考察を深めるために、手放してみよう!
人を、正確に考察するということは、難しいことだと思います。何故なら、自分のことは置いといて、相手を見なきゃいけないからです。自分の感情は置く必要があります。
でも、自分の感情を端に置いて、考察というのは中々できるようなものではありません。
大抵、相手の発言を見るときって、こいつ何かしてくれなかったよなぁとか。この人、こんな酷いことを言っている…とか。
自分の感情の傷に、浸ってしまうことが多いと思います。
そうなると、この人のこの行動はありえない、普通こんなことをするか!?とか。
言ってることと、してることが違いすぎだろう、まずは自分の発言を見直せ、とか。
この人はここでは優しいのに、ここでは優しくない。優しくしたのは味方だからでは?とか。
このような考察は正論というものなので、結果が伴うこともあります。
でも、同時に正論で相手のことを評価しているので、相手を人間として評価しているわけではないんですよね。
さてさて。どうしてこのような評価の仕方が起きてしまうんでしょうか?
それは、自分が誰かに正論を押し付けられて、否定されたことがあったからです。
正論を押し付けられると、誰もがムッとすると思います。
そう言うけど、俺は今こう思ってるとか。
お前は俺の気持ちをわかってないとか。
でもそんな、自分の感じた主張を、もしすべて言い訳として捉えられたとしたら…。
恐らく、相手に正論を言われないような自分になろうと思うと思うんです。
すると、自分に正論を言われないような人物像を求めたように、他人にも自分と同じような人物像を求めてしまうんですよね。
心理学では、投影の法則というものです。
まあその辺りの説明は置いといて。
正論を押し付けない評価をするためには、どうしていくのが良さそうでしょうか?
それは、正論を押し付けられたときに、正論を押し付けられる、自分が悪いとかダメとかいう思いを手放していくことです。
と言ってと、自分がダメだとか、悪いんだって思ってしまうのはしょうがないです。それが思考の習性なので、抗うことは難しい。
でも、自分のことを責めることが習性だと気づけたあとは、自分のことを責めないという道を選択していけます。
自分のことを責めないということは、自分がどうしてそう思うのか?どうしてそれをするのか?を理解するということです。
ということは、同時に相手が何故そうするのか?そう思うのか?を理解することです。
理解できるということは、
相手が、たとえ優しさを人に使いわけていた場合でも、優しくしてないところは、ただ相手に優しくできない理由があったのかなと。相手の行動を決めつけることなく、一歩引いて見れるようになるんですよね。
もしかすると、自分の優しくできなかったときの経験を生かして、見逃していたのかな?とか、ちょっと抵抗があったのかな?とか、あまり好きではないのかもな?とか。
相手の、より深い心情に気付いていくことができるかもしれません。
そんなかんやで、自分を責める気持ちを手放すことは重要というわけです。
自分に責任を求めないということなので、相手にも責任を求めない理由を見出せます。
そうすると、心のことや感情のこと。それだけじゃなく、様々なことの本質が見えてくるようになると思います。
少し纏まらない文章になりましたが、今回は自責を手放す重要性のお話でした。
今回もお読みいただきありがとうございました!
出来ないときは、怖いですというお話。
人狼ゲームでは、自分には出来ないと感じる場面に多く直面すると思います。
考察ができないとか。進行がわからないとか。中々勝てないとか。
勝負事のゲームなために、そうした、できないことに直面するのは、仕方のないことなのかもしれません。
しかし、自分のできないことに、目を向けていくというのは、とても辛いこと。そんなできない部分と、一人で向き合うとしたら、尚更辛くて仕方のないことだと思います。
けど、自分が成長していくためには、できないと感じる部分に目を向けるのも必要なことになってきます。でも、出来れば、できないという現実に心が折れる前に、できるようになりたいものです。
今回はできない時の気持ちや、またその時の対処法などについてお話したいと思います。
さて。まず、できない時に、できるようになる一番の近道って何だと思いますか?
