罪悪感と男らしさの関係性。

いじめられた当時の怒りの感情と向き合っていたのだけど、

その時に、誰かを自分の未熟さゆえに傷つけたり、苦しめてしまった時のことを思い出したりした。しかし、その罪悪感から今まで逃げていたのだなと感じた。

 

いじめられた時の傷を持っている自分というのは、いじめてきた相手に対して、不幸や破滅を本気で望んでいる。

そうすると、自分の中で誰かを傷つけてしまった罪悪感を受け入れるということは、自分は幸せになれず一生不幸であるということを受け入れること。

 

ということは、いじめられた傷を許すというのは、同時に人の不幸せを望む依存を引き受けて、私は幸せになれないけど、幸せにならずあなたにどうされても良い、私はそれくらいのことをしてしまったから、と覚悟を決めることだなと感じた。

 

なぜかというと、全て近くするものは投影であるので、不幸せを望まれてると感じるのは、自分が誰かの不幸せを望んでるからである。

つまり、自分が不幸せになる誰かを受け入れるということは、不幸せを望む傷ついた自分を許し受け入れるということに繋がる。

 

だから、もしいじめの傷を許せないとしたら、同じなようなこと、もしくは近いようなことをしたりしまったことと、向き合う必要があるのかなと感じた。

 

 

そして、これを書いたとき、一つ例を思いついた。

それは極道の世界。

人が場合によっては死ぬし、殺すような現実に直面することがある。

そうして、誰かを殺してしまった人が、実際に自分の死に目にあった時に、自分が殺される立場になったことで、殺していった人の気持ちが罪悪感とともに感じられる可能性がある。

 

そうして、そこでその罪悪感を受け入れて、なお、何かのために自分のために生きようと選択した時、その人は一回り大きくなるはず。

 

 

基本的に人は罪悪感ストーリーを恐れる。

罪悪感から生じている、自分が死ぬかもしれないという現実。

だから、直接的に煽られたり、暴力を振るわれたりすると、それに対してやり返そうと、抗おうとする。

 

しかし、その罪悪感ストーリーを罪悪感を感じることをもって受け入れたとしたら、暴力を振るわれたりしたとしても、頭はきっちりクールなままで居られる。

だから、死線を越えた人は、落ち着くし余裕がでる。

それだけじゃなく、引き受けられる依存の幅が広いので、めちゃめちゃ男らしく頼もしい人間になるのだろうなぁという風に感じた。

 

心の中で死んでも良い、俺は幸せにならなくて良い、そうした形で、自分の人の不幸を望んだり、殺意を持った自分を受け入れ、許したから。

 

 

この罪悪感の感覚とは日常でも強くは媚びる。

大概、人は罪悪感を元にした人のことを判断するし、状況を見極める。

 

抑圧された罪悪感を持って、ここではこの言葉や行動はこう受け取られないよな?といった期待を持つことをして、言葉を発し行動をしていく。

そうした時に心では、常に恐れと不安に支配される。

なぜなら、期待があるということは、自分にとって避けたい罪悪感ストーリーがあるということ。つまり、少しでも期待通りにならないと落ち込む形となる。

 

たこの時、少しでも罪悪感ストーリーに入るようなニュアンスの言葉を与えられると、そのストーリーが今ここで現実になると錯覚するようになる。

すると、意識はそれを避けようとするので、相手を変えようとしたり、相手のことを責めたりして、そのストーリーを何とか避けようとする。

 

つまり、誰かの不幸を望んだりしてしまったという、自分を責めている罪悪感という感情が、他人を責める感情というのを生むわけである。

 

 

だから、自分を許し、他者を許し、そうして自分が不幸せになること、自分が今ここで死ぬことを、受け入れることができた時、人は変わるといって良いと思う。

そこで受け入れることができると、期待がまずは減る。

 

期待が減るということ、人の良さや魅力やまた欲求が本当に見えるようになる。

すると、この人にはこういう行動をしてあげよう、こういったエスコートをしてあげよう、といったように相手の愛して欲しいように愛せるようになる。

 

