考察に対する自信がなくなると、考察することが怖くなるお話。

こんにちは。

今回は考察が当たらなくなるに連れて、自信がなくなってきたときのお話をしていきたいと思います。

 

僕は考察するのが、凄く好きでした。だからいっつも単体考察をやってました。

ただ、本当に考察が当たらないんですよね。

頑張って頑張って、時間をかけて考えて結論を出していくんですが、当たらないんです。

 

そうすると、反省するんですよね。このやり方がダメだったのかもしれない。

ここでこう判断したのが悪かったのかもしれない等々と。

自分の何が原因で、こうした結果になってしまったのかをよく考えるんです。

 

ただ不思議なもので、僕の場合は、考えれば考えるほどに自信がなくなっていきました。自分がどんなやり方で考察をしたとしても、結果的に外れるのでは…?たとえ考察があっていたとしても、それはたまたまなのでは…?という、不安がでてきたんですよね。

 

それは、自分が今から行う考察のやり方は、誰かに歓迎されているものではないんではないか…?といったような思いでした。自分がどんなやり方の考察をしたとしても、誰の目にも止まらないような気がしたんですよね。

 

すると、何のために考察しているのかわからない気持ちになったり。

どう考察して良いのかわからない気持ちになったり。

わからない気持ちが湧き上がっていくだけ、自分がどうすれば良いのか、どうしたいのかという意思の部分すらわからなくなり、自信を失い、考察が怖くなりました。

 

人によって考察に対する自信を失う理由は、様々だと思います。

僕の場合は、どんなやり方だとしても相手の事を分かることができていないのでは?という罪悪感にはまって、自信を失っていきました。

 

 

さて。そもそもで、どうして自信を失うという形になってまで、考察をしたかったのかってところが、大事になっていくと思います。

 

僕が人狼を初めて間もない頃などは、ここまで考察することに拘っていませんでした。当たれば、俺すげーで終わるし。当たらなかったら、相手がこんなことしてるから悪い、で終わってたと思います。

謙虚ではないかもしれませんが、さっぱりしてるし。さっぱりしてるだけに、当たったときに素直に喜ぶことができていたと思います。

 

ただ、段々経験を重ねていくに連れて、自分の失敗が原因で敗北するなどの体験をすると。次第に、悪いと断定していた側の気持ちが分かってくるんです。

そうすると、気持ちが分かるだけに、自分の考察のやり方に対して、不満というのを覚えやすくなる。

 

なぜなら、自分の中に、常に失敗した側の気持ちが罪悪感という形で残っていますので。考察する度に、罪悪感が自分に対して不十分さを訴えてくるんです。

そうすると、どれだけやり方を変えたとしても、核となる罪悪感が変わっていませんので。どんな形の考察をしたとしても、不十分さを覚え、考察することに自信が持てなくなるんです。すると、結果的にも考察が怖くなる。

 

 

僕はこの罪悪感の連鎖で非常に苦しみました。自分のことを認めるポイントというのが、どこにもないような気がしてたんですよね。

 

 

だからこそ、ここで求められるのは、如何に罪悪感に飲まれないかということ。

僕が現役の時に、よくやっていたのは、自分が取得する情報というものに制限をかけることです。

 

情報を多く取得した時に、罪悪感等々が少なければ、取得選択ができるので問題がないのですが。罪悪感が強い時というのは、取得した情報を全部生かさなければという思考になりがちなんですよね。

 

相手の気持ちをもっとわからなければ、と思うので、小さな情報を集めて相手の気持ちに迫ろうと意識が向く。そうすると、キリがないので、苦しくなりがちなんです。僕はこの罠によくハマりました。

 

だから、取得する情報というのを、自分の立てた仮説に、通じるものだけにするか。もしくは、誰かが発した発言を軸として、情報を取得していくか。

 

とにかく、自分がこれなら他の人も納得できるだろうという安心感を持てるものを、前提とすることを僕は意識してました。

安心を抱けるものに対しては、"これが今のベストだろう"。"これ以上のものは出せないだろう"といったような、自分の最大限を認めることに通じてるので、考察することが怖くなくなるし、自信を持ちやすくなるんですね。

 

というわけで、今回もお読みいただきありがとうございました。

 

