圧倒的な武を感じさせる雰囲気を文章で出すには。
こんばんは。
今回は少し題材を変えて、一騎当千の武将のような雰囲気の文章を書くにはどうするか?ということについて書いていきたいと思います。
このような独特なテーマは、今まで避けていた部分なので、非常に緊張と腹痛を感じています。トイレに行かず、無事なまま書き終えられるかな笑。
さてさて。戦場って聞くと、どんなイメージを持つでしょうか。
僕は死が浮かびます。生きたいけど、生きれない。死にたくないけど死ぬかも。
自分のしたいことなど、何もさせてもらえないような感覚です。
僕は戦場に立ったことがないので、想像の範囲でしか考えることができませんが。
戦場に立った時というのは、生きたいという気持ちに対して、殺されるという感覚がぶつかり合うのではないかなと感じてます。
そうして、生きるための選択に、恐怖が付き纏う、という非日常的な感覚を強く感じるのではないかなと思っています。
自分の中の生きるという選択と、相手の中の生きるという選択がぶつかり合い。
お互いに戦場である以上、相手を殺すという選択肢しかない。
ということは、生きるという選択を結果にするには、殺されずに殺すしかなく。
そうして、生を得るために2つの条件がつき、常に恐怖感を感じる状態になるのかなと思ってます。
さて。今のところトイレに行っていません笑。というか楽しく書けてます。
まあそれは良いとして。これを人狼ゲームで例えるとどうでしょう。
死というのは吊りとして捉えられると思います。
人狼の場合、初心者の方が吊られることを意識するのは、恐らく、各々が吊り先を提出するようになってからだと思います。
ここで、ようやく、自分が発言できなくなる何かがある、という感覚で吊りという概念を捉えるようになる思います。
そうして、発言できなくなるのは嫌だからといった前提から、吊られないためにどうするかというのを、考えるような形になるのかなと。
人狼と戦場とでは感覚と対象が違いますけども。
自分の主体的な選択を拒む、他の誰かの選択があるから、自分はこうしよう。自分が相手の選択によって、この選択をせざるを得なくなるのは嫌だから。といった論理展開の部分では、共通しているのかなと感じています。
まあ何で、こんな話をしているかというと、生と死。人狼で言えば、生と吊。という概念はイコールだと思ってるからです。
そうしてイコールだからこそ、ここの論理展開を丁寧にやっていくことで、一騎当千の感覚が分かるからです。
なぜイコールなのかはこれから説明していくとして。話を戦場に戻します。
生きるを手にするには殺すしかない。
そう悟った人物が、1度目の戦を、何とか乗り切ったとしたらどうなるでしょうか。
恐らく、死線を乗り越えたことにより、選択の内容が変わると思います。
戦場での死という概念が、生きることに対しての選択を生ませるのならば。
生き残った人物は、生を手にする感覚を得たことになる。
ということは、限定下において、戦場が死の場ではなくなる可能性が高い。
なぜなら、相手の生の選択とは関係なく、自らが生の選択をできるということ。
なので、選択と結果がイコールな訳なので、恐れが消える。
勿論、これは相手と自分の力量が同じ場合のみだろうけども。
とすると、自らの力量が相手の力量を上回ることをしていたとき。
自らが死という選択を選ぶ状況は一切なくなる。
ということは、どういうことか。
最初の話に戻りますが、生きるためには殺して殺されない。
そんな時の心理状態ってどんなものでしょう。
きっと恐れや不安や怖さや絶望や。もう色々な感情を感じるでしょう。
恐らく、周りも全く見えてないでしょう。
文字通り、生きるのに必死。そんな状態だと思います。
しかし、そんな心理状態の中、戦場において、生き抜けることが当たり前みたいな雰囲気を持つ人が居たら、どうでしょう。
きっと、めっちゃ恐怖だと思うんですよ。
めっちゃ背筋ピンとしてるわ。めっちゃ綺麗に剣を振るうわ。
なんか、めっちゃ突っ込んでくるわ。恐怖でしかないと思うんですよ笑。
あ、今のところトイレに行ってませんよ笑。なんか楽しい笑。
まあそれは良いとして。