すると、男として深みも落ち着きも風格もでるはず。

それは男らしさや安心感等々に繋がるだけでなく、様々な人を育てる力にもなる。

 

またそうした罪悪感を癒せば癒すほど、ユーモアの力も上がる。

ユーモアとはそもそもで罪悪感である。

普通だったら罪悪感を感じるところを、少しバカにしてみたり、ふざけてみたりするというわけである。

 

だから罪悪感を引き受けると、場や相手を見ながらユーモアを述べることができ、相手の緊張をほぐし、安心させていくことにつながっていくはず。

 

また罪悪感は緊張感とも関連している。

罪悪感を癒すと、相手のことが本当に見えてくるとするなら、

緊張状態にあるときというのは、期待があるということ。

 

同時に、自分はこうした風な未来が起きたとき、罪悪感を引き受けていない以上、こうした問題や現実を作り出してしまう。

彼女や相手が醸し出すことをしている魅力というのは、多くの人を魅了し好きにさせる。そうして争いや喧嘩が起きたとき、自分は彼女を守れないし、救うこともできない、といったような感覚などが緊張状態を作り出す。

 

だから、より罪悪感を引き受けて、男らしさを魅力として受け取ると、

対処できる場面も増えるので、緊張状態も収まり、落ち着いて接することができる。

 

というわけで、俺は世界一男らしい人になると今決めた。

自分が先。

人の喜んでる姿を逆算してと考えたとき、でもそもそもで人が喜ぶ姿って何を元にしてわかるんだ?って思ったけど、これ自分の喜んでる姿からわかるんだなと思った。

 

だから、まずは自分の喜んでる姿、笑い楽しんでる姿、ここから考えていくことか。

俺、何書いたら、楽しい〜!って、笑ってるかなぁ〜。

 

自分が受け取ってる時、やっぱり味わってる時だなぁと感じる。

食事に関しても、ただ食べている時は、作業的な感じで楽しくない。

 

でも、どのくらい暖かくて冷たいんだろう。食感はどうなんだろう。

味わいはどんな感じだろう、噛み具合によって味は変わるかなぁ?

あ、変わった!めっちゃ上手いわ〜!こうやって上手くなるんだなあ!と。

興味を持ったとき、興味を持って何かを発見した時、食事は楽しくなる。

 

あとは、この食べ物を作った方は、一体どんな想いを込めて作ったんだろうなぁ。

どこを気を付けて、どこに細かく神経を尖らせて作られたんだろう。

そこにはたくさんの愛や思いが込められてるんだろうなぁとか。

作った人の思いや、また作られれてから運ばれたりした時のことにイメージを馳せると、より食べ物が美味しく感じられたり、ただ感謝の念が湧くから、楽しくなる。

 

でも自分なんて、っていう思いがあるとき、この食べ物が自分に与えられたものではなく、この食べ物も自分の元にきて、不幸だろうなぁと思ったりするだろうから、その食べ物を自分を喜ばせてくれるものとして、みなすことができないはず。

あぁ、だからこの食べ物やこの相手は自分のことを喜ばせてくれるものという前提が大事なのかな。

 

そうして、あとはなんだろう。

ああこういうの記事にしても良いのか。食べ物買ってきて。食べログ的な。

そういうのも、自分が楽しいと感じるものの一つかな。

 

 

でもなんかが、奥歯に詰まってるような気がする。

前から思ってたのだけど、小中高の時に勉強したところに可能性がある気がする。

前々から、あの時の授業や勉強の、楽しみ方を見つけたいなってずっと思ってた。

歴史にしても、古典にしても、数学にしても、楽しめたとしたら、人生の幅は広がる。やることは増える。というか、ここが楽しめたら何やっても楽しいはず。

 

