投影を変えるとは。

基本的に、人は様々なものを相手に投影します。

投影とは、自分の中の抑圧された無価値観や罪悪感を通して、

相手を見るということです。

 

具体的には、自分が1人で楽しむことに許可を出せない時、

1人で楽しめない相手を見て、

そいつは楽しむことができないと判断をし、

その人に対して不快な印象を持つということです。

 

 

この投影という考え方は、自らの人生を、

主体的に生きるために、とても大事な考え方だと思っています。

 

誰かに対し、楽しめない人だという判断を行うとき、

それは、自らも主体的には楽しむことができない、

という、依存的な立場を取っていることになります。

 

なぜなら、楽しいという感情の選び方が、相手次第だからです。

だから、私のことをどう楽しませたくれるの?

という発想になりがちになってしまいます。

 

そうすると、自分が楽しませる側に回ったとき、

非常に苦しくなってくると思います。

 

 

自分が楽しみ方を相手に求めていただけ、

自分が楽しませる側に回る時に、

相手が楽しんでくれないのではないか、という思いを持ちがちになります。

 

つまり、人は主体的に楽しいと感じることを選択するではなく、

人によって楽しいと感じることを選択する、

といった見方をすることになるわけです。

 

 

さて、ではこのパターンをどう変えていきましょうか。

一つは、人が楽しませてくれたことを受け取っていくことです。

 

心の底から楽しいと思ってなくても良いんです、

ただ心の中で一回でも良いから、楽しいって言ってみる。

 

そうすると、今までのパターンが変化します。

 

楽しいという一言により、何が楽しいか見つけるようになります。

 

もう一つは、楽しい楽しいと心の中で言い続けることです。

最終的には楽しませる側の時の、不安や怖さを感じなければ、

勝手に楽しむことはできるはずです。

 

なので、誰かがネガテイブな発言をした時、

すごく緊張で真面目な発言をしていた時、

自分の中で何を感じるのかに目を向けて、

もし不快感に似たような感覚を感じるのなら、

その不快感が求めてる言葉を相手に言ってあげるのです。

 

例えば、お前がいるだけで俺は楽しい。

お前の声を聞けるだけで俺は嬉しいし最高に幸せなんだ。

 

とにかくコツは、自分が言って欲しいことを、

心の中でも相手に言ってあげることです。

 

そこで幸せや楽しいなどを感じれば成功です。

その瞬間からイメージは変わり、

緊張していようがネガテイブな発言をしていようが、

楽しいもん楽しいし幸せなもんは幸せだ、という考え方になります。

 

すると、自らが何かを話すとき、

俺は何を話しても人は楽しいと幸せと感じるはずだ、

といった見方で人を見ることができるんですよね。

 

そうすると、きっと、みんな楽しんでくれると思います。

楽しい人に目を向けられれば、楽しいですからね。

 

今回もお読みいただかありがとうございました。

エネルギーという感覚。

僕は、なんとなくエネルギーを取り込みやすい性質な気がしてる。

相手の底に秘めた感覚を、心と体で感じることが多い。

 

だから、人と仲良くなるのには結構時間がかかる。

相手のエネルギーを感じると、

このエネルギーに合わせないと、という意識がよく先行するため、

一気に緊張度が高まることが多い。

 

特に、何かしらの責任が生じる、制限のある場ではそうなりやすい。

人の、しなければならないというエネルギーは本当によく感じる。

 

だいたい、それを感じたときというのは、めっちゃしんどい。

心の中で、相手のそうしなければならない、

という気持ちが本当に伝わってくる。

 

具体的には、今からこれを言おうとしてるのだろうなとか、

今からこれをしようとしてるのだろうな、というのが伝わってくる。

それは表情や体のわずかな動き、目などから感じ取っているはず。

 

 

いつも人と話したりするときというのは、相手の感覚と

チューニングすることを意識しているのだが、

場が広い時だと、様々な人のエネルギーを取り込み、

そんなことしなければならないなんて無理、

といったような感覚も取り込むため、

チューニングすることに非常に罪悪感を感じる。

 

そうすると、大概顔が顔が引きつるのと、笑顔がぎこちなくなる。

また、言葉が全くをもってでてこなくなり、

誰かと話すのが本当に本当にめんどくさくなってくる。

 