 

心の火山が噴火する時にこそ、人の気持ちに目を向ける。

こんにちは。

今回は、怒りに震えそうになったときには、どう対応していけば良いの?ということについて、書いていきたいと思います。

 

僕はよく人狼をやっているとき、怒りの感情を感じることが多かったです。

自分はこんなに頑張って考察してるのに、何で誰も認めてくれないんだとか。

自分は貴方のことをもっと知ろうとしてるのに、何でそんな高圧的態度を取ってくるんだとか。

 

時にはそんな感情が爆発して相手の事を責めることもありました。

ただ大抵は、良い子ちゃんを演じてそんな感情を隠していたと思います。こんな自分を人様に見せられるわけがない、隠さなきゃという感じで。

そうすると、自分の本音を隠してるわけですから、大抵の時は苦しいです。

それに相手に対して、燃えるような怒りを感じてるので、文書を読んでも柔らかく理解できなくなることも多く、一方的な判断を叩きつけることが多かったです。

 

すると、相手を全然理解できずに考察してしまうことも多くなり。結果的に考察自体も当たらなくなり、その度に自己嫌悪に陥っていたと思います。

理想としている考察が、怒りの感情などによりできなくなることが、自分にとっては本当に耐えられなかったんですね。

 

耐えられなくなると、どうしても、もっともっとと自分に違うやり方での考察を求めることになります。でも、不思議なことに、僕の場合、やり方をいくら変えても、一方的な判断をやめる、ということはできなかったんです。

だから、いくら努力しても自分の理想とする考察には辿り着かなかった。

 

 

話が変わりますが、そもそもで考察をする目的というのは何でしょうか。

僕が思うには、人外を吊るためだと思います。

人外さえ当てられてれば、考察内容は何でも良い。

しかし、たとえ合理的に考えた時、考察内容が何でも良いとしても。どう考察するか、どう相手を見ていくのか、という過程を通って、生まれた考察内容には大きなロマンがあると僕は思うんですよね。

 

だから、どうせ考察するのなら、結果を端に避けて、楽しんでやりたいと僕は思ったりもします。

 

 

さて。そうなると、ロマンを追い求めるためにも、怒りの感情とは上手く付き合いたいですね。僕の場合、怒っているときというのは、相手の言葉というものを自分の辞書で判断していたことが多かったように思います。

 

冷静な時は、この書き手の人は、ログにある文章のこういう言葉に対してこう感じたんだな。だから、こういう風な言葉を使って文章を書いてるんだなと。

冷静な時は、書き手の人の捉え方を、余裕を持って認められるんです。

だから、相手の事をより理解しやすくなる。

 

でも、怒っている時は、書き手の人はこう感じたと言ってるけど、そもそもでそれはこうなんじゃないの?と。書き手がこう見て"から"こう感じた。という、〜からの部分を認められずに一方的な判断をすることが多かったです。

 

こうした判断のポイントは人によりけりかもしれませんが、僕の場合は、どうしてもっと情報を付け足した上で考察しないの?というポイントで、怒りを感じることが多かったように思います。

 

 

じゃあその上で僕がどうしたのか、というお話をすると、とにかく相手の気持ちに目を向ける事を意識しました。相手が文章を見てこう感じて、そこで相手をこう捉えたから、こういう文章を書いたんだな、という過程を大切にしたんです。

 

ただすごく難しいんですよね。だって、相手の文章を見れば、条件反射的に相手の事を判断したくなります。怒ってるときなら、尚更、過程を大切にするという優しさなんて持ちたいと思わなくなります。

 

だから、僕の場合は、難しいからこそ、緩和策として、情報という観点で仕分けるようにしました。要は、この方の文章を見ると、〜という結論を出しているが、僕からすると情報の取得が甘い気がする。ただそれは、この人がログにある文章の中のある言葉を取得して、その情報を軸として結論を出してるからだな。

 

といったように、書き手の結論が、ログの中のどの言葉を情報として含んで出されているのか、というのを意識して見るようにしたんです。

 

そうすると、この情報を取得したときに、この人の中での出される考察の限界はこの辺りなのかなと、認めることができるので、相手の事を否定することが減るんですよね。結果的にも、相手に対する理解が進み、相手の感覚という辞書で相手の文章を読みやすくなるんですよね。

 

 

とまあこんな感じで。

今回もお読みいただきありがとうございました。

戦術論を多く語る人はどう見抜けば良いの?

