思いのままに。
人は形であり姿であり私であると、すごく感じた。
人が過去を語るときは形を帯びるし、
未来を語るときは姿を表すし、
感情を素直に表現するときは、私を表す。
ただただその人であるということは、
こういった言葉が、時間軸を超えて、
様々な形で、ただただ事実となるのだと感じた。
それは、凄く難しいことのように思う。
どれだけ本気でも、どれだけ全力でも、
怖いし不安だし恐れるし諦めたくもなる。
過去を語るとき、人は形となるが、
話してる本人が肯定できてないとき、
また過去を隠しているときは、それは形とならない。
未来に関しても、同じ。
語らなければ、姿にはならない。しかし、語ると姿になると思う。
言葉は本当に不思議なもので、様々な性質を帯びる。
なりたいは、なぜか姿にさせる不思議な力がある。
夢を語れば、なぜかそれが叶うようになる。
でも思うのは、言葉に様々な性質を帯びさせることは難しいということ。
過去を語り、それを肯定という形で完了させることは、
中々難しいということ。
大概、なりたい姿というのは、弱い部分、隠していた部分から、
現れてくることが多いようには感じる。
けれども、そうした部分を表現する機会に恵まれない。
でも、そこを肯定した先に、初めて、本気というか、
自分らしさや自分の明確に進みたい道がでるのかなと感じる。
リーダーとは。
リーダーには、様々な姿があると思う。
リーダーシップを発揮するリーダー。
コミュニケーションを重視するリーダー。
様々あると思うが、僕にとってリーダーとは、
どれだけ自分の感覚を誤魔化さないか、
が非常に重要だと思っている。
というものの、
基本的に、組織が本質的に共有する感覚や感情は、
皆、同じだと思っている。
だから、リーダーが自分の感じてる感覚を誤魔化すと、
必ず、その誤魔化した感覚や感情を持って、
問題を作り出す人が、現れると思っている。
表面的には、トラブルメーカーに見えるが、
大抵、こういった人は、組織の本質的な問題を見せてくれる。
というものの、個と組織では明らかに違う点がある。
それは、組織側から、感覚を提供されることだ。
方針であったり、ビジョンであったり、目標であったりなど。
しかし、この感覚に、馴染めない人というのは必ずいる。
基本的に全ての感覚は、全ての人が本質的に持っていると僕は考えるが、
国によっても家族によっても思考パターンは異なり、
感覚に対しての罪悪感の度合いは人によって変わる。
この罪悪感が、大抵、問題を作るのだが、
この罪悪感というのは、表面的に中々見えない。
だからこそ、ついていけないもの、というのは必ず現れる。
ここでは、受容や共感が求められる。
まずは、その人が新しい感覚を手にすることに対し、
罪悪感を抱いていることを認めてあげる必要がある。
こうした、受容や共感を行わないと、
そのものは緊張や恐れや不安や怖さ、
また悲しさや寂しさや、色々な感情を抱える可能性がある。
もちろん、それを感じるのは、
そのもの個人が特別おかしいわけではなく、
全体的には、組織の中の問題であることがある。
大抵、感受性の強い人程、そういう感情の影響を受けやすい。
そうして、受容や共感を行うことで、
その人が、新しい感覚を手にすることに対して許可が入ることがある。
しかし、もう一つリーダー側にはやることがある。
受容と共感だけでは、人の成長を促すことはできない。
だから、人の進むべき指針を、示していく必要がある。
これは受容と共感の観点から見ていくと、非常にわかりやすい。
受容と共感というのは、目の前にいる人の感覚に対して、
肯定するといった形で愛を注ぐこと。
要は、あなたの感じてる感覚を真実ですよ、と伝える行為。
対して、指針を示すというのは、
相手が感じていないが、真実である感覚を様々な形で提供すること。
例えば、アドバイスに関してもそうだろう。