ただ、大体こうして取り込んだエネルギーは、

自分の中の未消化となっている感情である可能性が高い。

大抵、自分の中の未消化の感情を癒していくこと、

もしくは、感覚を引き上げることで、

そこに対して愛や持つことが可能となり、

罪悪感を抱かなくなることが多い。

 

しかし、そうは言っても取り込むからめんどくさい。

人が、不足感を軸にして意思決定を行えば、

それは目線の固定や、視野として取り込む場所の制限として、

現れることが多い。

 

大体それを見ると、必死に頑張ってるけども、

これで良いのかなといった不安を感じてることが伝わってくる。

そうすると、僕が主体的に動くことができなくなる。

僕が相手が見えてなかった部分から答えを導いて、 

それによって、相手はきっと罪悪感と無価値観を感じるだろうなと。

 

そう思うと、何も言えないし、

答えは知っていても、何もやらなくなること、

何も言わなくなることが非常に多い。

だから、主体的に動くということは本当に嫌いだと感じる。

ここは、おそらくというか、間違いなく、

未消化の感情からの投影だろうけど。

 

だから、やらないとか、しないとか、

そうした意思決定を持ってる人の近くは非常に楽だと感じる。

何もやらなくて良いと感じる。

この場では、そういった対応もありかと感じられる。

そうすると、ただ感覚のままにアドバイスしている自分を感じる。

 

おそらく、自分の中の投影が変わったからだろうけど。

そう思うと、自分の中の未消化の感情が多い故に、

そうした選択になっているのかなと、非常に感じられる。

 

だから選択肢にもっと許可を出すことで、これを打破する必要が、

あるなという風に感じられる。

 

あとは、だから人のどんな部分でも、

受け止めようと思うのかなと感じる。

 

自分が楽さを作り出すには、相手のその縛られた観念を、

解いてあげることが大事だろうなと感じていて、

自由になって、飛び立ってくださいと願ってるのかなと感じる。

だから自由のような、意思決定を自らが主体となって選択するような人が、

好きだったりするのだろうなという風に感じられる。

 

つまり、この相手の自由さに好きを抱いて、

自分の自由さに許可を出さないパターンというのは、

自分の中にある様々な縛られたような感覚を癒していかないと、

変わることのないものだと感じる。

 

おそらくこのパターンを変えないと、彼女ができたときに、

そんなに自由にして俺のことを愛してないのか?といったような、

俺は自由でないし、俺が自由を許可してるのに、なぜ君は、

俺の君に対する気持ちをわからない?とおった形の、

攻撃心に変わることは強く感じる。

思いのままに。

人は形であり姿であり私であると、すごく感じた。

人が過去を語るときは形を帯びるし、

未来を語るときは姿を表すし、

感情を素直に表現するときは、私を表す。

 

ただただその人であるということは、

こういった言葉が、時間軸を超えて、

様々な形で、ただただ事実となるのだと感じた。

 

それは、凄く難しいことのように思う。

どれだけ本気でも、どれだけ全力でも、

怖いし不安だし恐れるし諦めたくもなる。

 

過去を語るとき、人は形となるが、

話してる本人が肯定できてないとき、

また過去を隠しているときは、それは形とならない。

未来に関しても、同じ。

語らなければ、姿にはならない。しかし、語ると姿になると思う。

 

 

言葉は本当に不思議なもので、様々な性質を帯びる。

なりたいは、なぜか姿にさせる不思議な力がある。

夢を語れば、なぜかそれが叶うようになる。

 

でも思うのは、言葉に様々な性質を帯びさせることは難しいということ。

過去を語り、それを肯定という形で完了させることは、

中々難しいということ。

 

 

 

 

大概、なりたい姿というのは、弱い部分、隠していた部分から、

現れてくることが多いようには感じる。

けれども、そうした部分を表現する機会に恵まれない。

 

でも、そこを肯定した先に、初めて、本気というか、

自分らしさや自分の明確に進みたい道がでるのかなと感じる。

リーダーとは。

リーダーには、様々な姿があると思う。

リーダーシップを発揮するリーダー。

コミュニケーションを重視するリーダー。

 

様々あると思うが、僕にとってリーダーとは、

どれだけ自分の感覚を誤魔化さないか、

が非常に重要だと思っている。

 