こんばんは。まだまだ寒い時期が続きますね。皆さんは、いかがお過ごしでしょうか。僕は布団から抜け出せない日々が続いております。寒いと中々起きる気にもなれません。布団の中は暖かくてリラックスできますからね。

 

まあそれは良いとして。今回は、戦術論を多く語る人物を見抜くにはどうしたら良いの?ということに関して、書かせていただきたいと思います。

 

まず最初に質問させてください。子供って理屈っぽく考えるでしょうか。

恐らく考えないと思います。あー道端に花が咲いてるーとか。仮面ライダーかっこいいーとかとか。好奇心に満ちていて、楽しそうにしてるのが子供だと思います。

僕は道端に咲く花に興味が惹かれるんだ。道端にぽつんと誰の力も借りずに生きている、たくましさが好きなんだ。でも家庭に咲いてる花は嫌いなんだ。あれは人の力を借りて生きすぎだよ。枯れる未来を理屈で断ち切って咲かす花に、僕はお花の本来の美しさは感じないかな。とか言われたら、その子の深淵に子供ではない知性を強く感じてしまうでしょう。一体どんな人生を生きてきたの!?って僕だったら言いたくなってしまいそうです。

 

まあ大抵の子供はうんちを見てうんちうんちと喜んだり、単純に興味が惹かれるものに惹かれて幼少期を探していくでしょう。

しかし、子供も年齢を重ねるにつれ、ある障害が生まれてきます。それは親という存在です。ゲームをやりたい!時間を守りなさい!こんな会話が、時が経つにつれて増えてきそうです。本当に、憂いものです。今までは自由にやらせてくれたはずなのに。こんなに身勝手なことがあるでしょうか。子供からすれば、人権の侵害です!子供の待遇の見直しを求めます!自分のような境遇の子供を集め、親と徹底的に裁判で戦います!そんな気分でしょう…。

 

しかし子供って本当に良い子で賢いですよね。ゲームが出来ないなら、ゲームが出来る抜け口を探そうとするのですよ。親の言うことを聞いたり。親の良い子になって、ゲームをする時間を増やそうとしたり。子供は心のままに動くことを制限されたというのに、必死に戦います。ゲームをするため!ゲームをする時間を増やすため!まさに孤軍奮闘。一人で親という鬼と戦い、自らの道を時間をかけて切り開いていくのです。これが恋愛ゲームだったらいくつフラグをつくへるでしょうか…。

 

まあそんなかんやで、子は障害に屈しず道を探すわけです。

これは人狼にも言えるのでないでしょうか。昨今の汝人狼也においては、戦術論に対するある程度の理解が求められます。知らない、分からない、人として普通のことが許されない状態に陥ってるのです。知らず分からず、そのような気質を文章に込めたものは叩かれ、責められます。そしたらどうなるでしょう。人狼が好きでも楽しくても、まずは戦術論に対する理解が出来ないと、楽しむことすらできないというわけです。

 

としたら、好きなことをやるためには戦術論を身に付けるしかないですよね。理論で自らを岩のように硬いもので覆い隠すしかないですよね。そうしなきゃ、責められてしまいます。しかし、岩で隠した体はしなやかさを持ち合わせることはあるでしょうか。元々裸であったために攻撃され岩で隠したのです。硬い岩が体にまとわりつくうちは、自由に動けないはずです。要するに戦術論から離れられないはずです。だって、戦術論を外すことは裸になるに等しいですからね。

 

その姿は別のもので例えれば、化粧のようなものです。すっぴんを受け入れてもらえない中で、一体誰がすっぴんで生きていくでしょうか。すっぴんで生きていくには、すっぴんでも生きて良いと思える下地が必要になると思います。それは岩で固めず裸で生きても責める人がいないようなそんな世界だと思います。

 

