リーダーとは。

リーダーには、様々な姿があると思う。

リーダーシップを発揮するリーダー。

コミュニケーションを重視するリーダー。

 

様々あると思うが、僕にとってリーダーとは、

どれだけ自分の感覚を誤魔化さないか、

が非常に重要だと思っている。

 

というものの、

基本的に、組織が本質的に共有する感覚や感情は、

皆、同じだと思っている。

だから、リーダーが自分の感じてる感覚を誤魔化すと、

必ず、その誤魔化した感覚や感情を持って、

問題を作り出す人が、現れると思っている。

 

表面的には、トラブルメーカーに見えるが、

大抵、こういった人は、組織の本質的な問題を見せてくれる。

 

というものの、個と組織では明らかに違う点がある。

それは、組織側から、感覚を提供されることだ。

方針であったり、ビジョンであったり、目標であったりなど。

 

しかし、この感覚に、馴染めない人というのは必ずいる。

基本的に全ての感覚は、全ての人が本質的に持っていると僕は考えるが、

国によっても家族によっても思考パターンは異なり、

感覚に対しての罪悪感の度合いは人によって変わる。

 

この罪悪感が、大抵、問題を作るのだが、

この罪悪感というのは、表面的に中々見えない。

だからこそ、ついていけないもの、というのは必ず現れる。

 

 

ここでは、受容や共感が求められる。

まずは、その人が新しい感覚を手にすることに対し、

罪悪感を抱いていることを認めてあげる必要がある。

 

こうした、受容や共感を行わないと、

そのものは緊張や恐れや不安や怖さ、

また悲しさや寂しさや、色々な感情を抱える可能性がある。

 

もちろん、それを感じるのは、

そのもの個人が特別おかしいわけではなく、

全体的には、組織の中の問題であることがある。

大抵、感受性の強い人程、そういう感情の影響を受けやすい。

 

そうして、受容や共感を行うことで、

その人が、新しい感覚を手にすることに対して許可が入ることがある。

 

 

しかし、もう一つリーダー側にはやることがある。

受容と共感だけでは、人の成長を促すことはできない。

 

だから、人の進むべき指針を、示していく必要がある。

これは受容と共感の観点から見ていくと、非常にわかりやすい。

 

受容と共感というのは、目の前にいる人の感覚に対して、

肯定するといった形で愛を注ぐこと。

要は、あなたの感じてる感覚を真実ですよ、と伝える行為。

 

対して、指針を示すというのは、

相手が感じていないが、真実である感覚を様々な形で提供すること。

例えば、アドバイスに関してもそうだろう。

アドバイスは、体験した時に得られた感覚を、真実とみなして、

こうした方が良いよと伝える行為。

 

そこは、知らない相手にとっては、新たな指針となり得るもの。

つまり、どこかでは、これを示していく必要がある。

しかし、この塩梅は非常に難しいと感じる。

 

 

ゆえに、個人的には、自分の感覚に目を向けることだと思う。

人は、大概、自ら主体的に変化しようとしないとき、

人の罪悪感や無価値感というのを見つめることがある。

 

別の言葉でいうのなら、あいつがやらないからといったような言葉だ。

もしくは、相手にこんなことしたら悪いんじゃないか、という感覚。

つまり、リーダーには、この感覚を、周りに感じさせない立ち回りが必要になる。

個人的には、それがリーダーに一番求められるものだと感じている。

 

組織に別のグループがあるなら別に良い。

部下は他の人に影響を受け、こうなりたいという願望を持ち、

自ら主体的に変化していく可能性がある。

しかし、グループはここしかないとしたら、誤魔化しは効かない。

大抵、リーダーと部下の感情は変わる必要があり、

どちらかにその感情を感じていくリーダーシップが求められる。

 

もし、リーダー側がプレッシャーを感じていた場合、

大概、部下も何かしらのプレッシャーを抱えていることがある。

なぜなら、プレッシャーを和らげる感覚がその場に与えられてないから。

だから、ここでは、和らげる感覚を与えていく必要がある。

しかし、それには、リーダーが自らの感覚を誤魔化さないことが必要。

 