資格とるのも、資格とるに向けて勉強するのも、学ぶことも楽しいだろうし。

それを誰かに説明したり、解説したりするのも楽しいはず。

俺ここがずっと奥歯に引っかかってたんだなぁ。

ずっと楽しいみたいと思ってたけど、楽しめてなかった。

そうして、そこを楽しんだらスポーツも趣味も全て楽しめる気がする。人生変わる。

 

なんでだろう、なんとなくそんな感じがする。学校教育を楽しめたら無敵だなと。

じゃあ、やる。学校教育を今から楽しむ。無限大の楽しみを見つける。

多く、展示されたり、人々を楽しませているものの根本にあるのは、学校教育の時の感覚のような気がしてる。だからこれを取り戻すことだろうな。

そこに、ユーモア的な感覚もあるはず。国語力の部分でもあるかな。

 

あれでもそう考えると、今までにないくらい楽しい。なんでだろう。

俺、学校教育が好きなのかな。それとも勉強が好きなのかな。

まあいいや。やってみる。ここで楽しみ方を見つけた自分を望む。

本当に伝えたいこと。

自分が誰かに本当に伝えたいことは何か?と問われれば、相手を大切に思ってる気持ちだなと感じる。会えて嬉しかったとか、出会いという縁に感謝しますとか。

ただただ、人に会えるということは嬉しいから、その気持ちを伝えたい。

 

でも恥ずかしいのかな。自分なんてっていう気持ちがあるからなのかな。

いつも、そういった気持ちは押し込めて人と接してる気がしてる。

会えて嬉しいなんて、自分が言うのはおこがましいだろう、とか。

相手は、自分なんかと会っても、嬉しくなんてないだろう、とか。

 

本当は相手のことが好きだし、すごく尊敬しているし、凄いなぁ、こんなに良いところがあるんだなぁって、感じてるはずなのに。

そんなの、僕なんかに伝えられるのは嬉しくないだろうなって思ってしまう。

 

でも、自分なんてって思う中でも、本当はどうしたいの?って問われたら、

もっともっと目の前にいる人達を大切にしたいし、目の前にいる人達の幸せや成功をただただ願って、そのために何かしらの協力というのがしたいなって思う。

 

ただただ、こんな自分に話しかけてくれたり、接してくれたり、様々な言葉をかけてくれたという愛がどうしようもなく嬉しく、感謝してるし。

色々な選択ができた中で、僕に時間を使ってくれたことが嬉しい。

だから、感謝の意味も込めて、その人に何かができたらなって思ってる。

 

ただ本当のところとしては、もっと違う形にしたいなって感じる。

自分なんてっていうのが前提にあって、そこから受け取る愛はたくさんあるし、感謝もたくさん生まれるだろうけど。自分なんてが引き合いにずっとあったら、誰かに愛を与えることが、できなかなってしまう思う。それが現状のはず。

 

それでもどうしたいか?と問われれば、誰かに自分の考えや何かを伝えたい。 

それが、自分の中の何かと繋がり、何かを感じられるようになるから。

 

だから俺は、自己表現などをしない姿勢を取って、この何か、幸せや最高の喜びに近い何かを感じないようにしているんだろうなと思っている。

おそらく、自分の手で誰かが喜んだり、幸せを感じたりすることを避けてる。

その時に、今まで形成していた自分というものが壊れてしまうからだろうな。

すんごく、それは怖いし恐怖だよなと感じる。

だから、すんごく誰かに依存したい、みたいな気持ちがある。

 

誰かが成せば、僕の手で誰かを喜ばせ笑顔したわけではないから、報酬を受け取らなくてよくて、僕はその最高の幸せや喜びを手にせず済む。

でも、内心では欲しいと願ってるから、嫉妬をするんだろうなと。

 

 

じゃあその上で、本当は何がしたい?と問われたら、

誰かが笑顔になること、誰かが喜ぶこと、誰かが幸せを感じ、楽しんでくれること。

このイメージから逆算して、自分を表現していきたいな。

 