これを人狼で例えるとするのなら、吊られないためにどうするか、というのを必死に考えてる状態だと言えると思います。
疑ってきた人に、突っかかるとか。
自分の情報を、脈絡なく場に提示するとか。
恐れに満ちていて、その恐れが現実にならないように、発言を通して調整しているような、そんな状態だと思います。
こうした時って、他の人からどう見えるでしょうか。
きっと、何かしらの違和感を感じると思います。
だって、その人の、その言葉を理解するための情報が、その人の中にしかないような状況ですから。
大元の目的から逸れるような。その人の世界観に引きずり込まれるような。
そんな、異質な感覚に至ると思います。
ということは、他の人がそうした文章を見ても、こいつは圧倒的だなとか。勝てないなとか。そうした感覚を感じることはまずないわけです。
さて。ではどうしましょうか。再度、話を戦場に戻しますね。
戦場において、ある程度死の葛藤を超え、自軍の最終目的を意識できるようになるとどうなるでしょう。
選択が変わるので、必然的に行動も変わってくると思います。
すると、その人の選択は、その目的を達成するにはどうするか?という範囲の中から行われることとなり。その目的を達成するに当たって障害となるのは、どいつだ?一体何なんだ?といった風に、発想が向いていくわけです。
とすると、個を見るよりも集団を見るようになり。
例え、個を見るとしても、戦況に大きく関わるような人物を見るようになるのです。
したら、自軍から見ると頼れる存在となり。
敵軍から見ると恐れられるような存在になると思います。
なぜなら、国としての目的があるから戦をやるわけですからね。
これを人狼に例えるとどうなるでしょうか。
どの陣営も最終的に得たいのは勝利なわけです。
そうしてその勝利に向けて、ひたすらに行動する。
例えば、人外側の油断がでやすい、初動や更新開けを注意深く見るとか。
村側にとって良い結果がもたらされた時に、各々の反応を注意深く見るとか。
動揺等々で嘘が出やすい、上記の状態を観察するのは、目的と論理的な関係性にあるわけです。つまり、めっちゃ頼れる人っであると同時に。
その人を根本の目的を通して理解することができるので、理解しやすい人であるわけですか。
た…だ……。これだと、頼れるけれども、じゃあ圧倒的な凄みを感じるような。また逃げ出したくなるような雰囲気に繋がらないわけです。
だって、これじゃあ、わかりやす過ぎて、その人の底が見えてしまってますからね。
その人の底が表面に現れているのであれば、それに対して自分はどうするか?という向き合い方のみで良いわかですからね。
ということで、話をもう一度戦場に戻します。
ここまでこんな長ったらしく書いたのは、ようやくここで繋がります。
長い文章を、ここまでお読みいただきありがとうございます、もう少しです。
ついでに、腹痛に襲われることなく書けてますぜ!やった!
最初に死と生はイコールだと書きました。
なぜなら、死を意識することで生を意識するからです。
ということは、圧倒的な生を感じさせる人物に対して、圧倒的な死を感じるわけです。
だって、それだけ生を熟知してるということは、その反対の死も熟知してるわけなので。要は、相手は死なないから俺は死ぬみたいな感じです。
さて。そんな人物ってどんな人物でしょう?
軍の最終目的を意識している人でしょうか。
いや、そういった人は、一人一人の人間には目もくれないでしょう。
じゃあ戦を楽しめる人でしょうか?
それも近いと思います。
ただ楽しみは制限なく自分を表現できる時に感じるものなので。
楽しいのみだとちょっと違うのです。
どうしても、自分固有の情報のみで自分を表現することとなり、情報取得が甘くなってしまいますから。
とすると、どんな人かというと、常に目の前の人と向き合い続けられる人だと思うのです。それもただ向き合うのではなく、軍の最終目的もちゃんと知っていながらも、目の前の人と向き合う人。そんな人だと思うのです。
なぜなら、一人で戦況を変えられるような、勝利を自軍にもたらせるような力を持つ人が、自分と対等に向き合ってくるって恐怖そのものでしょう?