アドバイスは、体験した時に得られた感覚を、真実とみなして、
こうした方が良いよと伝える行為。
そこは、知らない相手にとっては、新たな指針となり得るもの。
つまり、どこかでは、これを示していく必要がある。
しかし、この塩梅は非常に難しいと感じる。
ゆえに、個人的には、自分の感覚に目を向けることだと思う。
人は、大概、自ら主体的に変化しようとしないとき、
人の罪悪感や無価値感というのを見つめることがある。
別の言葉でいうのなら、あいつがやらないからといったような言葉だ。
もしくは、相手にこんなことしたら悪いんじゃないか、という感覚。
つまり、リーダーには、この感覚を、周りに感じさせない立ち回りが必要になる。
個人的には、それがリーダーに一番求められるものだと感じている。
組織に別のグループがあるなら別に良い。
部下は他の人に影響を受け、こうなりたいという願望を持ち、
自ら主体的に変化していく可能性がある。
しかし、グループはここしかないとしたら、誤魔化しは効かない。
大抵、リーダーと部下の感情は変わる必要があり、
どちらかにその感情を感じていくリーダーシップが求められる。
もし、リーダー側がプレッシャーを感じていた場合、
大概、部下も何かしらのプレッシャーを抱えていることがある。
なぜなら、プレッシャーを和らげる感覚がその場に与えられてないから。
だから、ここでは、和らげる感覚を与えていく必要がある。
しかし、それには、リーダーが自らの感覚を誤魔化さないことが必要。
プレッシャーを感じるならプレッシャーを感じて良い。
不安なら不安でも良い。
でもその中で、はっきりと、
この感覚は、組織全体で共有しているものだと感じる意識が大切。
そうして、そこから与えるものを探していく。言葉でも行動でも良い。
大概、真実の答えは自分が安心、落ち着くものであることが多い。
そして不思議なことに、その言葉を言うと、
組織全体の雰囲気が変わることもある。
また、この共有してる感覚は匂いからも探ることはできる。
どれだけ感情を誤魔化しても、生理的な反応には現れる。
誰かが匂いを発したとき、もしくは自分が匂いを感じたとき、
大抵、抑圧された感情が現れてることが多い。
生理的な反応は嘘をつかない。
だから、そこから組織全体の問題を探すのもありだと思う。
というわけで、リーダーには、
願望を抱かせるような立ち振る舞いと、
自分の感覚を通して相手の感覚を探っていく素直さなどが、
必要だと感じる。
とざっくりまとめてみた。
だが、腹痛を感じるので、明らかにこの限りではないだろうし、
敷き詰めればまだまだ奥深いところだろうけど。
それがまた、楽しいなぁと感じる。
けど、一先ず、自分のプレッシャーの癖をなんとかしないとなと思う笑。
大切なもの。
ちょっと、書き残しておきたい。
ずっとないと思っていたものが、今日見つかった。
僕は高校を三年で中退した。
その中退するまでの、何週間、不登校だった。
そのときに、担任の先生から贈られた一通の封筒があった。
その封筒の中には、
クラスメイトからの、メッセージが書かれた紙が入っていた。
当時の僕は読んだ瞬間、惨めな気持ちを感じた。
そして、捨ててしまった。
誰もわかってくれるわけないと思ってたから。
そんなの嘘だろうって思ってたから。
でも捨てて、何ヶ月後に引きこもり生活を始め、
幾ばくかの時が過ぎた時、
急にそのメッセージが読みたくなった。
でも、どこにもなかった。
それを、ずっとずっと後悔していた。
でも、今日、その封筒が見つかった。
たまたま別の探し物をしていた時に、見つけた。
母が大事に取ってくれていたみたいだった。
そして、その封筒の中のメッセージを、
一つ一つ見て、衝撃を受けた。
俺はこんなに愛されていたのかと。
こんなに優しい配慮をしてもらってたのかと。
多くの文章は、一緒に卒業しようという文体となっているが、
その中身は一人一人違く、