一番は、出来なかった時を、知っている人に協力してもらうことです。
具体的に言うと、出来ないという感情を分かち合える存在と共にやることですね。
出来ないときって、いや辛かったよなぁとか……。
出来ないときって、どうしても人に頼れないんだよな。そんなこともできないのか!って責められてしまいそうで、怖くてさ笑とか…。
とかく、自分の感じている感情を否定しなくて良い存在っていうのは大切だと思います。
出来ない時のことを、赤裸々に語る人を見ると、自分もできなくても良いのかなと思えるようになるんですよね。
そうすると、出来ない俺ってダメなのかなぁとか。才能がないのかなぁと。といったような、自分の殻にどんどん閉じこもって道とは別の道を選択できるようになるのです。
まあ、ただこれはあくまで理想です。
出来ない気持ちを共有していきながら、教えてもらうという道は、ネットのような形であると中々難しいことかもしれません。
なので、自分一人で、できないと感じる時は、どう、できない気持ちと付き合っていくのか?について書いていきたいと思います。
自分一人で、できないと感じる時って、きっと、できる道を探すと思うんです。
何かを覚えるときでも、覚えられない自分のことを責めて、覚えられるまで、自分のことをとにかく許さない態度で。
覚えられていないのに甘えるなとか。
できもしてないのに休もうとするなとか。
とにかく、自分に厳しい言葉を投げかけると思います。
こういう時って気持ちがピリピリすると思います。
とすると、結果的に出来ないと、もうやりたくないと心が折れてしまう可能性もあるんですよね。やっても私はできないしーとか。
私は才能ないからやっても無駄だしーとか。
でも、そう思うのも仕方のないことだと思います。できない現実と、できないと思う気持ちを、誰かに話して、受け止めてもらえると。もし、安心することができていたら、自分のことを責めないはずですから。
だから、こういう時は、自分は一人で誰とも感情を分かち合わずに頑張っている、という認識がとても大切になってきます。
一人で頑張ってきた方には、中々難しい認識なのかもしれません。
でも、人の心って不思議と限界があります。
どこかで、自分一人では頑張れなくなる日がくるんですよね。
できないと思った人も、もしかしたら、できない気持ちを誰かと分かち合えていたら、出来るようになっていたかもしれません。
才能がないと思っていた人も、もしかたら、才能のないという気持ちを誰かと分かち合えていたら、自分の才能を見つけられていたかもしれません。
例え、もしの可能性だとしても、人に話せたら、自分も….。って思えたとしたら、少しハッピーな気持ちになると思いませんか?
ただ、だからと言って、直ぐに人に自分のできない部分を話すというのは、怖いことだと思います。勇気のいることだと思います。
なので、まずは、もしかしたら…?と思った時に感じた気持ちに興味を持つことで、出来ない道から出来る道へと変容していくかもしれません。
今回は精神論中心のお話になりました。
今回もお読みいただきありがとうございました!
相手を疑うことが怖い、優しさを生かす。
素黒、素黄だからこそ言えること。
素黒や素黄と言われる表現があります。
いつから生まれたのか定かではありませんが、相手のことを責める時に、多く用いられるものだと感じています。
時には、場を和ませる目的で、そのような言葉を用いる時もあるかもしれませんが、それは今回は置いておきます。
話を戻しますね。
多くは、素黒や素黄という言葉を誰かが発する時というのは、相手の行動を責める時に使われたり。相手が村人と思えなかったときに使われたりすると思います。
分かりづらいからもっとわかりやすい動きをしろ。そんな要求をどこかで感じてしまう寂しい言葉なのかもしれません。
僕も素黒と見なされたことはあります。
別に怪しい行動をしたかったわけではないです。しかし、そういう評価を頂いてしまう。感じたままに話してしまうというのが、一つそう見られた要因かもしれません。
なので、感じたままに話すということを一時期やめました。少し、頭の中で発言を整理すしてから発言するようにしたんです。
そしたら、素黒と言われることは無くなっていた気がします。
少しホッとしたのを覚えています。
人狼をしていた頃の僕のスタイルは、昔とは違い、分析を中心にしています。
感覚のままに話してしまう癖が抜けているわけではないので、感覚で感じたことを分析して言葉にするようにしています。
時間はかかりますが、僕の短所を考えると、分析というのは、短所を長所に変えてくれたものだと感じています。
素黒や素黄と言われる理由は様々かもしれません。そして、多く素黄や素黒というものは短所に捉えられると思います。
でも、それは短所でないということです。
その短所を補ってくれる、何かを見つけれれば短所を軸にして、長所にできるはずです。
僕の分析力も、きっと素黒と見なされた短所がなければ、僕の武器にはならなかったと思います。
なので、僕は素黄や素黒は一つの限界を表していると同時に、別の長所をもたらしてくれる言葉だと感じています。
素黒と素黄のケースごとに、何があれば長所に変わるのか、というのを書けたら良いんですけどね。ちょっと、今はハードルが高そうです。いつか書けたらなと思います。
では今回はこの辺で。
今回もお読みいただきありがとうございました!