プレッシャーを感じるならプレッシャーを感じて良い。

不安なら不安でも良い。

でもその中で、はっきりと、

この感覚は、組織全体で共有しているものだと感じる意識が大切。

そうして、そこから与えるものを探していく。言葉でも行動でも良い。

 

大概、真実の答えは自分が安心、落ち着くものであることが多い。

そして不思議なことに、その言葉を言うと、

組織全体の雰囲気が変わることもある。

 

 

また、この共有してる感覚は匂いからも探ることはできる。

どれだけ感情を誤魔化しても、生理的な反応には現れる。

誰かが匂いを発したとき、もしくは自分が匂いを感じたとき、

大抵、抑圧された感情が現れてることが多い。

生理的な反応は嘘をつかない。

 

だから、そこから組織全体の問題を探すのもありだと思う。

 

というわけで、リーダーには、

願望を抱かせるような立ち振る舞いと、

自分の感覚を通して相手の感覚を探っていく素直さなどが、

必要だと感じる。

 

とざっくりまとめてみた。

だが、腹痛を感じるので、明らかにこの限りではないだろうし、

敷き詰めればまだまだ奥深いところだろうけど。

それがまた、楽しいなぁと感じる。

けど、一先ず、自分のプレッシャーの癖をなんとかしないとなと思う笑。

大切なもの。

ちょっと、書き残しておきたい。

ずっとないと思っていたものが、今日見つかった。

 

僕は高校を三年で中退した。

その中退するまでの、何週間、不登校だった。

そのときに、担任の先生から贈られた一通の封筒があった。

 

その封筒の中には、

クラスメイトからの、メッセージが書かれた紙が入っていた。

 

当時の僕は読んだ瞬間、惨めな気持ちを感じた。

そして、捨ててしまった。

誰もわかってくれるわけないと思ってたから。

そんなの嘘だろうって思ってたから。

 

でも捨てて、何ヶ月後に引きこもり生活を始め、

幾ばくかの時が過ぎた時、

急にそのメッセージが読みたくなった。

でも、どこにもなかった。

それを、ずっとずっと後悔していた。

 

でも、今日、その封筒が見つかった。

たまたま別の探し物をしていた時に、見つけた。

母が大事に取ってくれていたみたいだった。

 

そして、その封筒の中のメッセージを、

一つ一つ見て、衝撃を受けた。

俺はこんなに愛されていたのかと。

こんなに優しい配慮をしてもらってたのかと。

 

 

多くの文章は、一緒に卒業しようという文体となっているが、

その中身は一人一人違く、

 

一緒に仲良くするのは当たり前だろう、

といった雰囲気で言葉を綴ってくれる人。

 

天然な空気から醸し出す、軽い雰囲気で、

言葉を綴ってくれる人。

 

こちらの気持ちに配慮して、

言葉を綴ってくれる人。

 

共感して、

言葉を綴ってくれた人。

 

自分と一緒に何かすることが喜びだし楽しい、

といった雰囲気てま言葉を綴ってくれた人。

 

またどの文章にも共通しているのが、

私達は仲間だよね、という視点で言葉を綴ってくれていたこと。

 

あの時、同じクラスだったよね。

同じ、部活の仲間だよね、一緒にやろうよ。 

同じ、クラスなんだから、一緒に卒業しよう。

一緒に卒業まで、楽しもう。

同じ、駅だろう。

 

そして、だから待ってるよ、待ってるぞって。

 

今日、俺はこの文章を読んで、

俺はどれだけの愛を拒んできたのか、ということに気付いた。

もし、今俺が彼らと同じ文章を書き、

受け取った相手が、受け取らなかったとしたらどうだろう。

すごく、罪悪感や後悔の気持ちを抱くと思う。

 

 

ずっとずっと、一人だと思っていた。

自分なんか待ち望まれてるわけないと思っていた。

怖くて怖くて仕方がなかった。

だから、何もやる資格はないって、ずっと自分のことを責めてた。

 

