自己受容の練習。

 

自分の心を受容するやり方として、他人の心を受容するというやり方がある。

意味のわからないように聞こえるかもしれないが、

他人のネガテイブな部分を受容できたとしたら、

自分のネガテイブな部分も受容できるということである。

 

言い換えれば、いざとなる時に逃げたくなる人のことを、

「あまりに、みんなの想いに応えようとし過ぎると、プレッシャーを感じて逃げたくなるんだよね?それは、貴方がたくさんの人をがっかりさせたくない、むしろ、がっかりさせずに喜ばせたいという気持ちがあるからだよね」

という愛の目で見ることができると、

自分の同じような部分も「」の中のような目で見ていけるということ。

 

だから他人を受容することは、自分を受容することに繋がる。

しかし人というのは不思議なもので、

自分が過去に感じたり罪悪感を他人に投影するという作用がある。

 

例えばこれは、自分の弱さを嫌う人は他人の弱さを嫌うと言われているように、

自分が過去に弱さを通して他人に迷惑をかけたと感じるだけに罪悪感を抱き、

それによって弱さを持つ人を通して、罪悪感を感じるようになる。

 

それは人は愛したい生き物であり、愛したいという意欲や、

罪悪感を感じた時の自分を通して、許されたいなどの願いを持ったからなのだが、

そこが人を愛する障害になることが多くなる。

 

弱さを持つ人が、罪悪感と願いというニーズを持つ存在に映るので、

弱さを持つ人のことをその人が愛するには、

その願いを応えることのできる、自分になっていく必要がある。

つまりこれは、罪悪感を通して分離した自分と繋がるということなので、

分離しただけに、悲しさとか寂しさとかを感じていく必要がある。

 

なので、その弱さを持つ存在というのは、心理学でいうシャドーとなり、

またタブーのような存在になるので、

そもそもで愛するという発想が中々出てきづらいのである。

それは、罪悪感があれば仕方のないことといえば、仕方ないことだが。

 

が、カウンセラーを目指すとか、より大きな愛の人を目指すとかの場合、

このシャドーとの統合はかなり重要になってくる。

罪悪感を投影していると、愛したいという意欲があっても、

中々、愛せたような気がしなかったり、

相手のニーズに応えられてないような感覚を感じることに繋がる。

 

 

というわけなので、これに対しての対応策を考えた。

それは、ただどんな文章でもどんな言葉に対しても、

貴方はそれでも素敵な人です、という言葉を投げかける練習をすること。

この練習の目的は、相手にとっての愛の存在になる、というもの。

 

例えば、私は過去にいじめの経験があります。

一人、ベットの中で咽び泣くこと何度もありました。

 

と書いてあったら。

いじめの経験があって、一人、ベットの中で咽び泣いてたとしても、

貴方は素敵な人です、と書いていく。

 

そしてその後、その人に対して愛を注いでいく。

僕は貴方をいじめたりなんかしませんとか、

僕は貴方が咽び泣いていたら、貴方が安心するまでずっと隣に居ますとか、

僕は貴方がいじめられたかどうかで、貴方のことを判断しませんとか。

自分が相手に愛を通して何をしてあげたいのかを、書き記るす。

 

 

本来、何をされようが、何をしていようが、

どんな人にも価値と才能もあって、素敵であることは間違いない。

しかし、自分の痛みがあると、エゴはそうは認知しないし、

愛のないという根拠をひたすらあげようとしていく。

 

だからこそ、この流れを通して真実に触れるということをしていく。

例えば、いじめられた状況ならば、

いじめる人が居なければ、その人は愛を感じるし、

いじめられていた時に、助けたとしても愛を感じるし、

咽び泣くときに、安心できるまで側に居たら愛を感じられる。

 

だとしたら、自分さえどうにかなれば、

どんな状況・思いに対しても愛を作り出せるのが真実。

そして一番最初に書いたように、誰かの状況に愛を作り出すということは、

自分の心にも愛を作り出すということになるので自己受容ができる。

 

 

この練習のコツはいくつかある。

一つは、イメージを作ることを意識すること。

その目の前の人が愛を感じられるような、

そんなイメージを作り出せるような愛の添え方をしていくこと。

 

もう一つは根気強くやり続けること。これが一番重要かも。

強い痛みを感じさせる文章を素敵です、と書いていくとき、

怒りとか不安とか恐れとかたくさん感じることがある。

そうすると、自分の中の愛を感じれるわけがないような気がしてくることがある。

 

しかしこれはやり続けていく中で、

自分のこの部分責める必要なかったじゃんとか、

この人、本当に素敵な人じゃんとか、

そんな風に思える経験が積み重なってくると、

痛みがくるなという予感と共に、

やり続けてれば勝手に愛を感じるだろうという信頼も感じられる。

 

というような形。