まあそんな感じで、戦術論を語る人にはどういう状態が起きているのか?ということについて書いてみました。まあこうやって書いてる僕も、戦術論からは中々離れられなかったんですけどね。何か戦術論を書かないと妙な疎外感を感じますし。戦術論を書いてないと責められるような気がしてしまったりとかとか。ただ僕の場合は、初日に考察を書くことで褒めてもらえたこと。僕以外にも初日に考察を中心にする人が居たこと。この二点に救われたかなぁと感じてます。別に戦術論を無理に書かなくても良いかなーっていう風に思えたんですよね。勿論、戦術論を書くことが悪いわけではないですよ。あくまで戦術論と考察のバランスが取れた方が良いよねというお話です。

 

あとはそうだ。本題を書くのを忘れていました。はっきり言って戦術論を多用する人を見抜くのは難しいでしょう。大抵、そういう方は理論が完璧に近いです。反論する余地のない文章ができあがってることが多いのです。

 

そういう方は自分の失敗をよく知っています。知っているので、反論できないような文章を作り上げることができるのです。また時には責められるポイントを軸にして、中身だけを入れ替えることができる器用な方もいるはずです。でも、それらの文章は彼らの失敗からの努力により生まれているものです。彼らが知らないところを突けば、彼らの理論の穴が見えてくるかもしれません。 

 

なので、彼らの文章を理解し過ぎないこともポイントだと思います。

彼らの文章には穴が少ないです。なので理解できないポイントを探すやり方では、きっと彼らのことは白く見えてしまうでしょう。 

 

もうちょっと具体的に書ければ良いのですが、もう結構な量を書いたので今回はこの辺で。今回もお読みいただきありがとうございました。 

嫌がらせを優しさに変えるには。

そそっかしいことに定評のある作者です。どうも。昔ですね、よくそそっかしいことで怒られたりしたんですよ。箸有るじゃないですか。あれ、食事中によく落としませんでした?僕はしょっちゅう箸を落としてたんですよ。いやあれね、触れるだけで落ちるんですよ本当に。厄介なものです。接着剤でも付いてくれれば良いのにって何度思ったことか。まあ接着剤を付けるとご飯は食べれないんですけどね。

 

それだけならまだ良いんですよ。落ちた箸を洗いに行けば良いだけですからね。しかし、箸を落とすと怒られるんですよ。やれ携帯を弄ってるのが悪いだの。テレビを見てるのが悪いだの。しっかり箸を見てないのが悪いだの。いや箸を落としただけじゃないか笑って内心思いながらも、どうやら怒る当人にとっては、箸を落としたことはそれだけ重大なことみたいです。

 

しかしそんな風に重大に捉えられれば、こっちも黙っていません。箸を落としたことで責めてくるなら、リモコンを落とした時に思いっきり責めてやろうとか、考えたりするわけです。小さなことに対する怒りは、小さなことに対する怒りでこちらも返してやろう!っていう魂胆なわけなのです。

 

が、できればこちらも穏便に済ませたいものです。リモコンに怒ってるようじゃ、本を落とした時にも怒らなくてはなりませんからね。そんな、小賢しい怒りはできれば続けたくはないのです。しかしそんな鬼姑のような、発想というのはどこから出てきてしまったのでしょうか。箸に接着剤を付けたい気持ちからでしょうか。いやいや、そんなわけはありません。接着剤を付けたい気持ちが、鬼姑のような発想になるなんてそんな馬鹿なってお話です。

 

としたら、箸を落としたことを重大なこととして扱われてしまったからでしょうか。いやいや、そんなわけありません…というわけでも無さそうです。僕にとっては、箸を落とすってことはそれほど重要なことではないのです。少々汚かったり、マナーに欠けるかもしれませんが、洗えば良いのですから。でもそんな大したことないと感じたことを、重大なこととして扱われてしまいました。これはもう由々しき事態です。だって大したことないと感じてることを重大なこととして扱われたんですから。僕はそれをマナーに欠けているという趣旨を伝えてきたと受け取りますよ!侮辱です!僕が全世界の人にマナーが悪いと言われてしまった気分です!