でも答えはそうじゃなかった。

もっと簡単なところにあった。

ずっとずっと戦ってきたけど、戦わなくてよかった。

ノートを48冊も積み上げなくてよかったんだ。

 

でもきっと、これだけ積み上げないと、

自分はこの愛を受け取ることはできなかったんだろうな。

そう思うと、不思議と、よく頑張ってきたなと思える。

 

きっと、すぐそこにある愛を受け取らずに、

頑張ってきたんだと自覚したからこそ、

自分の頑張りを認められたのかなって。

別にそんなことしなくたって、よかったんだぞ、的な形で。

 

今日は、本当になんなんだろうなぁ。

自己概念が壊れまくってる笑。

なんかもう、怖かったもんのほどが、幻に思えてきた。

なんで、こんなに必死に心と向き合ってきたんだろう笑。

 

自分の軌跡がバカらしく思えるほどに、

答えはずっと側にあったってことなんだろうな。

本当に本当に感謝しかないし、幸せだなぁ。

 

受け取って、色々と還元していこう。

誕生日の日にこんだけ心の変革が起きると、

明日からどうなるんだろうな。今年一年楽しみだな。

たくさん、飛躍しよう。 

今できることを、全力でするとは。

こんにちは。

今回は、今できることを、全力でするとは、

どういうことなのか、について書いていきたいと思います。

 

 

やっぱり、与えること、

誰かに何かを表現することは怖いと思うんです。

必ず、怖いなという気持ちや、

不安だなという気持ちを感じるから。

 

だから、今できることを全力でするとは、

自分の中でリスクを取ることを、決意することだと思ってます。

 

 

ただ、この決意だけでは、正直怖いと思います。

僕はめちゃめちゃ怖いです。

誰かが喜んでくれる、という確信が持てれば、

きっと、与えることは怖くなくなるかもしれません。

 

でも、それだと、与えることが、相手主体となり、

自分の本当にしたいことができなくなってしまうかもしれません。

 

本来、人は与えることが喜びです。

でも、自分なんかがという思いに絡め取られてる時は、

相手に受け取ってもらえないと、

激しい自己嫌悪に陥るんです。

僕は、めちゃめちゃその経験があります。

 

だからかもしれません。

与えるのはめちゃめちゃ怖いです。

自分を表現するのもめちゃめちゃ怖いです。

自分なんかがという気持ち、めちゃめちゃありますから。

 

だから、こんな時は、

とにかく、誰かの愛を受け取ることが、

必要だと思っています。

やばい笑。書いてて泣きそうになる笑。

 

誰かの愛を喜びとして受け取ることで、

自分が作り上げてきた、自己イメージが崩壊します。

自分なんかが、じゃなくなっちゃうんです。

 

そうすると、発想として、

もしかしたら、これを相手に与えることは、

喜びとなるのかもしれない、

というのが浮かんでくるようになります。

 

自分が受け取った時、

本当に嬉しかったからこそ、

相手も貰って嬉しいかもな、

という、気持ちを持つことができるんですよね。

 

もちろん、そう思えても、怖いものは怖いです。

だって、自分なんかが、という思いが、

完全に消えるわけではないですから。

 

 

でも一つだけ言えるのは、

愛を喜びとして受け取ることで、

リスクを取りやすくはなると思うんです。

 

喜んでもらえるかもしれない可能性を、

自分の中で知っているので、

自分の中に安心材料があるんですよね。

 

すると、受け取ってもらえなくても、

自分なんかがと思わないから、

相手の、事情を見ていけることに繋がるし、

相手を信じることにも繋がると思います。

 

もちろん、受け取ってもらえないと、

過去の数が疼いて、傷つくこともあると思います。

でも、愛を喜びとして受け取っておくと、

喜びは消えないから、

何度でも挑戦しようと、めげなくなります。

 

 

誰だって、嬉しくないものは、

相手にあげたいと思わないと思います。

だから、受け取って嬉しくないものは、

中々、与えるという発想になりにくいと思います。

 

受け取れるものは、

近くにたくさんあります。

例えば、ティッシュ

これも作ってくれた人がいます。

でも、中々喜びとしては受け取れないでしょう。

 

自分なんかがとか、

自分だけじゃなくて他の人にも、

という思いが、受け取れなくさせるはずです。

 

でも、ここで一つ、

もしかしたら、これは自分に与えられたものかも?