だって、自分と向き合う必要などないわけですから。
人は目的の見えない行動に対して恐怖を感じるわけです。
なぜなら、自分の選択が危ぶまれると感じるからです。
それに、そんな人に対しては、とても強いとか。絶対に勝てないとか。そうしたイメージを抱きやすいですから。
自分が生を手にする選択を選べる自信など持てるわけないんです。
そうした圧倒的な絶望を感じさせられたとしたら、逃げたくなるでしょう笑。
さて。これを人狼で例えると、どうなるでしょうか。
人狼において、逃げたくなる、といったような感想を相手に抱かせるには、まずはどれだけ自分ができるか示すしかないわけです。
この場合は、自分が最終目的に沿った行動をしてますよという形。
それを示して初めて、人がこの人は勝利のために行動してると捉えてくれる。
その条件が揃ったところで、徹底的に一人一人と向き合う。
人狼ならば、その人のある程度の性格や言葉のパターン。また把握できるなら、その人の限界値を把握し。
限界値を軸として、その人のありのままを捉えていく。
そうして、その人固有の人外要素をその人の文脈で導いていくこと。
抽象的ですけど、こんな感じかなと思ってます。
ただ、向き合うだけではダメなんですよね。
こいつ、なんのためにこれをやってるの?となりがちになってしまう。
特に、男性的な人にはそう見られやすいです。めっちゃ合理的なんで。
逆に、合理的過ぎても、ギリギリの勝負だと微妙になると思います。
底が見えてるので、こんなものかなとなってしまう。
だからどちらの条件も必要かなと思います。
なんでって、まず思わせることが第一条件だと思うので。
まあつらつらと書きましたが、結局のところ、一人一人がどうなるのかに責任しっかりと持つことかなと感じます。
しっかりと、自分の手で相手の選択を変えてしまうことを意識すること。
だからこそ、相手のどんな細かい情報も見逃さないようにするし、相手と自分を同一のものとして捉えようとするんだと思います。
できるかできないか置いておいて、その人の人生を全部引き受けて受け止めるような覚悟。そんなものなのかなと感じます。
まあ自分もそんな人間にいつかはなりたいと思うものです。
今回書いて思いましたが、この感覚は中々に心地よいですね。
自分が全てと感じるものを出したからこそ、感じられる反省点や修正点。
人狼の時に自己表現して反省しての繰り返しの日々を思い出しました。
やっぱり、僕はこれが好きなんだなと感じます。
まあただ修正するところは多いかなぁ笑。
もっと簡潔に纏めたいですし。まだまだ噛み砕ける。
あとはもうちょっと分かりやすく書けるかな。
まあ感覚の言語化はずっとやってきたことだから、書き続けていくにつれて、効率化を図りたいものです。感覚派は辛いものです笑。
今回もお読みいただきありがとうございました。
狼、初体験を終えた後に、村側で出来るようになる考察。
こんにちは。
今回は、狼、初体験を終えた後、村人になった時に出来るようになる考察について、書いていきたいと思います。
初めての狼はどうだったでしょうか。人を騙す、という体験は日常では中々ないことだと思います。故に、自分が狼の役に選ばれたと知ったとき、色々な感情を感じられたと思います。
「やっと狼をできるー!!」と喜びを感じた方も居たでしょう。
「仲間に迷惑をかけずにできるかな?」と不安を感じた方も居たでしょう。
「私なんかに狼ができるのかな」と自信のなさを感じた方も居たでしょう。
人によって、どう感じたかは様々だと思います。
ちなみに、僕が初めて狼をやったときは、とても怖さと緊張を感じました。
「やばい…。遂にきた…。」「俺にはできないんじゃないか…?」「でも、こんな弱さを人には見せられない…。」等々、まあ怖くて仕方ないのに、強がりながら初めての狼をやった記憶があります笑。
3.4日目とか体がプルプル震えてましたよ、確か笑。
さて。これも人によるかもしれませんが、一番最初の発言をするとき、とても怖くありませんでしたか?
「失言したらどうしよう…。」とか。「いきなり狼だってバレてしまったらどうしよう」とか。僕の場合は、この怖さはずっとありました笑。
まあ僕があるから、みんな怖さはあると言うつもりはありませんが、基本的に最初の発言は怖いものだと思います。だって、どの発言が正解なのわからないですからね。
そうして、恐らく、狼の初体験を終えた方は、怖さを感じながらも勇気をだして発言し、段々、慣れていかれたと思います。
その後、最初の方で吊られてしまった方も居たでしょう。悔しいですよね。でも、本当に一生懸命頑張られたのだと思います。
中には、終盤まで生き残った方も居たでしょう。初めてで、終盤まで残れるのは、本当に凄いことだと思います。
また、初めてで生存勝利をした方も居たでしょう。おめでとうございます、本当に素晴らしいと思います。
