救おうとしているので、状況が悪くなることもある。

 

この場合も痛みを手放しながら愛に触れていくことで、

お互いに対等な関係性なっていくので、

互いの愛が循環しあって関係性が上手くいきやすくなったりもする。

 

という形で、人の良いところを見ると自分のためになるという話を、思いついたままに纏めてみた。