というものの、

基本的に、組織が本質的に共有する感覚や感情は、

皆、同じだと思っている。

だから、リーダーが自分の感じてる感覚を誤魔化すと、

必ず、その誤魔化した感覚や感情を持って、

問題を作り出す人が、現れると思っている。

 

表面的には、トラブルメーカーに見えるが、

大抵、こういった人は、組織の本質的な問題を見せてくれる。

 

というものの、個と組織では明らかに違う点がある。

それは、組織側から、感覚を提供されることだ。

方針であったり、ビジョンであったり、目標であったりなど。

 

しかし、この感覚に、馴染めない人というのは必ずいる。

基本的に全ての感覚は、全ての人が本質的に持っていると僕は考えるが、

国によっても家族によっても思考パターンは異なり、

感覚に対しての罪悪感の度合いは人によって変わる。

 

この罪悪感が、大抵、問題を作るのだが、

この罪悪感というのは、表面的に中々見えない。

だからこそ、ついていけないもの、というのは必ず現れる。

 

 

ここでは、受容や共感が求められる。

まずは、その人が新しい感覚を手にすることに対し、

罪悪感を抱いていることを認めてあげる必要がある。

 

こうした、受容や共感を行わないと、

そのものは緊張や恐れや不安や怖さ、

また悲しさや寂しさや、色々な感情を抱える可能性がある。

 

もちろん、それを感じるのは、

そのもの個人が特別おかしいわけではなく、

全体的には、組織の中の問題であることがある。

大抵、感受性の強い人程、そういう感情の影響を受けやすい。

 

そうして、受容や共感を行うことで、

その人が、新しい感覚を手にすることに対して許可が入ることがある。

 

 

しかし、もう一つリーダー側にはやることがある。

受容と共感だけでは、人の成長を促すことはできない。

 

だから、人の進むべき指針を、示していく必要がある。

これは受容と共感の観点から見ていくと、非常にわかりやすい。

 

受容と共感というのは、目の前にいる人の感覚に対して、

肯定するといった形で愛を注ぐこと。

要は、あなたの感じてる感覚を真実ですよ、と伝える行為。

 

対して、指針を示すというのは、

相手が感じていないが、真実である感覚を様々な形で提供すること。

例えば、アドバイスに関してもそうだろう。

アドバイスは、体験した時に得られた感覚を、真実とみなして、

こうした方が良いよと伝える行為。

 

そこは、知らない相手にとっては、新たな指針となり得るもの。

つまり、どこかでは、これを示していく必要がある。

しかし、この塩梅は非常に難しいと感じる。

 

 

ゆえに、個人的には、自分の感覚に目を向けることだと思う。

人は、大概、自ら主体的に変化しようとしないとき、

人の罪悪感や無価値感というのを見つめることがある。

 

別の言葉でいうのなら、あいつがやらないからといったような言葉だ。

もしくは、相手にこんなことしたら悪いんじゃないか、という感覚。

つまり、リーダーには、この感覚を、周りに感じさせない立ち回りが必要になる。

個人的には、それがリーダーに一番求められるものだと感じている。

 

組織に別のグループがあるなら別に良い。

部下は他の人に影響を受け、こうなりたいという願望を持ち、

自ら主体的に変化していく可能性がある。

しかし、グループはここしかないとしたら、誤魔化しは効かない。

大抵、リーダーと部下の感情は変わる必要があり、

どちらかにその感情を感じていくリーダーシップが求められる。

 

もし、リーダー側がプレッシャーを感じていた場合、

大概、部下も何かしらのプレッシャーを抱えていることがある。

なぜなら、プレッシャーを和らげる感覚がその場に与えられてないから。

だから、ここでは、和らげる感覚を与えていく必要がある。

しかし、それには、リーダーが自らの感覚を誤魔化さないことが必要。

 

プレッシャーを感じるならプレッシャーを感じて良い。

不安なら不安でも良い。

でもその中で、はっきりと、

この感覚は、組織全体で共有しているものだと感じる意識が大切。

そうして、そこから与えるものを探していく。言葉でも行動でも良い。

 

大概、真実の答えは自分が安心、落ち着くものであることが多い。

そして不思議なことに、その言葉を言うと、

組織全体の雰囲気が変わることもある。

 

 