一緒に仲良くするのは当たり前だろう、
といった雰囲気で言葉を綴ってくれる人。
天然な空気から醸し出す、軽い雰囲気で、
言葉を綴ってくれる人。
こちらの気持ちに配慮して、
言葉を綴ってくれる人。
共感して、
言葉を綴ってくれた人。
自分と一緒に何かすることが喜びだし楽しい、
といった雰囲気てま言葉を綴ってくれた人。
またどの文章にも共通しているのが、
私達は仲間だよね、という視点で言葉を綴ってくれていたこと。
あの時、同じクラスだったよね。
同じ、部活の仲間だよね、一緒にやろうよ。
同じ、クラスなんだから、一緒に卒業しよう。
一緒に卒業まで、楽しもう。
同じ、駅だろう。
そして、だから待ってるよ、待ってるぞって。
今日、俺はこの文章を読んで、
俺はどれだけの愛を拒んできたのか、ということに気付いた。
もし、今俺が彼らと同じ文章を書き、
受け取った相手が、受け取らなかったとしたらどうだろう。
すごく、罪悪感や後悔の気持ちを抱くと思う。
ずっとずっと、一人だと思っていた。
自分なんか待ち望まれてるわけないと思っていた。
怖くて怖くて仕方がなかった。
だから、何もやる資格はないって、ずっと自分のことを責めてた。
でも答えはそうじゃなかった。
もっと簡単なところにあった。
ずっとずっと戦ってきたけど、戦わなくてよかった。
ノートを48冊も積み上げなくてよかったんだ。
でもきっと、これだけ積み上げないと、
自分はこの愛を受け取ることはできなかったんだろうな。
そう思うと、不思議と、よく頑張ってきたなと思える。
きっと、すぐそこにある愛を受け取らずに、
頑張ってきたんだと自覚したからこそ、
自分の頑張りを認められたのかなって。
別にそんなことしなくたって、よかったんだぞ、的な形で。
今日は、本当になんなんだろうなぁ。
自己概念が壊れまくってる笑。
なんかもう、怖かったもんのほどが、幻に思えてきた。
なんで、こんなに必死に心と向き合ってきたんだろう笑。
自分の軌跡がバカらしく思えるほどに、
答えはずっと側にあったってことなんだろうな。
本当に本当に感謝しかないし、幸せだなぁ。
受け取って、色々と還元していこう。
誕生日の日にこんだけ心の変革が起きると、
明日からどうなるんだろうな。今年一年楽しみだな。
たくさん、飛躍しよう。
今できることを、全力でするとは。
こんにちは。
今回は、今できることを、全力でするとは、
どういうことなのか、について書いていきたいと思います。
やっぱり、与えること、
誰かに何かを表現することは怖いと思うんです。
必ず、怖いなという気持ちや、
不安だなという気持ちを感じるから。
だから、今できることを全力でするとは、
自分の中でリスクを取ることを、決意することだと思ってます。
ただ、この決意だけでは、正直怖いと思います。
僕はめちゃめちゃ怖いです。
誰かが喜んでくれる、という確信が持てれば、
きっと、与えることは怖くなくなるかもしれません。
でも、それだと、与えることが、相手主体となり、
自分の本当にしたいことができなくなってしまうかもしれません。
本来、人は与えることが喜びです。
でも、自分なんかがという思いに絡め取られてる時は、
相手に受け取ってもらえないと、
激しい自己嫌悪に陥るんです。
僕は、めちゃめちゃその経験があります。
だからかもしれません。
与えるのはめちゃめちゃ怖いです。
自分を表現するのもめちゃめちゃ怖いです。
自分なんかがという気持ち、めちゃめちゃありますから。
だから、こんな時は、
とにかく、誰かの愛を受け取ることが、
必要だと思っています。
やばい笑。書いてて泣きそうになる笑。
誰かの愛を喜びとして受け取ることで、
自分が作り上げてきた、自己イメージが崩壊します。
自分なんかが、じゃなくなっちゃうんです。
そうすると、発想として、
もしかしたら、これを相手に与えることは、
喜びとなるのかもしれない、