 

過剰な捉え方に思えるかもしれません。が、相手の怒りを間に受けてしまう時ってのは得てしてこんな気分になってしまいます。本当に難儀なものです。これでは、人と人とでコミュニケーションが取れないでありませんか。それじゃあ、楽しい食事の時間が楽しくなくなるばかりか、怒ってきた相手との仲も拗れそうです。

 

さて。僕は相手の注意を侮辱として捉えてしまいました。でも、相手は本当は怒りを通して、僕に何を伝えたかったのでしょうか。もしかしたら、マナーがないことを指摘してきたのかもしれません。もしくは不注意を指摘してきたのかもしれません。まあどちらにせよ、侮辱であることには変わりませんね。自分にとっては箸を落とすことはマナーが悪いことにも、不注意なことに接触しませんから。

 

おや?待てよ…。でもそうだとしたら、相手は何で箸を落とすことをそんな重大なことだっていう風に捉えるのだ?たかが箸。されど箸?なら天ぷら食いたい。おっと失礼。欲望が出てしまいました。天ぷら食べたいんですけどね。もしかしたら、相手にとって箸を落とすことは重大だったのかもしれません。でも、箸を落とすことが重大?そんなの股間のファスナーが開いてるのに、笑顔で女性にナンパするようなものじゃないですか!自分にとっての重大なことと、相手が最初に注目する部分とで勘違いが生まれてますよ!

 

とか何とか言いたくなる気持ちを置いといて、さっと開いていたファスナーを閉めますね。すると、相手は箸を落とすことがマナーがないことと、結び付けてしまう体験があったのかもしれません。例えば、幼い頃に箸を落とすことを徹底的に否定されたとか。箸を落とさないことが大人の嗜みよと教えられたとか。もしその教えが今も心の中で根付いているとしたら、箸を落とすことは未だに相手にとっては重大なことなのかもしれません。

 

でもこのようなことが自分にもあるはずです。人のふり見て我がふり直せとよく言いますが、自分も相手に箸が落とすことは大したことないというのが伝わってると勘違いをしていたはずです。だから侮辱と捉えてしまったはずです。でも、実際のところ相手には自分の認識っていうのは伝わってなかった。ってことは、相手は侮辱したわけではなかったんです。ただ自分の経験を通して、自分が注意されたように注意しただけだったんですよね。

 

人と話せば、すれ違うのは当たり前です。誰しもが同じ注意をされて生きてきたわけではないですから。でも自分もそうですが、人と会話すると多くの場面で自分のことをどこかで相手は分かっていると思って話してしまいます。実際はそうではないんですけどね。クーポンは使える場所が限られているように、人も理解できる範囲っていうのはその時その時で違うんです。勿論、人はクーポンのように理解できる場所が、見えるところに明記されてるわけではありません。

 

でもクーポンも使える場所を理解して、正しい割引されてくれるように。人も、相手の理解できない事情を理解しないことには、相手に合わせた会話をしてあげることっていうのはできないのです。僕も書いていて、できない部分はたくさんあるなと感じています。認識のすれ違いが起きていると感じても、怒りが湧いてくることはたくさんあります。ただ怒ってしまうのは自分と相手とですれ違っているんだっていう風に思えると、少し相手のことを許してみようかなと思えたりします。

 

そしたらちょっと嫌がらせをやめてみようかなとか。優しくしてみようかなって、ちょっとずつ思えたりもします。今回は、相手のことをわかる大切さをお伝えすることができたらなと思います。

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

 

 

経験を軸に要素を取ることの弊害。

今回は経験を軸にして、要素を取る時に起こる弊害についてお話しします。


まず小難しい話はさて置くとして、皆さんは要素をどのように取るでしょうか。

サラサラと読んで気になったところをメモする。それもありそうです。一つの主題に絞っての要素を取る。読み手に配慮する、そういうやり方もありそうですね。


まあ他にもあると思いますが置いておきます。要素取りは、大抵向き合うのは相手の文章だと思います。そりゃそうですよね。相手の考察を纏めるのですから。相手の文章から、要素を取得していくはずです。


さて。ここからは小難しい話になります。

その要素の取得というのは何により、為されているのでしょうか。多く、取得する要素の判断や、取得した要素の扱い方というのは、勝手に行われることだと思います。勝手にというのは、自分の気付かないところでという意味です。