人によって、初めての狼がどのような体験となったのかは違われると思います。
また、体験が違うという方は感じた気持ちも様々でしょう。
僕の場合は、狼をやるってこんなに怖いし、プレッシャーを感じるものなんだ、と思いました。
始めの方で吊られた方は、始めの方で吊られる悔しさや悲しさ。また人によっては、不甲斐なさや惨めさ、また怒りも感じられたかもしれません。
終盤まで残った方は、終盤の緊張感、一つ一つの発言にかかるプレッシャーや恐れ。また人によっては、そんな緊張感が楽しいと感じる方も居るかもしれません。
生存勝利をされた方は、きっと喜びや嬉しさに満ち溢れてるでしょう。また自信を感じるかもしれません。
そうしたように、どんな体験をしたか。またどんな性格なのか。といったことによって、感じられた気持ちというのは違うと思います。
さて、長くなりましたが、ここからが本題です。
初めての狼を終えた方は、狼側の気持ち、というのを自分なりに手に入れられたと思います。これは、きっと狼をやらなければ、得られなかった武器でしょう。
狼をやることが怖かった人は、この人の発言から怖さを感じられるような発言はあるかな?という観点から見ていけると思います。
相手の強がった姿勢から、狼を見抜けるかもしれませんね。
吊られる悔しさや怒りを知っている方は、この人は吊り対象となった時に、どんな反応をするのだろうか?という観点から見ていけると思います。
語気の荒さで、狼を見抜けるかもしれませんね。
終盤まで残った方は、終盤になって、この人の発言のスピードや言葉の使い方に変化はないかな?という観点から見ていけると思います。
相手の呼吸の変化で、狼を見抜けるかもしれませんね。
生存勝利した方は、確かにこの人は村人に見えるが、俺でもこのくらいできたから、もしかしたら狼なのではないか?という観点から見ていけると思います。
他の人が騙されても、貴方だけは騙されない力を、身につけられているかもしれませんね。
といったように、村人しかしてこなかった時は、村人の気持ちでしか考察できなかったかもしれませんが。狼をやることにより、それぞれ狼側の気持ちを理解することができ、一つの武器を手に入れられたと思います。
まあこんな感じで、長くなりましたが、狼を一度やると考察において、できる幅が広がるよということについて書かせていただきました。
今回もお読みいただきありがとうございました。
初心者に向けた、感情考察の楽しみ方。
こんにちは。
今回は、2〜4戦辺りの、初心者の方に向けた、感情考察のやり方と、楽しみ方について書きたいと思います。
文章から相手の感情を読み取る、というのはすごく難しく感じると思います。
僕は最初、めちゃくちゃ苦手でした。というか、今でも苦手です笑。
一番最初に人狼を始めた時に、!の量とか!の有り無しで、この人はここでテンションが上がらないから嘘をついてる!とか、めちゃくちゃな言い掛かりで推理をしていた記憶があります笑。まあ、今となっては良い思い出ですね。
段々と、慣れてくると、意外と感情考察をすることが楽しくなってくるんですよね。
相手が発言を通して、私は正にそう思ってたんだよ、とか。正にそう考えてたよ、とか。そういったことを伝えてくれた時、俺はこの人のことを分かれてたんだなと、すごく喜びを感じるんですよね。
だから、感情考察は、人の気持ちや感情を理解しようとする分、相手のことを分かれた時の、喜びが大きい考察手法なんですよね。
当然、分かることができた自分も、分かってもらえた相手も嬉しいを感じるはずですから、自然と仲も良くなり、人狼自体が楽しくなるんですよね。
なので、始めたばかりの方には、特にやっていただけたら嬉しいなと思ってます。
さてさて。では、どのように感情考察をしていきましょうか。
まだ始めたばかりの方だと、経験数が少ないので、人狼ゲームをやると、自分がどんな気持ちを感じるか?というのは、あまり分からないと思います。
なので、相手がどう感じてるか?というのを分かることも難しいと思います。
けど、自分の今感じてる気持ちに少しだけ敏感になれば推理はできるんですよね。
それを少し解説していきたいと思います。
例えば、Aさんが居たとします。
そのAさんが、「人狼ゲームって楽しいなぁ!」と発言したとします。
この時、人狼ゲームを楽しめてない僕がこの発言を見たとしたら、「僕が楽しめてない人狼ゲームをこの人は楽しめるのか」と、思うはずです。
これだけだと、推理というよりは感想だと思います。
ここで、もし、僕が何かで人狼をやると苦しいし大変、という話を聞いたことがあるとしたら、「人狼をやると大変だし苦しいと聞いたことがある。だとしたら、人狼ゲームを楽しんでるAさんは人狼でないのでは?」と、推理できるんですよね。
もう一つ例をあげたいと思います。
Bさんが居たとします。そのBさんが、「俺は散々考えたけど、人狼が誰かわからない。この村の人達は本当に狼に見えない」と発言したとします。