というのが浮かんでくるようになります。
自分が受け取った時、
本当に嬉しかったからこそ、
相手も貰って嬉しいかもな、
という、気持ちを持つことができるんですよね。
もちろん、そう思えても、怖いものは怖いです。
だって、自分なんかが、という思いが、
完全に消えるわけではないですから。
でも一つだけ言えるのは、
愛を喜びとして受け取ることで、
リスクを取りやすくはなると思うんです。
喜んでもらえるかもしれない可能性を、
自分の中で知っているので、
自分の中に安心材料があるんですよね。
すると、受け取ってもらえなくても、
自分なんかがと思わないから、
相手の、事情を見ていけることに繋がるし、
相手を信じることにも繋がると思います。
もちろん、受け取ってもらえないと、
過去の数が疼いて、傷つくこともあると思います。
でも、愛を喜びとして受け取っておくと、
喜びは消えないから、
何度でも挑戦しようと、めげなくなります。
誰だって、嬉しくないものは、
相手にあげたいと思わないと思います。
だから、受け取って嬉しくないものは、
中々、与えるという発想になりにくいと思います。
受け取れるものは、
近くにたくさんあります。
例えば、ティッシュ。
これも作ってくれた人がいます。
でも、中々喜びとしては受け取れないでしょう。
自分なんかがとか、
自分だけじゃなくて他の人にも、
という思いが、受け取れなくさせるはずです。
でも、ここで一つ、
もしかしたら、これは自分に与えられたものかも?
という、発想を持ってみてください。
そうすると、自然と、
ティッシュを作ってくれた人の顔、
また作ってるであろう場所、
そして、これが一番大事なのですが、
作ってくれた人の表情をちゃんと見ること。
そこにその人の意図がちゃんとあります。
その人は、僕に向けて作ってくれたわけじゃないけど、
僕を含めた様々な人に、このティッシュを使ってもらいたいな、
使ってここで役立ててほしいなと思ってくれていた。
それは多くの人に対して込められた思いだけど、
今ここにティッシュがあるということは、
その人の中では、自分も含まれてるんだろうなと。
だって、その人が作ったティッシュが今ここにあるから。
これは、自分は喜びとして受け取って良いものなのだと。
こんな感じで。
ただめちゃめちゃ抵抗があると思います。
僕も、そんなもの受け取れないと、
めちゃめちゃ抵抗したくなります。
でも、もしかしたらそうかな?
と、思うだけでも、全然違うはずです。
なぜなら、それは喜びなんだと知ることができるからです。
そしたら、自分が誰かの喜んでる姿を思い浮かべ、
何かを作ることに対して、前向きになると思います。
だって、それは、必ず誰かにとっての喜びになるからです。
こうした形で、与えてくれた人が、
どれだけ時間を使ってくれたのか、
また、どういった気持ちでそれを与えてくれたのか、
そういったその人の思いを見つめて、
受け取っていくことは、とても大事だと思います。
そうすることで、与える発想が、
たくさん浮かぶようになるだろうなと思います。
僕は今日、誕生日なのですが、
とてもとても幸せな気持ちでいっぱいです。
ここまで生きてきて、良かったなと思ってます。
願わくば、今日書いたこの記事が、
自分や他の人にとっての、
大きな飛躍の第一歩になりますように。
今回もお読みいただきありがとうございました。
現実的に物事を考えるには、自信のなさを使う。
こんにちは。
今回は、現実的に物事を考えていくコツを書いていきたいと思います。
まず、現実的に物事を考えていくということは、どういうことでしょうか。
僕は、物事の裏側にあるリスクを、
ちゃんと、見つめることだと思っています。
リスクを見つめるというのは、起きる現実をしっかりと捉えて、
受け止めることに繋がるので、
じゃあ、そうした現実にならないようにするにはどうしよう?
