考察に対する自信がなくなると、考察することが怖くなるお話。

こんにちは。

今回は考察が当たらなくなるに連れて、自信がなくなってきたときのお話をしていきたいと思います。

 

僕は考察するのが、凄く好きでした。だからいっつも単体考察をやってました。

ただ、本当に考察が当たらないんですよね。

頑張って頑張って、時間をかけて考えて結論を出していくんですが、当たらないんです。

 

そうすると、反省するんですよね。このやり方がダメだったのかもしれない。

ここでこう判断したのが悪かったのかもしれない等々と。

自分の何が原因で、こうした結果になってしまったのかをよく考えるんです。

 

ただ不思議なもので、僕の場合は、考えれば考えるほどに自信がなくなっていきました。自分がどんなやり方で考察をしたとしても、結果的に外れるのでは…?たとえ考察があっていたとしても、それはたまたまなのでは…?という、不安がでてきたんですよね。

 

それは、自分が今から行う考察のやり方は、誰かに歓迎されているものではないんではないか…?といったような思いでした。自分がどんなやり方の考察をしたとしても、誰の目にも止まらないような気がしたんですよね。

 

すると、何のために考察しているのかわからない気持ちになったり。

どう考察して良いのかわからない気持ちになったり。

わからない気持ちが湧き上がっていくだけ、自分がどうすれば良いのか、どうしたいのかという意思の部分すらわからなくなり、自信を失い、考察が怖くなりました。

 

人によって考察に対する自信を失う理由は、様々だと思います。

僕の場合は、どんなやり方だとしても相手の事を分かることができていないのでは?という罪悪感にはまって、自信を失っていきました。

 

 

さて。そもそもで、どうして自信を失うという形になってまで、考察をしたかったのかってところが、大事になっていくと思います。

 

僕が人狼を初めて間もない頃などは、ここまで考察することに拘っていませんでした。当たれば、俺すげーで終わるし。当たらなかったら、相手がこんなことしてるから悪い、で終わってたと思います。

謙虚ではないかもしれませんが、さっぱりしてるし。さっぱりしてるだけに、当たったときに素直に喜ぶことができていたと思います。

 

ただ、段々経験を重ねていくに連れて、自分の失敗が原因で敗北するなどの体験をすると。次第に、悪いと断定していた側の気持ちが分かってくるんです。

そうすると、気持ちが分かるだけに、自分の考察のやり方に対して、不満というのを覚えやすくなる。

 

なぜなら、自分の中に、常に失敗した側の気持ちが罪悪感という形で残っていますので。考察する度に、罪悪感が自分に対して不十分さを訴えてくるんです。

そうすると、どれだけやり方を変えたとしても、核となる罪悪感が変わっていませんので。どんな形の考察をしたとしても、不十分さを覚え、考察することに自信が持てなくなるんです。すると、結果的にも考察が怖くなる。

 

 

僕はこの罪悪感の連鎖で非常に苦しみました。自分のことを認めるポイントというのが、どこにもないような気がしてたんですよね。

 

 

だからこそ、ここで求められるのは、如何に罪悪感に飲まれないかということ。

僕が現役の時に、よくやっていたのは、自分が取得する情報というものに制限をかけることです。

 

情報を多く取得した時に、罪悪感等々が少なければ、取得選択ができるので問題がないのですが。罪悪感が強い時というのは、取得した情報を全部生かさなければという思考になりがちなんですよね。

 

相手の気持ちをもっとわからなければ、と思うので、小さな情報を集めて相手の気持ちに迫ろうと意識が向く。そうすると、キリがないので、苦しくなりがちなんです。僕はこの罠によくハマりました。

 

だから、取得する情報というのを、自分の立てた仮説に、通じるものだけにするか。もしくは、誰かが発した発言を軸として、情報を取得していくか。

 

とにかく、自分がこれなら他の人も納得できるだろうという安心感を持てるものを、前提とすることを僕は意識してました。

安心を抱けるものに対しては、"これが今のベストだろう"。"これ以上のものは出せないだろう"といったような、自分の最大限を認めることに通じてるので、考察することが怖くなくなるし、自信を持ちやすくなるんですね。

 

というわけで、今回もお読みいただきありがとうございました。