その時、僕も丁度、誰が人狼かどうかわからなく、ものすごーく迷ってるとします。すると、「人狼じゃない僕と同じように迷っているBさんは、人狼じゃないのでは?」と思うと思います。
そしたら、「人狼が誰かわからないというBさんの気持ちが僕は分かる。だって、この村の人達は僕も人狼に見えないから。散々考えたけど、僕も答えが出ないんだ。だから、僕と似たような気持ちのBさんは人狼ではないと思う」といったように、推理をすることができるんですよね。
こんな形で、相手の感情や気持ちから推理しようとするときというのは、自分の気持ちや感情を軸にして、推理していくのがとても大切です。
これは、また別の時にでも解説しますが、自分の行動の整合性を保ち、客観的に説得力を持たせるという目的もあります。
端的に言えば、人狼が誰か結論が出てる人が、結論が出てない人の気持ちを考察するよりも。結論が出てない人が結論が出てない人の気持ちを考察した方が、気持ちが似通ってる分、説得力がありますよね、という感じです。
つらつらと感情考察のやり方について書いていきました。
最後に幾つか注意点を書いて終わりたいと思います。
感情考察は基本的に分かれば楽しいものですが、分からないときというのは大変だし苦しいものです。相手が気にしてるかもしれないような部分の気持ちを、無理やり推理として使うとか。相手の感情や気持ちを分かった気になって、相手に違うと言われた時に、いや相手のが違うんだ!とか言ったりとか。
どちらも僕はしてしまったことがありますが、基本的にお互いに良い結果になることはなかったです。良い結果になったと感じてても、それは相手の器が大きかった等々、相手の優しさに助けられてたことが多かったように思います。
だからこそ、感情考察をする場合は、素直に間違ってたとしたら、ごめんなさいと謝る姿勢が大事なのかなと思ってます。
最初は、自分の気持ちや感情もわからない以上、失敗というのをたくさんすると思いますが、慣れてくると、この相手にはここの感情や気持ちの推理をしたら反感を買うな、というのがそれとなく分かってくると思います。
最後は少し、湿っぽくなってしまいましたが、基本的に感情考察は楽しいものです。僕が感情の考察をしていた時は、基本的に楽しさを感じてたと思います。相手の気持ちを分かろうとすることは意外と楽しいんですよね。分かると、相手が喜んでくれると知っていれば、尚のことです。
今回はこの辺りで。
お読みいただきありがとうございました。
見知らぬ地点に立った時ほど、戦術論。
こんにちは。
今回は、戦術論の必要性と意味について書いていきたいと思います。
僕は、現役の時、戦術論なんていらないと思ってました。
相手のことを理解できる目さえあれば、人外は当てれるのだから、他の何かはいらないと思ってました。だから、かなり苦労しました。
というものの、大抵の人は、最初に戦術論や進行案を覚えます。
自分なりの理論を身に付けていくので、身に付けた理論を武器に戦います。
すると、理論を身に付けてない僕は、他の人の理論を、理解することができないんですね。だから、戦術論や進行案を主体に戦う人達を考察することに、いつも不安を感じてました。
これでちゃんと理解できてるのかな?
ちゃんとこの人の目でこの人の理論を読めてるのかな?
等々と、戦術論や進行案を主体に戦ったことのない自分は、凄く不安を感じてたんですよね。
すると、案の定、騙されることが多かったです。
戦術論を主体に戦っている人と自分とでは、取得してる情報に明らかに隔たりがあり。取得してる情報に隔たりがあると、情報量も違うので、判断点も異なることになり。結果的に、正解に辿りつくための情報を汲み取れず、掌で転がされて、騙され負けてしまう、ということが多かったように思います。
というわけで、騙されずに勝つためにも。強い人外を見抜くためにも。戦術論や進行案の理解というのは、欠かせないなと考えています。
さて。そもそもで戦術論や進行案を主体にしている人達と、考察を主体にしている人とではどう世界が見えてるんでしょうか。
僕が思うに、戦術論を主体にしている人達というのは、"どこに負けのリスクがあるか"という考え方を主体にして、物事を見てるように感じてます。
例えば、村人の数よりも人外の数が上回った時に、村の負けとなる。
というルールを知らない人は、今何人、人外が吊れているか?ということについて考えもしないと思います。
ということは、初日に確定白を占わないようにしょう、という発想も思い浮かばないと思います。占いと吊りを使った後に、どのような結果が訪れるのか、というのを知らないですからね。
逆に考察を主体にしている人の場合。主に僕の場合ですが、ある程度のルールや戦術論は知ってますが、知っていてもほとんどガン無視です。
こいつが人外だ!じゃあ吊れ!!そんな単純な思考を軸にしています笑。