また、この共有してる感覚は匂いからも探ることはできる。

どれだけ感情を誤魔化しても、生理的な反応には現れる。

誰かが匂いを発したとき、もしくは自分が匂いを感じたとき、

大抵、抑圧された感情が現れてることが多い。

生理的な反応は嘘をつかない。

 

だから、そこから組織全体の問題を探すのもありだと思う。

 

というわけで、リーダーには、

願望を抱かせるような立ち振る舞いと、

自分の感覚を通して相手の感覚を探っていく素直さなどが、

必要だと感じる。

 

とざっくりまとめてみた。

だが、腹痛を感じるので、明らかにこの限りではないだろうし、

敷き詰めればまだまだ奥深いところだろうけど。

それがまた、楽しいなぁと感じる。

けど、一先ず、自分のプレッシャーの癖をなんとかしないとなと思う笑。

大切なもの。

ちょっと、書き残しておきたい。

ずっとないと思っていたものが、今日見つかった。

 

僕は高校を三年で中退した。

その中退するまでの、何週間、不登校だった。

そのときに、担任の先生から贈られた一通の封筒があった。

 

その封筒の中には、

クラスメイトからの、メッセージが書かれた紙が入っていた。

 

当時の僕は読んだ瞬間、惨めな気持ちを感じた。

そして、捨ててしまった。

誰もわかってくれるわけないと思ってたから。

そんなの嘘だろうって思ってたから。

 

でも捨てて、何ヶ月後に引きこもり生活を始め、

幾ばくかの時が過ぎた時、

急にそのメッセージが読みたくなった。

でも、どこにもなかった。

それを、ずっとずっと後悔していた。

 

でも、今日、その封筒が見つかった。

たまたま別の探し物をしていた時に、見つけた。

母が大事に取ってくれていたみたいだった。

 

そして、その封筒の中のメッセージを、

一つ一つ見て、衝撃を受けた。

俺はこんなに愛されていたのかと。

こんなに優しい配慮をしてもらってたのかと。

 

 

多くの文章は、一緒に卒業しようという文体となっているが、

その中身は一人一人違く、

 

一緒に仲良くするのは当たり前だろう、

といった雰囲気で言葉を綴ってくれる人。

 

天然な空気から醸し出す、軽い雰囲気で、

言葉を綴ってくれる人。

 

こちらの気持ちに配慮して、

言葉を綴ってくれる人。

 

共感して、

言葉を綴ってくれた人。

 

自分と一緒に何かすることが喜びだし楽しい、

といった雰囲気てま言葉を綴ってくれた人。

 

またどの文章にも共通しているのが、

私達は仲間だよね、という視点で言葉を綴ってくれていたこと。

 

あの時、同じクラスだったよね。

同じ、部活の仲間だよね、一緒にやろうよ。 

同じ、クラスなんだから、一緒に卒業しよう。

一緒に卒業まで、楽しもう。

同じ、駅だろう。

 

そして、だから待ってるよ、待ってるぞって。

 

今日、俺はこの文章を読んで、

俺はどれだけの愛を拒んできたのか、ということに気付いた。

もし、今俺が彼らと同じ文章を書き、

受け取った相手が、受け取らなかったとしたらどうだろう。

すごく、罪悪感や後悔の気持ちを抱くと思う。

 

 

ずっとずっと、一人だと思っていた。

自分なんか待ち望まれてるわけないと思っていた。

怖くて怖くて仕方がなかった。

だから、何もやる資格はないって、ずっと自分のことを責めてた。

 

でも答えはそうじゃなかった。

もっと簡単なところにあった。

ずっとずっと戦ってきたけど、戦わなくてよかった。

ノートを48冊も積み上げなくてよかったんだ。

 

でもきっと、これだけ積み上げないと、

自分はこの愛を受け取ることはできなかったんだろうな。

そう思うと、不思議と、よく頑張ってきたなと思える。

 

きっと、すぐそこにある愛を受け取らずに、

頑張ってきたんだと自覚したからこそ、

自分の頑張りを認められたのかなって。

別にそんなことしなくたって、よかったんだぞ、的な形で。

 

今日は、本当になんなんだろうなぁ。

自己概念が壊れまくってる笑。

なんかもう、怖かったもんのほどが、幻に思えてきた。

なんで、こんなに必死に心と向き合ってきたんだろう笑。

 