という、発想を持ってみてください。

 

そうすると、自然と、

ティッシュを作ってくれた人の顔、

また作ってるであろう場所、

そして、これが一番大事なのですが、

作ってくれた人の表情をちゃんと見ること。

 

そこにその人の意図がちゃんとあります。

その人は、僕に向けて作ってくれたわけじゃないけど、

僕を含めた様々な人に、このティッシュを使ってもらいたいな、

使ってここで役立ててほしいなと思ってくれていた。

 

それは多くの人に対して込められた思いだけど、

今ここにティッシュがあるということは、

その人の中では、自分も含まれてるんだろうなと。

だって、その人が作ったティッシュが今ここにあるから。

これは、自分は喜びとして受け取って良いものなのだと。

 

こんな感じで。

ただめちゃめちゃ抵抗があると思います。

僕も、そんなもの受け取れないと、

めちゃめちゃ抵抗したくなります。

 

でも、もしかしたらそうかな?

と、思うだけでも、全然違うはずです。

なぜなら、それは喜びなんだと知ることができるからです。

 

そしたら、自分が誰かの喜んでる姿を思い浮かべ、

何かを作ることに対して、前向きになると思います。

だって、それは、必ず誰かにとっての喜びになるからです。

 

 

こうした形で、与えてくれた人が、

どれだけ時間を使ってくれたのか、

また、どういった気持ちでそれを与えてくれたのか、

そういったその人の思いを見つめて、

受け取っていくことは、とても大事だと思います。

 

そうすることで、与える発想が、

たくさん浮かぶようになるだろうなと思います。

 

 

僕は今日、誕生日なのですが、

とてもとても幸せな気持ちでいっぱいです。

ここまで生きてきて、良かったなと思ってます。

 

願わくば、今日書いたこの記事が、

自分や他の人にとっての、

大きな飛躍の第一歩になりますように。

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

 

 

現実的に物事を考えるには、自信のなさを使う。

こんにちは。

今回は、現実的に物事を考えていくコツを書いていきたいと思います。

 

まず、現実的に物事を考えていくということは、どういうことでしょうか。

僕は、物事の裏側にあるリスクを、

ちゃんと、見つめることだと思っています。

 

リスクを見つめるというのは、起きる現実をしっかりと捉えて、

受け止めることに繋がるので、

じゃあ、そうした現実にならないようにするにはどうしよう?

自分が、望む現実にするにはどうしよう?

といった形の、発想に持っていくことができると思います。

 

ただ、そういった思考を、最初からするのは難しいですよね。

誰だって、自分が失敗する場面や、

上手くいかない場面なんて、想像したくはないでしょうから。

 

 

では、どのようにして考えていけば、良いでしょうか。

それは、冒頭に書いたように、自信のなさを生かすことです。

 

自信がない時って、

俺にはできるかな…、とか。

俺なんかが無理だよな、とか。

自分には望む現実は作れないし、

望まないような現実しか作れないんだ、

といった感覚を感じると思います。

 

さて。察しの良い方なら気付いたと思いますが、

自信のない時って、失敗があることを知っているんですよね。

だけど、失敗する自分を受け入れられないのです。

それは、当然のことだと思います。

誰だって、失敗するのは怖いですから。

 

だけど、失敗することを知っているのなら、

その失敗を受け入れることができれば、

失敗を事実として受け止めることができ、

じゃあその上で、自分はどうしようか?と考えていけるんですよね。

 

 

ではでは、どう自信のない自分を生かしていきましょうか。

失敗を過剰に恐れる時というのは、

失敗する自分と、

失敗に対して怒ってくる人、

という関係性が心の中で作られています。

 

多く、このパターンは家族間で作られることが多いですが、

人は、子供の頃、感情を通して、親の感情を理解するんですよね。

なので、家族の痛みを子供が受け継いでしまうんです。

 