勿論、そんな意見が通るのは、考察量や内容に圧倒されるような場のみだと思うので、どう説得するかというのを考えていくことにもなります。
ただまあ、戦術論や進行案が殆ど理解できないので、説得の仕様がないんですけどね。単体派と盤面派とでは異国語を話してるようなものですから。
とすると、結局戦術論や進行案の理解って、どういうプレースタイルになっていくにせよ、必要不可欠なんですよね。
特にこのゲームは、説得することが最終段階に待っています。
中には、説得の段階を飛び越えて、雰囲気や弁の強さで無理くり説得に持っていく。という荒技もありますが、それは感情や雰囲気の部分での駆け引きなので、上手くいかなくなることも多いと思います。
ということで、今回はいつも以上に抽象的ですが、戦術論を身につける必要性と戦術論の意味について、軽く書かせていただきました。
今回もお読みいただきありがとうございました。
考察に対する自信がなくなると、考察することが怖くなるお話。
こんにちは。
今回は考察が当たらなくなるに連れて、自信がなくなってきたときのお話をしていきたいと思います。
僕は考察するのが、凄く好きでした。だからいっつも単体考察をやってました。
ただ、本当に考察が当たらないんですよね。
頑張って頑張って、時間をかけて考えて結論を出していくんですが、当たらないんです。
そうすると、反省するんですよね。このやり方がダメだったのかもしれない。
ここでこう判断したのが悪かったのかもしれない等々と。
自分の何が原因で、こうした結果になってしまったのかをよく考えるんです。
ただ不思議なもので、僕の場合は、考えれば考えるほどに自信がなくなっていきました。自分がどんなやり方で考察をしたとしても、結果的に外れるのでは…?たとえ考察があっていたとしても、それはたまたまなのでは…?という、不安がでてきたんですよね。
それは、自分が今から行う考察のやり方は、誰かに歓迎されているものではないんではないか…?といったような思いでした。自分がどんなやり方の考察をしたとしても、誰の目にも止まらないような気がしたんですよね。
すると、何のために考察しているのかわからない気持ちになったり。
どう考察して良いのかわからない気持ちになったり。
わからない気持ちが湧き上がっていくだけ、自分がどうすれば良いのか、どうしたいのかという意思の部分すらわからなくなり、自信を失い、考察が怖くなりました。
人によって考察に対する自信を失う理由は、様々だと思います。
僕の場合は、どんなやり方だとしても相手の事を分かることができていないのでは?という罪悪感にはまって、自信を失っていきました。
さて。そもそもで、どうして自信を失うという形になってまで、考察をしたかったのかってところが、大事になっていくと思います。
僕が人狼を初めて間もない頃などは、ここまで考察することに拘っていませんでした。当たれば、俺すげーで終わるし。当たらなかったら、相手がこんなことしてるから悪い、で終わってたと思います。
謙虚ではないかもしれませんが、さっぱりしてるし。さっぱりしてるだけに、当たったときに素直に喜ぶことができていたと思います。
ただ、段々経験を重ねていくに連れて、自分の失敗が原因で敗北するなどの体験をすると。次第に、悪いと断定していた側の気持ちが分かってくるんです。
そうすると、気持ちが分かるだけに、自分の考察のやり方に対して、不満というのを覚えやすくなる。
なぜなら、自分の中に、常に失敗した側の気持ちが罪悪感という形で残っていますので。考察する度に、罪悪感が自分に対して不十分さを訴えてくるんです。
そうすると、どれだけやり方を変えたとしても、核となる罪悪感が変わっていませんので。どんな形の考察をしたとしても、不十分さを覚え、考察することに自信が持てなくなるんです。すると、結果的にも考察が怖くなる。
僕はこの罪悪感の連鎖で非常に苦しみました。自分のことを認めるポイントというのが、どこにもないような気がしてたんですよね。
だからこそ、ここで求められるのは、如何に罪悪感に飲まれないかということ。
僕が現役の時に、よくやっていたのは、自分が取得する情報というものに制限をかけることです。
情報を多く取得した時に、罪悪感等々が少なければ、取得選択ができるので問題がないのですが。罪悪感が強い時というのは、取得した情報を全部生かさなければという思考になりがちなんですよね。
相手の気持ちをもっとわからなければ、と思うので、小さな情報を集めて相手の気持ちに迫ろうと意識が向く。そうすると、キリがないので、苦しくなりがちなんです。僕はこの罠によくハマりました。
だから、取得する情報というのを、自分の立てた仮説に、通じるものだけにするか。もしくは、誰かが発した発言を軸として、情報を取得していくか。