自分の軌跡がバカらしく思えるほどに、

答えはずっと側にあったってことなんだろうな。

本当に本当に感謝しかないし、幸せだなぁ。

 

受け取って、色々と還元していこう。

誕生日の日にこんだけ心の変革が起きると、

明日からどうなるんだろうな。今年一年楽しみだな。

たくさん、飛躍しよう。 

今できることを、全力でするとは。

こんにちは。

今回は、今できることを、全力でするとは、

どういうことなのか、について書いていきたいと思います。

 

 

やっぱり、与えること、

誰かに何かを表現することは怖いと思うんです。

必ず、怖いなという気持ちや、

不安だなという気持ちを感じるから。

 

だから、今できることを全力でするとは、

自分の中でリスクを取ることを、決意することだと思ってます。

 

 

ただ、この決意だけでは、正直怖いと思います。

僕はめちゃめちゃ怖いです。

誰かが喜んでくれる、という確信が持てれば、

きっと、与えることは怖くなくなるかもしれません。

 

でも、それだと、与えることが、相手主体となり、

自分の本当にしたいことができなくなってしまうかもしれません。

 

本来、人は与えることが喜びです。

でも、自分なんかがという思いに絡め取られてる時は、

相手に受け取ってもらえないと、

激しい自己嫌悪に陥るんです。

僕は、めちゃめちゃその経験があります。

 

だからかもしれません。

与えるのはめちゃめちゃ怖いです。

自分を表現するのもめちゃめちゃ怖いです。

自分なんかがという気持ち、めちゃめちゃありますから。

 

だから、こんな時は、

とにかく、誰かの愛を受け取ることが、

必要だと思っています。

やばい笑。書いてて泣きそうになる笑。

 

誰かの愛を喜びとして受け取ることで、

自分が作り上げてきた、自己イメージが崩壊します。

自分なんかが、じゃなくなっちゃうんです。

 

そうすると、発想として、

もしかしたら、これを相手に与えることは、

喜びとなるのかもしれない、

というのが浮かんでくるようになります。

 

自分が受け取った時、

本当に嬉しかったからこそ、

相手も貰って嬉しいかもな、

という、気持ちを持つことができるんですよね。

 

もちろん、そう思えても、怖いものは怖いです。

だって、自分なんかが、という思いが、

完全に消えるわけではないですから。

 

 

でも一つだけ言えるのは、

愛を喜びとして受け取ることで、

リスクを取りやすくはなると思うんです。

 

喜んでもらえるかもしれない可能性を、

自分の中で知っているので、

自分の中に安心材料があるんですよね。

 

すると、受け取ってもらえなくても、

自分なんかがと思わないから、

相手の、事情を見ていけることに繋がるし、

相手を信じることにも繋がると思います。

 

もちろん、受け取ってもらえないと、

過去の数が疼いて、傷つくこともあると思います。

でも、愛を喜びとして受け取っておくと、

喜びは消えないから、

何度でも挑戦しようと、めげなくなります。

 

 

誰だって、嬉しくないものは、

相手にあげたいと思わないと思います。

だから、受け取って嬉しくないものは、

中々、与えるという発想になりにくいと思います。

 

受け取れるものは、

近くにたくさんあります。

例えば、ティッシュ

これも作ってくれた人がいます。

でも、中々喜びとしては受け取れないでしょう。

 

自分なんかがとか、

自分だけじゃなくて他の人にも、

という思いが、受け取れなくさせるはずです。

 

でも、ここで一つ、

もしかしたら、これは自分に与えられたものかも?

という、発想を持ってみてください。

 

そうすると、自然と、

ティッシュを作ってくれた人の顔、

また作ってるであろう場所、

そして、これが一番大事なのですが、

作ってくれた人の表情をちゃんと見ること。

 

そこにその人の意図がちゃんとあります。

その人は、僕に向けて作ってくれたわけじゃないけど、

僕を含めた様々な人に、このティッシュを使ってもらいたいな、

使ってここで役立ててほしいなと思ってくれていた。

 

それは多くの人に対して込められた思いだけど、

今ここにティッシュがあるということは、

その人の中では、自分も含まれてるんだろうなと。

だって、その人が作ったティッシュが今ここにあるから。

これは、自分は喜びとして受け取って良いものなのだと。

 

こんな感じで。

ただめちゃめちゃ抵抗があると思います。

僕も、そんなもの受け取れないと、

めちゃめちゃ抵抗したくなります。

 

でも、もしかしたらそうかな?