そうすると、自分の持っている才能。

別の言葉で言い換えるなら、感覚を、使えなくなるのです。

 

詳しく説明すると、

親が失敗を過剰に恐れるのに対して、

子供が失敗はそんなに怖くないという感覚を持っていても、

その感覚を使うことは親を否定することになります。

 

そうなると、その感覚を奥深くに抑圧して、

親と同じ心理パターンを使って生きていく、

ということを、してしまうんです。

すると、自分が本来、持っていた感覚を使えなくなるのですよね。

 

だから、ここで求められるのは、

親に対して感じてる怒りを、はっきりと吐き出すこと。

もしくはその怒りを受け止めてくれる人に、吐き出すことです。

 

そうして、怒りを受け止めてもらえると、

自分の抑圧していた感覚を使うことに、

オッケーがでます。

 

なぜかというと、

怒りを通して、その感覚を使えなかった痛みを伝え、

受け止めてもらえたことで、

その感覚を使えない側の痛みを理解できるからです。

 

すると、なぜだかわからないけど、

今まで使っていた感覚と、

抑圧していた感覚を使い分けられるようになるんですよね。

 

 

今回はこの辺りで。

お読みいただきありがとうございました。

ドリブルとは全身を使って踊るということ。

こんにちは。

今回は、サッカーのことについて書いていこうかなと思います。

そろそろ、こっちの歩みも進めるときかなぁと思ったので、

とりあえず、だらだらと書いていきたいと思います。

 

僕は、ドリブルって踊ることだと思ってます。

手の指の先まで使い、

指の動かし方で、体の動きも変えて、

その僅かな動きの変化で、相手を抜いていく。

 

肩の上げ幅を使って、体を前後に揺らしたり、

肩の上げ幅の変化で、タッチの強弱や、

ボールの扱える距離を変化させたり。

 

その他にも色々あると思います。

右手の小指を僅かに折り曲げ、

その僅かな力を使って、体重を右に寄せ、

その溜めた力を使って、手を使い左に引き戻し、

その力で爆発的に左に加速していくとか。

 

全身を細やかに扱うことで、

タッチの仕方が何百パターンにもなります。

 

肩のみで肩の上げ下げするか、

肩甲骨を使い、肩に柔軟性を持たせるか、

そこに肋骨も使い、上半身に躍動感をつけるか、

またそこに、手の指も使い、

足の指の接地に多様性を持たせるか。

 

 

 

使う部位が増えるは度に、動きは多様性を生み、

使う部位を使い分けることで、踊りを作ると思ってます。

 

 

ただ僕が思うに、体の部位を細かく使うコツは、

【自分でやろうとせずに、体に委ねること】だと思います。

 

 

なぜかというと、自分でやろうとすると、

必ず力んでやろうという発想に繋がるからです。

地面を強く蹴ろうとか。

もっともっと、全身を硬めようとか。

 

自分の体の一部で解決しようという発想になりがちです。

それも悪くはないのですが、

自分の体のどこの部位を使ってないのだろう?と問いかけ、

体を探求する方が、遥かに上手くなると僕は考えてます。

 

例えば、石に躓いた時、

こけないように踏ん張るのと、

こけても良いやと体を流れるように運ぶのとでは、

次の対応が全然違います。

 

一度力むと、体重が全部、かかってしまうので、

流れるように進んでいかないんですよね。

 

でもこけても良いやと思っていると、

体は勝手に様々な骨や関節を使ってバランスを取りますから、

力むことなく、次の動作も素早く動けるのです。

 

この辺りは、僕も修行中なので、

細かくは言えませんが、

こけた時の自分の動作を観察してると、

力んでる時ほど、被害が大きいなとやはり感じます。

 

この辺りは、心理パターンも関連してるところだなと感じます。

迷惑をかけたくないと思えば、きっと力むに力むでしょう。

でも迷惑をかけても良いと思えば、力まずに、対応できるでしょう。

 

だからこそ、体の探求は心の探求でもあるし、

心のパターンが変われば、体のパターンも変わると、

しみじみと感じています。

 