いつもイメージの中で、誰かのこうした姿を感じることを避けて、文章を書いているので、誰かに向けたものになってないような気がしてる。

勿論、その道は怖いだろうな。そうしたイメージから逆算したとしても、現実としてそれが得られるかどうかは相手次第な部分になってくるだろうから。

だから、いっぱい無力感や罪悪感を感じるだろうな。

でもそうだとしても、このイメージから逆算することは価値がある。

 

 

自分の手で、誰かが笑っている。

僕の書いたことで、僕の伝えたことで、相手が嬉しそうにしてる。

それは、僕自身が作り出すことができたもの。

勿論、相手が受け取ってくれて初めて、感じられるもの。

そうした、素敵な愛を手にしたい。

 

僕が僕であることで、誰かが喜び笑ってくれたとしたら、最高だろうな。

そんなに人に出会いたい、いやもうたくさん出会ってるだろうから、ただその姿はもうすでに手に入っているってことに気付きたい。あとは、僕の勇気だけだと。

 

僕が書いたり、表現したりしたことで、これはきっと笑ってくれるだろうな。

これは喜んでくれるだろうな、相手の笑顔や嬉しそうな姿が思い浮かぶな。

そう思うことができたとしたら、どれだけ日々は楽しくなり、どれだけの幸せと喜びを感じながら、表現していくことができるんだろうな。

ただただ、そんな姿はもう既に手に入ってることに気付きたい。

 

そうして気づいた上で、表現し続けたいな。

結局のところとして、もう自分には誰かを喜ばせ笑顔にできるという、現実は手に入ってるんだよ?という部分から、逃げたかったんだろうなと。

だからここに気付いて、とにかくここを信頼すること。

もう、自分にはそれだけの力があるし、そうした風に感じてくれる人達はいる。

でもそれは、生まれた時から変わらないことで、ただ自分が気付こうとしなかっただけ。そういった感じにはなるのかな。

愚痴や文句って才能として使えるな。なる。

ふとお風呂に入りながら思ったのだけど、怒り、愚痴、文句、批判、見下す、バカにする等々の感覚というのは、才能として使えるなと感じた。

 

僕はこれらの感覚はめっちゃ嫌ってた。

良い子のパターンがあるので、どうしてもこの感覚を使うのに抵抗があった。

そんなこと言っちゃダメだよ〜とか。

そんなこと言うなんて最低だし、人としてどうなんだよみたいな感覚を持ってた。

 

だから、文句とか愚痴とかを聞くとめっちゃ嫌な気分になることが多かった。

その度に、それすらも許容できない俺最低だなぁとか。

これ完全に投影なんだよなぁ、俺が愚痴とか文句を潜在的に持ってて、でも抑圧してるからこそ感じるんだよなぁ、とか思ってた。

 

でさっき、この感覚って使えるなってピンときた。

そもそもで愚痴を吐いたり文句を言ったり怒りを表現したりするには、

前提として自分の何かを少しでもよく見てないと、口に出すことはできない。

 

愚痴とすると、僕の場合なら、すぐに機嫌が悪くなる自分を許容できてないので、本当にすぐに機嫌悪くなるやつって最低だよなぁ、こっちは何もしてねぇってのに、こっちの気分が悪くなるわ。と感じたりする。

 

そして、このとき、この愚痴というのは、すぐに機嫌が悪くなる自分を感じていたら、吐き出すことができない。

何故なら、すぐに機嫌が悪くなる自分が、すぐに機嫌が悪くなる人の愚痴を吐いていたとしたら、共感してもらえないし、自分の辛さを分かってもらえないから。

 

 

そしてこのとき、自分はすぐに機嫌が悪くなる人物ではないという形で、自分に対してプラスのイメージというのを持つことができている。

つまり、愚痴を吐けるということは、自分はそんな人じゃないという、肯定を自分に対してできている状態。

 