とにかく、自分がこれなら他の人も納得できるだろうという安心感を持てるものを、前提とすることを僕は意識してました。
安心を抱けるものに対しては、"これが今のベストだろう"。"これ以上のものは出せないだろう"といったような、自分の最大限を認めることに通じてるので、考察することが怖くなくなるし、自信を持ちやすくなるんですね。
というわけで、今回もお読みいただきありがとうございました。
心の火山が噴火する時にこそ、人の気持ちに目を向ける。
こんにちは。
今回は、怒りに震えそうになったときには、どう対応していけば良いの?ということについて、書いていきたいと思います。
僕はよく人狼をやっているとき、怒りの感情を感じることが多かったです。
自分はこんなに頑張って考察してるのに、何で誰も認めてくれないんだとか。
自分は貴方のことをもっと知ろうとしてるのに、何でそんな高圧的態度を取ってくるんだとか。
時にはそんな感情が爆発して相手の事を責めることもありました。
ただ大抵は、良い子ちゃんを演じてそんな感情を隠していたと思います。こんな自分を人様に見せられるわけがない、隠さなきゃという感じで。
そうすると、自分の本音を隠してるわけですから、大抵の時は苦しいです。
それに相手に対して、燃えるような怒りを感じてるので、文書を読んでも柔らかく理解できなくなることも多く、一方的な判断を叩きつけることが多かったです。
すると、相手を全然理解できずに考察してしまうことも多くなり。結果的に考察自体も当たらなくなり、その度に自己嫌悪に陥っていたと思います。
理想としている考察が、怒りの感情などによりできなくなることが、自分にとっては本当に耐えられなかったんですね。
耐えられなくなると、どうしても、もっともっとと自分に違うやり方での考察を求めることになります。でも、不思議なことに、僕の場合、やり方をいくら変えても、一方的な判断をやめる、ということはできなかったんです。
だから、いくら努力しても自分の理想とする考察には辿り着かなかった。
話が変わりますが、そもそもで考察をする目的というのは何でしょうか。
僕が思うには、人外を吊るためだと思います。
人外さえ当てられてれば、考察内容は何でも良い。
しかし、たとえ合理的に考えた時、考察内容が何でも良いとしても。どう考察するか、どう相手を見ていくのか、という過程を通って、生まれた考察内容には大きなロマンがあると僕は思うんですよね。
だから、どうせ考察するのなら、結果を端に避けて、楽しんでやりたいと僕は思ったりもします。
さて。そうなると、ロマンを追い求めるためにも、怒りの感情とは上手く付き合いたいですね。僕の場合、怒っているときというのは、相手の言葉というものを自分の辞書で判断していたことが多かったように思います。
冷静な時は、この書き手の人は、ログにある文章のこういう言葉に対してこう感じたんだな。だから、こういう風な言葉を使って文章を書いてるんだなと。
冷静な時は、書き手の人の捉え方を、余裕を持って認められるんです。
だから、相手の事をより理解しやすくなる。
でも、怒っている時は、書き手の人はこう感じたと言ってるけど、そもそもでそれはこうなんじゃないの?と。書き手がこう見て"から"こう感じた。という、〜からの部分を認められずに一方的な判断をすることが多かったです。
こうした判断のポイントは人によりけりかもしれませんが、僕の場合は、どうしてもっと情報を付け足した上で考察しないの?というポイントで、怒りを感じることが多かったように思います。
じゃあその上で僕がどうしたのか、というお話をすると、とにかく相手の気持ちに目を向ける事を意識しました。相手が文章を見てこう感じて、そこで相手をこう捉えたから、こういう文章を書いたんだな、という過程を大切にしたんです。
ただすごく難しいんですよね。だって、相手の文章を見れば、条件反射的に相手の事を判断したくなります。怒ってるときなら、尚更、過程を大切にするという優しさなんて持ちたいと思わなくなります。
だから、僕の場合は、難しいからこそ、緩和策として、情報という観点で仕分けるようにしました。要は、この方の文章を見ると、〜という結論を出しているが、僕からすると情報の取得が甘い気がする。ただそれは、この人がログにある文章の中のある言葉を取得して、その情報を軸として結論を出してるからだな。
といったように、書き手の結論が、ログの中のどの言葉を情報として含んで出されているのか、というのを意識して見るようにしたんです。
そうすると、この情報を取得したときに、この人の中での出される考察の限界はこの辺りなのかなと、認めることができるので、相手の事を否定することが減るんですよね。結果的にも、相手に対する理解が進み、相手の感覚という辞書で相手の文章を読みやすくなるんですよね。
とまあこんな感じで。
今回もお読みいただきありがとうございました。
戦術論を多く語る人はどう見抜けば良いの?