深みのある、単体考察。
深みのある単体考察をする方をたまにいる。
読んでいて、書き手の思いっていうのが、凄く心に伝わってくる文章。
書き手が試行錯誤して、難しさや困難さがあることを知っているからこそ、表れているであろう深み。書き手の経験で得た難しさなどを引き合いに出して、書かれた考察というのは、心に深く伝わる気がします。
僕も、考察を書くというのは大変なことで難しいことだと思っています。時には、自分の欲求を置いておくことも大事。時には、感情に囚われずに、冷静になることも大事。時には、文章を深く読み込んでいくことも大事。組み合わせていくことも大事です。
自分が自分の考察を練り上げるまでの大変さや難しさを知っていると、相手のしていることの説明が相手の心に深く刺さるような文章になる気がします。相手が、自分と同じ苦労を抱えていたら尚更だと思います。
少し具体例を交えて説明したいと思います。
まず一つ目。
A君は村人だと思います。
まず、自分の感情を置いておいて、相手の事情を踏まえて考察するのは難しいです。相手のことが感情的に嫌いなら尚更です。嫌いな相手を考察する必要があるの?という葛藤。他の人に任せていけば良いという誘惑。
その中でも相手の事情を考慮して考察を作るのは難しい。何度も、考察をしてきた自分でも挫折しそうになることは多いです。
けど、A君は、2日目にB君のことを嫌いのような雰囲気を見せているのに、B君の事情を深く考慮した上で考察を練り上げています。きっと、A君の心の中にも様々な葛藤や誘惑があったはずです。でも考察を書き上げた。
そこには、嫌いな人だとしても考察を作り上げる、という熱意や必死さが感じとれます。彼の、人狼を見つける本気さというものが私には伝わってきました。
次に二つ目。
A君は村人だと思います。
彼は2日目に、B君を嫌いであるかのような雰囲気をだしていました。としたら、心には葛藤があるはずです。嫌いな人を考察したいと思う人は中々いないですからね。
だから、彼の考察には嫌いな人でも考察をするという必死さや熱意が感じ取れます。
彼の、人狼を見つける本気度が私には伝わってきました。
という二つの例を書いてみました。
さて、どちらのが心に深く刺さるでしょうか?
何と無く、一つ目の方が心に刺さるような気がすると思います。Aは自分の経験を踏まえたのに対して、Bは、少し他人事のように書いてみました。
こんな感じで、時には自分の経験を対比しながら書いた方が、相手の心に深く伝わるような文章が書けるんですよね。
そうすると、説得力も増すはずです。
ただもちろん、この辺りはケースバイケースです。時には説得力よりも、文章の簡潔さを優先するときもあるでしょう。
でも文章をどう書くかというのも、一つの駆け引きなので、奥が深そうですね。
今回はこの辺で。
お読みいただきありがとうございました!
思考ロックが解けない時って、何が起きてるの?
弱さという強さ。弱いを生かせ!
さてさて。今回は、初心者村から普通村へとと進んだ時に直面する、弱さというものについて説明していきたいと思います。
皆さんは、弱さと聞かれると、どのようなものをイメージしますか?
僕だと、責められたり、怒られたり、という抽象的なことから始まり。誰かに言い返せないこととか。逃げてしまうこととか。結果を出せないこととか。そんなことを、イメージしたりすると思います。
総じて、人と比べて自分は……。というように、人と比べることによって、生まれてくるイメージなのかなと思います。
こんな、弱いっていう感覚は、凄く惨めですよね。凄く自分のことがダメなように感じられてしまうと思います。きっと、人にも見せられないものでもあると思います。
そうすると、何とか弱い自分を変えなきゃ!って思うはずです。弱い自分は惨めで嫌ですから、何とか変えたいですよね。
ただですよ。もし、弱い自分が消えて強い自分になったとします。きっと、たくさんの努力をして、自分を変えられたんだと思います。でも。自分と同じ弱さを持つ他人に対して、どんなことを思うと思いますか?
多分ですけど、キツく当たってしまうと思うんです。
もしかすると、優しい方なら、キツく当たりたい思いを、心の奥に閉まって、優しくすることに徹するかもしれません。
そして、相手に感謝されるかもしれません。でも、きっとストレスが溜まるでしょうし、相手の感謝も受け取れなくなってしまうと思います。
そしたらきっと報われないでしょう。
努力したのに、自分が満たされなかったとしたら、辛くなってしまうと思います。
ということで本題です。
自分の弱さを消すことが、相手に対してキツく当たってしまうとするのなら……。
自分の弱さを受け入れてあげることで、相手に対して優しくなれそうです。
そしたら、理解力もぐーんと上がります。
共感性が養われるんですよね。そしたら、弱さだと思っていたものが、いつの間にか自分の長所に!なんてこともあると思います。
自分の弱さを嫌っている人は、まだ自分の才能を十全に発揮していないということです!
さてさて。それでは、具体的に自分の弱さを受け入れるにはどうしましょう?
それは、初心者時代の自分(初期が普通村の方は普通村)を思い出すことです。
初心者の時の自分というのは、まだ悲しい体験をしていなかったと思います。
でも、レベルが上がるにつれて、現実というものを直視するようになりました。そして悲しい気持ちをたくさん味わいました。
ただ、努力家の皆さんは、悲しさに負けずに努力しました。そうして、強さを手に入れることができました。
でも、初心者の時の、自分の良さというのは捨ててしまいました。それがあると、どうやら自分は現実で上手くいかないみたいなのです。悲しくなってしまうみたいなのです。
ということは、もし。悲しさを乗り越えれたとしたら。初心者の村の時の自分の良さと、自分の悲しさを乗り越える過程で得た共感性の二つを手に入れられると思います。
誰かに責められたり、否定をされなければ、悲しい気持ちにはならなかったと思います。
なので、責められなかった時の自分を思い出すことで、悲しさに呑まれてない自分の良さを思い出すことができるんですよね。
少し中途半端になってしまいましたが、今回はこの辺で。
お読みいただきありがとうございました!