他の文句や怒りに関しても同じかなぁと。

俺はこんなことしてるのに!と言った自らに対しての正当性や正しさといったような感覚がないと、相手が悪い、俺は正しいといった主張ができない。

しかし、このとき、自分は正しいといった形なのかもしれないけど、俺はこうしたことをしてるし、こうしたことをできていると肯定ができている。

 

だから、こうした誰かを責めたり、誰かを傷つける可能性のある言葉や行動というのは、見方を少し変えると、自分に対する肯定無くしては成り立たないなと。

 

 

ただ言われた方は、良い気持ちはしないと思う。

言われた方が、そういった言葉で引き出される感覚は、肯定できてない時の自分である場合が多い。

何故なら、相手は自分の肯定を軸にして話をしているのだが、物事が一面的に語られることなどない以上、肯定があれば同時に否定も引き出される。

 

要は、否定無くして肯定もないし、肯定なくして否定もないのだから、肯定だけ語られれば否定はどこにいったの?という意識が生まれ、言われた方は、その否定の部分を自らの自己否定していた時を通して理解する。だから不快感を感じる。

 

 

と同時に、愚痴とか怒りというのは危険性も含んでいる。

こうした言葉や行動というのは、自分に対する正しさや正当性といった前提を持って、展開されてることが多いと思うので、そうした前提が通用しない世界においては、脆く崩れさってしまう可能性がある。エリートは崩れやすいみたいな感覚。

 

状態や状況が違えば、自らも同じことをしてしまう可能性がある以上、ある意味で、正しさや正当性だけを主軸に行動などをしていくのは、その人にとっては、辛い現実になる可能性もあるのだろうなと。

だいたい、その正しさを持たざるを得なかった、悲しい寂しい体験の時に感じた感情と同じよう感情に行き着く可能性が多いんだと思う。

 

ただそうだとしても愚痴等々を吐くのはやっぱ必要だなぁと感じる。

持っていけないわけではなく、そもそもで持たないのは無理だと思う。

だからここでは、発想を転換できたらなと感じる。

 

 

言われた方の気持ちと、正しさなどからくる肯定のリスクを理解してない時というのは、愚痴や怒りを吐くことだけで満足したり、それを主軸にして行動してしまう可能性があると思う。

しかし、こういった二つの部分を理解すると、なるべく愚痴を吐いたり、怒ったりすることはやめていこうといった形に意識はシフトしていくはず。

自分と相手の幸せを強く望む人程、こう感じる傾向は強い気もする。

 

ただ、僕の場合だとすごく極端になってたよなと感じた。

人の気持ちと正しさからくる表現のリスクだけに目を取られ、愚痴や怒りの感覚のメリットに目を向けてなかった。

表現したりしてしまうと、確かに、あまり良くない現実が展開されるかもしれない。

 

でも抑圧しすぎると、正しさ等々からくる自己に対する肯定の感覚まで失うことになる。そうすると、中々自分に対する肯定感が引きあがらなくなる。

だから、感じることまで否定してしまうと、逆に本末転倒になると。

 

 

でそうやって、怒りとか愚痴の肯定感といったメリットに目を向けられると、誰かの愛を受け取る時に感じていた違和感に目が向いていくなと感じる。

受け取る時に感じている違和感というのは、僕の場合は、大抵、下に見られてるのかな?これをできない人と思われてるのかな?とか。あとは、俺なんかがこんなこと言われるのに相応しくないと感じてる感覚だったりする。

 

しかし、ここで愚痴などの肯定感のメリットを知っていると、

下に見られてると感じるということは、俺本当は、こんなことできてるんだぜ!って言いたいんだっていう視点に切り替えられるし。

俺なんかがこんなことを言われるのに相応しくないという感覚は、こんなことをしてしまっている自分は責められるといったような感じで、誰かに否定されたりして、誰かの肯定のエネルギーに潰された時があるんだなの視点に変えられる。

 

そうすると、自然と、俺は本当はこれだけの価値があったんだなぁとか、俺こういったことができていたんだなぁという肯定感へと変わっていくはず。

この肯定感だと、なんかあったかいし誰かに優しくしたくなる感覚がある。

 