自分が、望む現実にするにはどうしよう?
といった形の、発想に持っていくことができると思います。
ただ、そういった思考を、最初からするのは難しいですよね。
誰だって、自分が失敗する場面や、
上手くいかない場面なんて、想像したくはないでしょうから。
では、どのようにして考えていけば、良いでしょうか。
それは、冒頭に書いたように、自信のなさを生かすことです。
自信がない時って、
俺にはできるかな…、とか。
俺なんかが無理だよな、とか。
自分には望む現実は作れないし、
望まないような現実しか作れないんだ、
といった感覚を感じると思います。
さて。察しの良い方なら気付いたと思いますが、
自信のない時って、失敗があることを知っているんですよね。
だけど、失敗する自分を受け入れられないのです。
それは、当然のことだと思います。
誰だって、失敗するのは怖いですから。
だけど、失敗することを知っているのなら、
その失敗を受け入れることができれば、
失敗を事実として受け止めることができ、
じゃあその上で、自分はどうしようか?と考えていけるんですよね。
ではでは、どう自信のない自分を生かしていきましょうか。
失敗を過剰に恐れる時というのは、
失敗する自分と、
失敗に対して怒ってくる人、
という関係性が心の中で作られています。
多く、このパターンは家族間で作られることが多いですが、
人は、子供の頃、感情を通して、親の感情を理解するんですよね。
なので、家族の痛みを子供が受け継いでしまうんです。
そうすると、自分の持っている才能。
別の言葉で言い換えるなら、感覚を、使えなくなるのです。
詳しく説明すると、
親が失敗を過剰に恐れるのに対して、
子供が失敗はそんなに怖くないという感覚を持っていても、
その感覚を使うことは親を否定することになります。
そうなると、その感覚を奥深くに抑圧して、
親と同じ心理パターンを使って生きていく、
ということを、してしまうんです。
すると、自分が本来、持っていた感覚を使えなくなるのですよね。
だから、ここで求められるのは、
親に対して感じてる怒りを、はっきりと吐き出すこと。
もしくはその怒りを受け止めてくれる人に、吐き出すことです。
そうして、怒りを受け止めてもらえると、
自分の抑圧していた感覚を使うことに、
オッケーがでます。
なぜかというと、
怒りを通して、その感覚を使えなかった痛みを伝え、
受け止めてもらえたことで、
その感覚を使えない側の痛みを理解できるからです。
すると、なぜだかわからないけど、
今まで使っていた感覚と、
抑圧していた感覚を使い分けられるようになるんですよね。
今回はこの辺りで。
お読みいただきありがとうございました。
ドリブルとは全身を使って踊るということ。
こんにちは。
今回は、サッカーのことについて書いていこうかなと思います。
そろそろ、こっちの歩みも進めるときかなぁと思ったので、
とりあえず、だらだらと書いていきたいと思います。
僕は、ドリブルって踊ることだと思ってます。
手の指の先まで使い、
指の動かし方で、体の動きも変えて、
その僅かな動きの変化で、相手を抜いていく。
肩の上げ幅を使って、体を前後に揺らしたり、
肩の上げ幅の変化で、タッチの強弱や、
ボールの扱える距離を変化させたり。
その他にも色々あると思います。