ということは、僕たちが普段書いている考察の多くは、自分でも気付いていない感覚が影響しているのでしょう。


そしたら不思議ですね。一体、何が自分の判断に影響を及ぼしてるのでしょうか。


少し例を交えていきますね。

目の前に、アンパンがあったとします。

そのアンパンを見て、ある男性はアンパンマンを思い浮かべました。

対して、ある女性は普通のアンパンと捉えました。


目の前にあるのは一つのアンパンですが、人によって解釈の仕方が違います。これは何故でしょうか。簡単に言えば、男性はアンパンマンを知っており。対して、女性はアンパンマンを知らなかったということです。


これを人狼に当てはめてみましょう。アンパンマンを知ったことで、アンパンをアンパマンと判断できるのなら。人狼の動きも、人狼の動きを知らなければ、人狼の動きだと判断することができないわけです。


この辺りは、皆さんも周知の事実かもしれません。知らなければ判断はできませんしね。


本題はここからです。さて。このように、自分の経験で判断が行われるということは、どのような弊害が起きると思いますか?


自分の経験で判断するということは、自分と同じ経験をしたことない人には、経験が当てはまらない可能性というのがあるのです。


向かい合うものが、人ではなく物なら良いかもしれません。物は常に情報が固定されています。失敗をしないという点に重点置くのなら、自分の経験を軸にして判断すれば、大凡失敗というのは減るでしょう。


しかし人を考察するというのは、固定されてない情報を如何に探り、組み合わせていくのかということです。経験を軸にして見るということは、人を物として固定し、容易に判断を行ってしまうということです。


そしたら、どうなるでしょう。

論法として、自分はこのような経験をしてきたから、相手はしてないのはおかしいとか。このようなことがあったから、相手はこうだとか。大抵、相手のことを真に見てない、考察になってしまうと思います。


こういうのは恋愛でもあると思います。

相手の態度がぶっきらぼう。また仕事も忙しい。私の話をあまり聞いてくれない。


この三点の情報と、自分だったらこうするという経験を組み合わせて。相手は、私のことを嫌ってるとか。もしかしたら、愛は冷めたのかもとか。そんな、判断をしてしまうかもしれません。


でも事実はそうじゃないかもしれません。

仕事があまりに忙しすぎて、イライラし過ぎてたとか。イライラしてる最中に、彼女と話してしまうと、彼女に当たってしまう。だから、今は話さないでおこうと、実は彼女に対して気を遣っていたりとか。


真実は、思っていたなとは違った、というのは恋愛に限らずたくさんあると思います。


しかし、取得する情報に自分の経験などを重ねたりしてしまうのが人間です。人狼においてでも、相手にはリアルの事情があること。感情や今までの人生があること。そのような、言葉からは見えてこない情報というのを疎かにしがちになってしまいます。


言葉以外から情報を取得するというのは難しいことです。相手の見えない事情を思いやる優しさも必要です。誤解した時の、恥ずかしさを恐れない勇気も必要です。


しかし、情報は言葉だけではないのだと。自分の経験知から起きる判断を超えていく覚悟ができれば、出来ることだと思います。


是非、様々な方に言葉以外の部分から、情報を取得することをしていただけたらなと思います。


今回もお読みいただきありがとうございました。

コンビニの自動ドアから学ぶ。情報取得の大切さ。

読んでいる方の殆どは、コンビニに行ったことがあると思います。コンビニはお手軽で、品揃えも豊富ですし、小腹が空いた時にも適している。凄く便利ですよね。


ただそんなコンビニの自動ドアに着目された方というのは、あまり居ないと思います。ドアの前に立てば勝手に開いてくれますから。ストレスも無いですしね。


しかし、今回はその、あまり着目されない自動ドアを巡るお話は、人狼の場面でも生きてくるのだよというお話をしたいと思います。


さて。まずは、コンビニの自動ドアの前に立った時のことをイメージしてみてください。恐らく、この自動ドアってよく出来てるなーとか。この自動ドアって親切だよなぁとは思わないと思います。大抵、腹減ったなぁとか。今日はコンビニでシャンプー買おうとかそんな感じだと思います。


大抵、自動ドアに感情移入したり、評価したりってのはないと思います。


じゃあ次は、自動ドアが開かなかった時のことをイメージしてみてください。自動ドアが開かなかった経験がない方は、想像で浮かべてみてください。僕は自動ドアが開かなくて、頭をぶつけたことはありますけどね!