そうしてここに入ると、人に対して与えていこうとか思えそうだなと感じた。

おそらく、受け取れない時の感情や、またそういったことを感じている時の攻撃性などに対する理解などが深まったために、落ち着きがでるからなのと。

 

あとは、受け入れない時があるだけではなく、愚痴とか文句とか怒りすらも未来の幸せに繋がる希望であり才能である、というのが自分の経験を通して実感できるはずなので、投影が変わり、不快に思われても良いや、それが相手のためになるならといったような感覚に変わっていったらとかしていく感じになるはず。

 

と同時に、そんなに与え方も独りよがりにならなさそうな気がする。

怒りや悲しみやまた愚痴などを受容できる形になるとは思うので、そこに対する配慮も一つの与え方だよねと自分を肯定できる感じに繋がる気がする。

ここはまだようーわからんけど。あんま悪くない感じになる気がする。

 

とりあえず、良かったかなぁ、今すごく自信を感じてる。無敵って感じ。

あ、何思われてもよかったんやんみたいな、とかく、自分の愚痴とか怒りとか嫌な部分に目をつければよかったんだなぁと、なんか幸せだなぁという感覚。

たこの感覚を通すと適当なことを言えたり、笑いやユーモアの方にも視点が向いて、自然と楽しいが増えるような感じになる気がする。

自分のペース、休むという感覚。

最近、僕は本当に楽しみにしていたことの直前になって、体調を崩したり、精神的な調子を崩したりしてしまうことが多い。

 

そうして、いつも直前になってキャンセルをするということがある。

ここ1ヶ月ほどで、それが二回ほどある。今日も二つキャンセルした。

なので、絶賛、絶不調である。

ただパターンが見つかったし、書き記しておきたいなと思う。

 

 

僕は、昔から、いや特に最近傾向として強いなと思うのだが、人に自分のために時間を使わせるということに、非常に非常に罪悪感というのを感じる。

少しでも、自分のために時間を使わせるという形で迷惑をかけたくないと思う。

だから、あまり人を頼りたくないし、人に弱みも見せたくない。

 

頼った時や弱みを見せたとき、人はそこに対して愛を持って接してくれる。

でも、その時に、少しでも時間を使わせるのが嫌だなと感じてしまう。

必ずそこで見せる弱さというのは、自分が様々な手段を用いることをすれば、解決できることがほどである。心のパターンが、問題でその弱さが生まれてくるのであれば、心のパターンを自分で治せば、その弱さは受容され、選択肢として人に頼ると違うものが生まれてくるから。

 

といってもこの自立的な思考パターンだと、問題が生じる。

非常に打たれ弱くなってしまうし、人と会うのが億劫になってくる。

時間を使わせたくないという意識を持つということは、人がもし自分に期待を持って接してきたとしたら、その期待に応えようと常に思うということ。

 

それは責任感というものであり、非常に大切なものであるが、誰に対してもこの責任を果たそうとすれば、当然心は潰れる。僕の場合は、父の遺伝だと感じるが、この責任のパターンというのは非常に強く持っている。

 

また、この時、どういった思考が生じるのかというと、

人が僕と話して僕と関わって良いものが得られたのか?楽しかったのか?

そういったものを、人によっては気にする形になることがある。

僕の場合はこの傾向が強い。

だから、少しでも不快にさせたしまう、少しでも機嫌悪くさせてしまう。

そう感じてしまうと、一気に罪悪感の海に思考が沈みそうになる。

これはもう、幼き頃からのパターンなので、パターンを変えるまでは仕方がない。

 

 そのため、キャンセルなどをするときに、どのような思考が形成されるかというと、本当はキャンセルせずに参加していれば、問題なかったはずだ。

別に体調が悪くても、相当悪くなければ、普通に楽しさは作り出せるし、実りのある体験にすることはできるだろうと。

 