右手の小指を僅かに折り曲げ、
その僅かな力を使って、体重を右に寄せ、
その溜めた力を使って、手を使い左に引き戻し、
その力で爆発的に左に加速していくとか。
全身を細やかに扱うことで、
タッチの仕方が何百パターンにもなります。
肩のみで肩の上げ下げするか、
肩甲骨を使い、肩に柔軟性を持たせるか、
そこに肋骨も使い、上半身に躍動感をつけるか、
またそこに、手の指も使い、
足の指の接地に多様性を持たせるか。
使う部位が増えるは度に、動きは多様性を生み、
使う部位を使い分けることで、踊りを作ると思ってます。
ただ僕が思うに、体の部位を細かく使うコツは、
【自分でやろうとせずに、体に委ねること】だと思います。
なぜかというと、自分でやろうとすると、
必ず力んでやろうという発想に繋がるからです。
地面を強く蹴ろうとか。
もっともっと、全身を硬めようとか。
自分の体の一部で解決しようという発想になりがちです。
それも悪くはないのですが、
自分の体のどこの部位を使ってないのだろう?と問いかけ、
体を探求する方が、遥かに上手くなると僕は考えてます。
例えば、石に躓いた時、
こけないように踏ん張るのと、
こけても良いやと体を流れるように運ぶのとでは、
次の対応が全然違います。
一度力むと、体重が全部、かかってしまうので、
流れるように進んでいかないんですよね。
でもこけても良いやと思っていると、
体は勝手に様々な骨や関節を使ってバランスを取りますから、
力むことなく、次の動作も素早く動けるのです。
この辺りは、僕も修行中なので、
細かくは言えませんが、
こけた時の自分の動作を観察してると、
力んでる時ほど、被害が大きいなとやはり感じます。
この辺りは、心理パターンも関連してるところだなと感じます。
迷惑をかけたくないと思えば、きっと力むに力むでしょう。
でも迷惑をかけても良いと思えば、力まずに、対応できるでしょう。
だからこそ、体の探求は心の探求でもあるし、
心のパターンが変われば、体のパターンも変わると、
しみじみと感じています。
まあ今回はこの辺りで。
お読みいただきありがとうございました。
匂いと感情の関係性。
こんにちは。
今回は、匂いと感情の関係性について書いていきたいと思います。
匂いって結構、個人的にはデリケートな話だと思うんですよね。
匂いに悩んだ僕だからでしょうか。特に敏感に感じる話題です。
さて。本題からいきなり入ると、臭いと感じることってありますよね。
ゴミの匂いでも良いですし。人の体臭とか口臭とかでも良いです。
世間一般的には、口臭や体臭を発生させないのは、一つのマナーとして扱われていると思います。
だからこそ、色々な匂い対策グッズが売られてるのだと思います。
ただ、今回は、匂いを感情の観点からアプローチしていきます。
女性を守れる男性になりたい!と思ってる男性、必見ですよ!!
さてさて。人の口臭を感じた時って、心の中ではどう感じるでしょうか。
どんな匂いがきても、全く気にならない人もいるでしょう。
臭いなと感じて、我慢しようと思う人もいるでしょう。
臭いなと感じて、その人を避けようと思う人もいるでしょう。
まあ色々な感じ方があると思うんです。
ただ不思議なのは、匂いが全く気にならない人もいるということです。
それは何ででしょうか?