まあ今回はこの辺りで。

お読みいただきありがとうございました。

匂いと感情の関係性。

こんにちは。

今回は、匂いと感情の関係性について書いていきたいと思います。

匂いって結構、個人的にはデリケートな話だと思うんですよね。

匂いに悩んだ僕だからでしょうか。特に敏感に感じる話題です。

 

さて。本題からいきなり入ると、臭いと感じることってありますよね。

ゴミの匂いでも良いですし。人の体臭とか口臭とかでも良いです。

 

世間一般的には、口臭や体臭を発生させないのは、一つのマナーとして扱われていると思います。

だからこそ、色々な匂い対策グッズが売られてるのだと思います。

 

ただ、今回は、匂いを感情の観点からアプローチしていきます。

女性を守れる男性になりたい!と思ってる男性、必見ですよ!!

 

 

さてさて。人の口臭を感じた時って、心の中ではどう感じるでしょうか。

どんな匂いがきても、全く気にならない人もいるでしょう。

臭いなと感じて、我慢しようと思う人もいるでしょう。

臭いなと感じて、その人を避けようと思う人もいるでしょう。

 

まあ色々な感じ方があると思うんです。

ただ不思議なのは、匂いが全く気にならない人もいるということです。

それは何ででしょうか?

 

私達は、誰しもが、本能的な部分を持ち合わせています。

何千、何万年という長い時をかけて、作り上げてきたものです。

だから、自分の生命が脅かされる部分に関しては、とても敏感です。

 

恐らく、生きていて、自分が臭いなって感じたことない人って居ないと思うんですよ。

そして、自分が臭いなって感じる時ってどういう時でしょうか。

例えば、歯を磨いてないと時。口の中に問題がある時。

他には、イライラしてる時。緊張状態の時なんかもそうでしょう。

 

大抵、こういう時というのは、心が安心している状態ではないですよね。

自分の臭いに気を遣えないくらい忙しいとか。

なんか、すっごい怖さや不安があって仕方がないとか。

何か、心理的に問題がある時だと思うんです。

 

 

で、この状態をもし、原始時代の角度から見ると、どうでしょうか。

敵か味方かわからないのに、目の前にいる人が、イライラしてたり。

すんごい怖がってたり。

すんごい、みすぼらしい感じだったり。

 

何かこっち側としては、その人に怖さを抱きませんか。

その人を余裕がなくさせる何かがあるのか、ってと思うんです。

だから、恐らく避けるか、警戒するか、すると思うんです。

多分ですが、よっぽど肝が座ってないと、心は許しませんよね。

 

 

こういった心理状態が、臭いと感じる時に起きてるんですよね。

 臭いって、感情によって本当に変化するし、

人はそれを感じ取れるんですよね。自分を通して知ってますから。

 

だから、もし、自分の緊張状態を嫌っていたら、

緊張状態からくる臭いを発する人を、不快に思うはずです。

 

自分が緊張状態の時に、どんな欲求を持ってるか知ってるからこそ、

その人に自分の抱いてる欲求を写し出してしまい、

その人はそういった行動をすると決めつけてしまいます。

すると、その人は怖い存在に、なってしまうわけです。

 

まあ簡潔に言えば、臭いはその人の感情や思考パターンを、教えてくれているよ、といったような感じだと思います。

 

 

だからこそ、臭いを感じた時に、自分はどんな感情を嫌っているのだろう?と視点を持ってみることも大事だと思います。

 

 

あとは、ここが一番、男性にとっては見たいポイントだと思いますが、

自分の中の攻撃性を嫌っていると、

本当に臭いものとか、風呂場のぬめりとかに、

鳥肌の立つような不快感や、気持ち悪さを感じたりするんですよね。

 

これはなぜかというと、普段の清潔な状態から、変化した状態に対して、

勝手に変化するってことは、相当危険なんじゃないか?っていうのを投影してしまうんですよね。

 

自分の怒りや攻撃性を感じた時に、それがどうして起きたのか?を知らずに、

良くないものだから抑え込もうとしてると、こうなったりします。

なぜかというと、何かを害するものになる変化を許さないからです。

 