まあそれは良いとして…。

自動ドアが開かない時というのは、大抵ストレスを感じると思います。何だよ開かねぇのかよとか。ここで開かなかったら、後ろの人に迷惑をかけるじゃないかとか。大抵、苛立ったり申し訳なくなると思います。


まあ不思議なものですよね。開く開かないの問題なのに、開くか開かないかで、反応っていうのが大きく違ってくるんですから。


じゃあ何故、このような反応の違いがでてくるのでしょうか。それは簡単に言えば、自動ドアに関してどんな情報を取得してるかです。


一番最初にイメージしていただいた、自動ドアが開いてくれた時、恐らくストレスは何も感じなかったはずです。そりゃそうですよね。自動ドアっていうのは、目の前に立てば勝手に開いてくれるものですから。自動ドアは目の前に立てば開いてくれる、という認識と自動ドアとの間にズレがないわけです。


対して二番目にイメージした、自動ドアが開かない場合はどうでしょうか?本来、目の前に立てば開いてくれるはずの、自動ドアが開いてくれなかったわけです。この時は、自分の認識と自動ドアの前にズレが生じますよね。


だって、自分は自動ドアというものは、いつでも目の前に立てば、開くものだと認識しているんですから。


ということは、自分の認識していることと、実際の現実にズレがあった時に、人はストレスなどを感じたりするみたいです。


さて。少し分かりにくいかもしれないので、もう少し別の例を上げてみます。手動ドアの場合はどうでしょう?手動ドアを開けるシーンをイメージして頂きたいです。


どうでしょうか?何でここは自動ドアじゃないんだよとは思うかもしれません。しかし、何で目の前に立っても、自動で開いてくれないんだよとは思わないはずです。だって、手動ドアにはドアを開ける取っ手が付いてますからね。


としたら、もし自動ドアが開かない時の理由というのを知っていたら、自動ドアに対して怒りを感じないかもしれません。自動ドアの開かない理由が例えばセンサーが作動していないからだとしたら。


私には、センサーが作動してくれないんだなと悲しくなるかもしれません。でも、何でこの自動ドアは自動で開いてくれないんだよとは思わないと思うんですよね。自動ドアには開かない理由があることを知ってますから。


さて、長くなってきましたが、これを人狼の事例に当てはまるとどうなるでしょう。人狼の場面では多く議論で対立することが多いです。しかし、自動ドアと同じように、人にもそれぞれ固有の情報があるわけです。


しかしその固有の情報を自動ドアの時のように見逃して、対話したらどうなると思いますか?私はそんなことできないのに、そんなことを言うなよ!っていう反応になると思います。だって、私には私のペースと考え方があるんだからって話になりますから。


まあ総括しますと、自動ドアの時のように当たり前だからという理由で容易に判断すると、認識の齟齬が生まれます。それが自動ドアのような何気ないことなら良いでしょう。しかし、それが人との関係だったり、重要な場面での判断だとしたら?


取り替えしのつかないことになってしまう可能性もあると思います。まあ脅すような感じになってしまいましたが、そこまで焦るようなことではないんですよね。


自動ドアの時もそうですけど、開かないことを知って、その時に自動ドアに対して興味を持ったから、自動ドアの開かない理由というのを知れました。それと同じように、人狼でも対話での齟齬が生まれる度に、ただ修正していけば良いんです。


勿論、自分の判断を覆して新しいことに興味を抱くのは勇気のいることだと思います。怒りとか悲しみとか、そういう判断をより強固にしているものを超えていく必要があると思います。でも、その失敗の積み重ねが、相手を知るということに繋がっていくということを、今回はお伝えできればなと思います。


今回もお読みいただきありがとうございました。



認知論のお話。その見方をしてるのはだーれだ。

今日は、どうして人に対する見方が、人によって変わるの?というお話をしたいと思います。


えっと、人狼をしていると、人によって解釈が違うという場面には多く直面すると思います。

私はこの人が怪しいと思うのに、彼は違う人を疑ってるみたい。そういうものかなとか。

私はこの人は怪しくないと思うのに、他の人はみんな怪しいって言う。私の見方がおかしいの?とか。


時に、簡単に納得をする場面もあります。

ただ自分の見方を疑って、自分の見方に自信がなくなる時もあります。

しかも、自分の見方に自信が持てない時ほど、考察が合っていた…。なんてことも、あったりします。

そう思うと、人の捉え方って不思議ですよね。多数派が正解というわけではないですから。



さてさて。では、どうして人によって、見方というのが変わってくるんでしょうか?