こんばんは。まだまだ寒い時期が続きますね。皆さんは、いかがお過ごしでしょうか。僕は布団から抜け出せない日々が続いております。寒いと中々起きる気にもなれません。布団の中は暖かくてリラックスできますからね。
まあそれは良いとして。今回は、戦術論を多く語る人物を見抜くにはどうしたら良いの?ということに関して、書かせていただきたいと思います。
まず最初に質問させてください。子供って理屈っぽく考えるでしょうか。
恐らく考えないと思います。あー道端に花が咲いてるーとか。仮面ライダーかっこいいーとかとか。好奇心に満ちていて、楽しそうにしてるのが子供だと思います。
僕は道端に咲く花に興味が惹かれるんだ。道端にぽつんと誰の力も借りずに生きている、たくましさが好きなんだ。でも家庭に咲いてる花は嫌いなんだ。あれは人の力を借りて生きすぎだよ。枯れる未来を理屈で断ち切って咲かす花に、僕はお花の本来の美しさは感じないかな。とか言われたら、その子の深淵に子供ではない知性を強く感じてしまうでしょう。一体どんな人生を生きてきたの!?って僕だったら言いたくなってしまいそうです。
まあ大抵の子供はうんちを見てうんちうんちと喜んだり、単純に興味が惹かれるものに惹かれて幼少期を探していくでしょう。
しかし、子供も年齢を重ねるにつれ、ある障害が生まれてきます。それは親という存在です。ゲームをやりたい!時間を守りなさい!こんな会話が、時が経つにつれて増えてきそうです。本当に、憂いものです。今までは自由にやらせてくれたはずなのに。こんなに身勝手なことがあるでしょうか。子供からすれば、人権の侵害です!子供の待遇の見直しを求めます!自分のような境遇の子供を集め、親と徹底的に裁判で戦います!そんな気分でしょう…。
しかし子供って本当に良い子で賢いですよね。ゲームが出来ないなら、ゲームが出来る抜け口を探そうとするのですよ。親の言うことを聞いたり。親の良い子になって、ゲームをする時間を増やそうとしたり。子供は心のままに動くことを制限されたというのに、必死に戦います。ゲームをするため!ゲームをする時間を増やすため!まさに孤軍奮闘。一人で親という鬼と戦い、自らの道を時間をかけて切り開いていくのです。これが恋愛ゲームだったらいくつフラグをつくへるでしょうか…。
まあそんなかんやで、子は障害に屈しず道を探すわけです。
これは人狼にも言えるのでないでしょうか。昨今の汝人狼也においては、戦術論に対するある程度の理解が求められます。知らない、分からない、人として普通のことが許されない状態に陥ってるのです。知らず分からず、そのような気質を文章に込めたものは叩かれ、責められます。そしたらどうなるでしょう。人狼が好きでも楽しくても、まずは戦術論に対する理解が出来ないと、楽しむことすらできないというわけです。
としたら、好きなことをやるためには戦術論を身に付けるしかないですよね。理論で自らを岩のように硬いもので覆い隠すしかないですよね。そうしなきゃ、責められてしまいます。しかし、岩で隠した体はしなやかさを持ち合わせることはあるでしょうか。元々裸であったために攻撃され岩で隠したのです。硬い岩が体にまとわりつくうちは、自由に動けないはずです。要するに戦術論から離れられないはずです。だって、戦術論を外すことは裸になるに等しいですからね。
その姿は別のもので例えれば、化粧のようなものです。すっぴんを受け入れてもらえない中で、一体誰がすっぴんで生きていくでしょうか。すっぴんで生きていくには、すっぴんでも生きて良いと思える下地が必要になると思います。それは岩で固めず裸で生きても責める人がいないようなそんな世界だと思います。
まあそんな感じで、戦術論を語る人にはどういう状態が起きているのか?ということについて書いてみました。まあこうやって書いてる僕も、戦術論からは中々離れられなかったんですけどね。何か戦術論を書かないと妙な疎外感を感じますし。戦術論を書いてないと責められるような気がしてしまったりとかとか。ただ僕の場合は、初日に考察を書くことで褒めてもらえたこと。僕以外にも初日に考察を中心にする人が居たこと。この二点に救われたかなぁと感じてます。別に戦術論を無理に書かなくても良いかなーっていう風に思えたんですよね。勿論、戦術論を書くことが悪いわけではないですよ。あくまで戦術論と考察のバランスが取れた方が良いよねというお話です。
あとはそうだ。本題を書くのを忘れていました。はっきり言って戦術論を多用する人を見抜くのは難しいでしょう。大抵、そういう方は理論が完璧に近いです。反論する余地のない文章ができあがってることが多いのです。
そういう方は自分の失敗をよく知っています。知っているので、反論できないような文章を作り上げることができるのです。また時には責められるポイントを軸にして、中身だけを入れ替えることができる器用な方もいるはずです。でも、それらの文章は彼らの失敗からの努力により生まれているものです。彼らが知らないところを突けば、彼らの理論の穴が見えてくるかもしれません。
なので、彼らの文章を理解し過ぎないこともポイントだと思います。
彼らの文章には穴が少ないです。なので理解できないポイントを探すやり方では、きっと彼らのことは白く見えてしまうでしょう。
もうちょっと具体的に書ければ良いのですが、もう結構な量を書いたので今回はこの辺で。今回もお読みいただきありがとうございました。