と、思うだけでも、全然違うはずです。

なぜなら、それは喜びなんだと知ることができるからです。

 

そしたら、自分が誰かの喜んでる姿を思い浮かべ、

何かを作ることに対して、前向きになると思います。

だって、それは、必ず誰かにとっての喜びになるからです。

 

 

こうした形で、与えてくれた人が、

どれだけ時間を使ってくれたのか、

また、どういった気持ちでそれを与えてくれたのか、

そういったその人の思いを見つめて、

受け取っていくことは、とても大事だと思います。

 

そうすることで、与える発想が、

たくさん浮かぶようになるだろうなと思います。

 

 

僕は今日、誕生日なのですが、

とてもとても幸せな気持ちでいっぱいです。

ここまで生きてきて、良かったなと思ってます。

 

願わくば、今日書いたこの記事が、

自分や他の人にとっての、

大きな飛躍の第一歩になりますように。

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

 

 

現実的に物事を考えるには、自信のなさを使う。

こんにちは。

今回は、現実的に物事を考えていくコツを書いていきたいと思います。

 

まず、現実的に物事を考えていくということは、どういうことでしょうか。

僕は、物事の裏側にあるリスクを、

ちゃんと、見つめることだと思っています。

 

リスクを見つめるというのは、起きる現実をしっかりと捉えて、

受け止めることに繋がるので、

じゃあ、そうした現実にならないようにするにはどうしよう?

自分が、望む現実にするにはどうしよう?

といった形の、発想に持っていくことができると思います。

 

ただ、そういった思考を、最初からするのは難しいですよね。

誰だって、自分が失敗する場面や、

上手くいかない場面なんて、想像したくはないでしょうから。

 

 

では、どのようにして考えていけば、良いでしょうか。

それは、冒頭に書いたように、自信のなさを生かすことです。

 

自信がない時って、

俺にはできるかな…、とか。

俺なんかが無理だよな、とか。

自分には望む現実は作れないし、

望まないような現実しか作れないんだ、

といった感覚を感じると思います。

 

さて。察しの良い方なら気付いたと思いますが、

自信のない時って、失敗があることを知っているんですよね。

だけど、失敗する自分を受け入れられないのです。

それは、当然のことだと思います。

誰だって、失敗するのは怖いですから。

 

だけど、失敗することを知っているのなら、

その失敗を受け入れることができれば、

失敗を事実として受け止めることができ、

じゃあその上で、自分はどうしようか?と考えていけるんですよね。

 

 

ではでは、どう自信のない自分を生かしていきましょうか。

失敗を過剰に恐れる時というのは、

失敗する自分と、

失敗に対して怒ってくる人、

という関係性が心の中で作られています。

 

多く、このパターンは家族間で作られることが多いですが、

人は、子供の頃、感情を通して、親の感情を理解するんですよね。

なので、家族の痛みを子供が受け継いでしまうんです。

 

そうすると、自分の持っている才能。

別の言葉で言い換えるなら、感覚を、使えなくなるのです。

 

詳しく説明すると、

親が失敗を過剰に恐れるのに対して、

子供が失敗はそんなに怖くないという感覚を持っていても、

その感覚を使うことは親を否定することになります。

 

そうなると、その感覚を奥深くに抑圧して、

親と同じ心理パターンを使って生きていく、

ということを、してしまうんです。

すると、自分が本来、持っていた感覚を使えなくなるのですよね。

 

だから、ここで求められるのは、

親に対して感じてる怒りを、はっきりと吐き出すこと。

もしくはその怒りを受け止めてくれる人に、吐き出すことです。

 

そうして、怒りを受け止めてもらえると、

自分の抑圧していた感覚を使うことに、

オッケーがでます。

 

なぜかというと、

怒りを通して、その感覚を使えなかった痛みを伝え、

受け止めてもらえたことで、

その感覚を使えない側の痛みを理解できるからです。

 

すると、なぜだかわからないけど、

今まで使っていた感覚と、

抑圧していた感覚を使い分けられるようになるんですよね。

 

 

今回はこの辺りで。

お読みいただきありがとうございました。