私達は、誰しもが、本能的な部分を持ち合わせています。
何千、何万年という長い時をかけて、作り上げてきたものです。
だから、自分の生命が脅かされる部分に関しては、とても敏感です。
恐らく、生きていて、自分が臭いなって感じたことない人って居ないと思うんですよ。
そして、自分が臭いなって感じる時ってどういう時でしょうか。
例えば、歯を磨いてないと時。口の中に問題がある時。
他には、イライラしてる時。緊張状態の時なんかもそうでしょう。
大抵、こういう時というのは、心が安心している状態ではないですよね。
自分の臭いに気を遣えないくらい忙しいとか。
なんか、すっごい怖さや不安があって仕方がないとか。
何か、心理的に問題がある時だと思うんです。
で、この状態をもし、原始時代の角度から見ると、どうでしょうか。
敵か味方かわからないのに、目の前にいる人が、イライラしてたり。
すんごい怖がってたり。
すんごい、みすぼらしい感じだったり。
何かこっち側としては、その人に怖さを抱きませんか。
その人を余裕がなくさせる何かがあるのか、ってと思うんです。
だから、恐らく避けるか、警戒するか、すると思うんです。
多分ですが、よっぽど肝が座ってないと、心は許しませんよね。
こういった心理状態が、臭いと感じる時に起きてるんですよね。
臭いって、感情によって本当に変化するし、
人はそれを感じ取れるんですよね。自分を通して知ってますから。
だから、もし、自分の緊張状態を嫌っていたら、
緊張状態からくる臭いを発する人を、不快に思うはずです。
自分が緊張状態の時に、どんな欲求を持ってるか知ってるからこそ、
その人に自分の抱いてる欲求を写し出してしまい、
その人はそういった行動をすると決めつけてしまいます。
すると、その人は怖い存在に、なってしまうわけです。
まあ簡潔に言えば、臭いはその人の感情や思考パターンを、教えてくれているよ、といったような感じだと思います。
だからこそ、臭いを感じた時に、自分はどんな感情を嫌っているのだろう?と視点を持ってみることも大事だと思います。
あとは、ここが一番、男性にとっては見たいポイントだと思いますが、
自分の中の攻撃性を嫌っていると、
本当に臭いものとか、風呂場のぬめりとかに、
鳥肌の立つような不快感や、気持ち悪さを感じたりするんですよね。
これはなぜかというと、普段の清潔な状態から、変化した状態に対して、
勝手に変化するってことは、相当危険なんじゃないか?っていうのを投影してしまうんですよね。
自分の怒りや攻撃性を感じた時に、それがどうして起きたのか?を知らずに、
良くないものだから抑え込もうとしてると、こうなったりします。
なぜかというと、何かを害するものになる変化を許さないからです。
だから、本当に臭いものとかぬめりとか、変化するものに、
すごく得体の知れないような危険を抱くんですよ。
これは多分、臭いとかだけじゃなく、
車とか電車とかに対してもそうじゃないですかね。
車や電車って、当たれば死にますから、角度を変えれば攻撃性そのものです。
自分の攻撃性を嫌ってると、めっちゃ怖くなります。
だから要は、自分の攻撃性を受け入れないと、
攻撃性を持つ何かや人に果敢に挑めないので、
結果的に、女性を守れなくなりますよ、といった感じです。
なので、自分の攻撃性を受け入れれば、守る力が養われますよ。
自分の感情を受け入れれば受け入れるほど、
どれだけ臭かろうが、相手を大切に扱えますよ、というお話です。
あと、一つだけ余談を。
僕はすごく、匂いに何年も悩んだのですが、
自分の匂いに悩む心理パターンとして、
匂いそのものが、目立つことであり、孤立することだ。
というような、心理パターンを持つことがあります。
僕はいじめの経験があるのですが、その心理パターンを持っていました。
まあ心の深いところを見ていくと、
匂いが原因ではなく、匂いを原因と判断してるだけですけどね。
そうすると、人の匂いが凄く気になることがある。
自分の匂いが、人から孤立する原因だと思っているだけに、
匂いを持つ人のことを、孤立する人だと断定してしまう。
もし、この時、孤立する自分に対して、
攻撃性を持っていると、臭い匂いを発する人に、
強い攻撃性を持ってしまうことがあるんですよね。
といった形で、匂いが気になる、というのは、
自分の中の感情の問題の本質を、隠すものとなりえることがあります。
これは匂いだけでなく、外見的な特徴のほどでそうですけどね。
どれだけの人に見ていただけるかわかりませんが、
自分の匂いが気になる人も、根本的な傷を癒せば、
過剰に気になることなく、生活できるよ、
という希望だけはお伝えできたらなと。
自臭症の状態は、自分も経験があるだけに、地獄そのものです。
だから、すごいお気持ちはわかります。
今回はこの辺で。
お読みいただきありがとうございました。