だから、本当に臭いものとかぬめりとか、変化するものに、

すごく得体の知れないような危険を抱くんですよ。

 

これは多分、臭いとかだけじゃなく、

車とか電車とかに対してもそうじゃないですかね。

車や電車って、当たれば死にますから、角度を変えれば攻撃性そのものです。

自分の攻撃性を嫌ってると、めっちゃ怖くなります。

 

だから要は、自分の攻撃性を受け入れないと、

攻撃性を持つ何かや人に果敢に挑めないので、

結果的に、女性を守れなくなりますよ、といった感じです。

 

なので、自分の攻撃性を受け入れれば、守る力が養われますよ。

自分の感情を受け入れれば受け入れるほど、

どれだけ臭かろうが、相手を大切に扱えますよ、というお話です。

 

 

あと、一つだけ余談を。

僕はすごく、匂いに何年も悩んだのですが、

自分の匂いに悩む心理パターンとして、

匂いそのものが、目立つことであり、孤立することだ。

というような、心理パターンを持つことがあります。

 

僕はいじめの経験があるのですが、その心理パターンを持っていました。

まあ心の深いところを見ていくと、

匂いが原因ではなく、匂いを原因と判断してるだけですけどね。

 

そうすると、人の匂いが凄く気になることがある。

自分の匂いが、人から孤立する原因だと思っているだけに、

匂いを持つ人のことを、孤立する人だと断定してしまう。

 

もし、この時、孤立する自分に対して、

攻撃性を持っていると、臭い匂いを発する人に、

強い攻撃性を持ってしまうことがあるんですよね。

 

といった形で、匂いが気になる、というのは、

自分の中の感情の問題の本質を、隠すものとなりえることがあります。

これは匂いだけでなく、外見的な特徴のほどでそうですけどね。

 

どれだけの人に見ていただけるかわかりませんが、

自分の匂いが気になる人も、根本的な傷を癒せば、

過剰に気になることなく、生活できるよ、

という希望だけはお伝えできたらなと。

 

自臭症の状態は、自分も経験があるだけに、地獄そのものです。

だから、すごいお気持ちはわかります。

 

今回はこの辺で。

お読みいただきありがとうございました。

なんで、命令口調を使ってくるの?

今日は、楽しいんでもう一個書きたいと思います。

今回のお話は、「なんで命令口調を使ってくるの?」というお話についてです。

 

僕が命令でぱっと浮かぶのは、軍隊ですかね。

こうしろ、ああしろ、と言われたりするような感じがしています。

なんていうか、ピリピリした空気感のような、緊張感ばりばりのような感じがします。

 

僕が思うだけかもしれませんが、何かしらの危険が付きまとっている時に、命令口調というのは使われるような気がします。

まあ、軍隊とかだとイメージがつきやすいですよね。

 

ただ、軍隊のような、客観的に危険が付き纏わないような場面でも、

命令口調を使ってくる人とかっていますよね。

 

仕事場でとか。学校でとか。そういった場所じゃなくても、命令口調を使ってくる人というのはいるでしょう。

さて、これってなんでなんでしょうかね。

基本的に、よっぽどの危険がないのであれば、命令口調じゃなくても良いはずです。

 

でも、危険じゃなくても、命令口調を使うのだとしたら、

その人の心の中で、危険なイメージが出来上がってるのかもしれません。

 

例えば、何かお願いをしてくる時に、命令口調で伝えてくる人がいたとします。

「これやれよ」といったような形で。

 

そうした時、もしかしたら、その人の中では、

その内容を誰かがやらないと、誰かに怒られたり、責められたりしてしまう、といったような心のパターンがあるのかもしれません。

 

本来、お願いを誰かがやらなくても良いとしたら、

お願いしても良いし、しなくても良い、といった形で選択肢が生まれるはずです。

 

しかし、命令といった形で、強制を相手にさせるとしたら、

その人の中で、強制させないといけない理由があるのかもしれませんね。

 

それが何なのかは人によるかもしれませんが、

その命令を達成することは、その人にとっては本当に大事なことなのかもしれません。

 

今回はこの辺で。

お読みいただきありがとうございました。