簡単に言えば、人によって人生が違うからにになります。でも、今回は心理学的な立ち位置から、解説をしていきたいと思います。


えっと、どこから解説しましょう。

そうですね。例を交えましょう。

私は、終盤の局面でいつも慌ててしまう。だから慌てる性格を直さなきゃ、って思っている人が居たとします。


そんな子は、自分に似ている、終盤で慌てる子を見て、どう考えると、思いますか?

多分ですけど、あぁこの子も、私と同じで終盤に慌てる子なんだな。だったら、この子も困っているはずだから、私が努力してきて身につけた知識を教えようかな?という風に、考えると、思うんですよね。


私にとって、慌てることは直す必要のあることだから、きっとこの子も直すということを望んでいるはずだという見方をするかなと。


もしくは、相手の子が慌てることに悪びれてないことを見てしまったら、この子は慌てることに悪びれないんだなと。すごく、嫌味を感じさせるような目で見てしまうかもしれません。


次に、私は終盤の局面で慌ててしまう。ただ、それはそれで悪くないよね。という風に思っている子が居たとします。


そんな子が、自分に似ている、終盤の局面で慌てる子を見て、どう思うでしょうか?


恐らくですが、この子は終盤の局面で慌てる子なんだな。でも、まあ慌てることくらいあるよね。私もあるし。という感じで、相手の慌てる部分を受け止めれると思うんです。


たとえ、相手が慌てていることに悪びれていなかったとしても、慌てることは悪いことではないと捉えてますから。この子は、慌てることを悪いことに捉える、本当は人の役に立ちたい子なんだなと見れるかもしれません。



さてさて。認識する対象が同じなのに、感じ方がこんなにも変わるのは何故なのでしょう?

それは、慌てている自分のことをどのように扱っているのかどうかです。


最初の例を交えた彼女は、自分の慌てる姿を直すものとして捉えてました。直すものという捉え方をするということは、慌てる自分を責めるということです。


責めるということは、自分は全力でやってなかったとか。うまくやれてなかったなど。

自分に対して、それが限界だったとか、自分に弱さなどがあるとか、自分に対してありのままの愛情を吹き込む行為とは、正反対の行いをしているということです。


つまり、慌てない自分になれてこそ全力の自分で。慌てている自分は全力ではない。ということは、慌てない自分になるまでは、自分の弱さや理由はすべて認めない。言い訳だ、という姿勢を貫くということになります。


対して、二人目に例に出した彼女。

彼女は、自分の慌てている部分を直すべきものとしては捉えていません。慌てるくらい誰にでもあるよねと。自分の慌てている部分を、特別なものとして捉えていません。


ということは、特別なことではない慌てるという行為は、彼女にとっては日常のようなものなのです。すると、慌てている子を見ても、まあそういうこともあるよねくらいの目線で見ることができるんですよね。


まあ要するに、自分のできなかった部分をどのように捉えるかで、人に対する見方というのが変わってくるというわけです。


と言いましても、人が自分のできなかったことを弱さという形で、特別なものとして捉えてしまうのは仕方のないことです。

誰だって、できないというのは悲しい。

そのできないことが、自分だけがという風に感じられたら尚更悲しいはずです。


人は悲しさを変えようとする習性もあるので、まあ仕方のないことなんですけどね。

ただ、その仕方のないことを、もし…。こういう悲しい気持ちは自分だけではなく、誰しもが必ず通る道だと。特別なものから一般的なものへと捉え方を変えられたとしたら。


相手の見えない部分に着目できるようになるばかりか、きっと相手に対しても愛情を持った目で見れるようになると思うんですよね。


今回は以上です。お役に立てたら幸いです。

今回もお読みいただきありがとうございました!