といったように、まず人が喜ぶかどうかを最初に考えて、そこで喜ばないとしたらなんて俺はダメなんだ、という思考になっていく。つまり、少しでも人が喜ばないようなイメージを避けようとするため、自分のペースが形成されなくなる。

 

だから、人と会話するのも人と会うのも非常に苦手だし怖いのだろうなと。

特に二回目からは嫌だと感じる。前印象が残る以上、次からは接してくる距離感や話す話題というのが変わってくる。そこで、こうすれば良いんだろうなというのが感覚的にわかる以上、それができない自分が申し訳なくなってくる。

 

そうして、自分の場合、この誰に対しても良い顔をしようというような、八方美人的な責任感というのが、直前でのキャンセルのパターンを作ってるなと感じる。

大概、この直前になって感じる感情は楽しみである以上に、行きたくないと感じる。それは、誰かが自分に寄せてくる期待、君はこうだよねとか。君はこういったことをできるよねとか。そうした期待を考えると嫌になってくるのだろうなと。

 

だから、体調や精神の不調を作り出して、行けない理由を作り出すのかなと感じた。

ただそうはいってもキャンセルをしたこと、また体調不良でキャンセルしたのにこうしブログを書くことに、申し訳なさを感じる自分もいる。

それがバレたらどうしようとか、どう説明しようとか。時間を煩わせ、僕のために労力や愛を使わせたというのに、自分はこの頽落か、といったような感覚がある。

 

まあ、これはパターンだからしょうがないとは思うが、このパターンを持っているうちは、自分に休むことを許可を出せず。

また休むことに許可を出せないということは、誰かのために動き続けるということなので、自分らしさが欠けるだけではなく、自然な笑いや楽しさも減るはず。

 

だからここで求められるのは、如何に休むことを許可できるのかということ。

それは同時に、誰かに迷惑をかけたり、時間を使わせる自分になること。

誰かに自分を愛させることでもあるのかな、信頼することでもあるか。

 

休みを許容しないときというのは、焦りの感覚も同時に感じている。

自分はこんなんで良いのか?これではまた同じ繰り返しをするのでは?また他人にこう言われるよ?と、罪悪感の層にハマり、焦りの感覚を感じている。

しかし、この時の思考の主軸というのは、他人となっている。

だから、この焦りというのは、自分をさらに苦しめる方向に向かあわせる。

 

つまりこの時に、1.3.5.10年後の自分を見越して、今どういう選択をするか?と思うことができるのかが重要となってくる。

先の未来を見越して選択するということは、自分に対する信頼と肯定がなければできるものではない。今多少の失敗や迷惑をかけたとしても、自分はこうなれるから、今は自分のことを大切にしようと思えるかどうかとなる。

 

もちろん、その上で、他人軸の時に生じる罪悪感をちゃんと感じて、他者に配慮ができたら、尚、良いよなと感じられる。

相手の誘ってくれた気持ち、主催してくれた気持ち。

また他の作業よりも自分のことを優先してくれたこと、時間を使ってくれたこと。

少しでも、相手がより良いものを感じられるような選択が同時にできるかどうか。

 

誘ってくれて嬉しかったよとか。ごめんね、でも本当はすごく行きたかったとか。

相手の誘ってくれた好意に、ちゃんと嬉しかったよって形で受け取るとか。

 

良い時間を過ごせるよう祈ってます。楽しいものになると良いですね、など。

相手が感じた残念だなぁとか、キャンセルされると色々やることあるんだよなぁという気持ちに対して、少しでも活力や、やる気を与えたり。

自分の至らなさで時間を使わせるのだから、少しでも、参加する人や主催する人を勇気づけるような前向きになるような言葉をかけたりとか。

 

そこまでする必要はあるのかなぁとか、実際のところどう感じられるのか。

というのは、僕もまだ愛を受け取ってないからよくわからないけど、でもミスしたりして罪悪感を感じた時の対処法としては、一つありなのかなと感じる。

 

そうした上で、主軸が何年か後の自分であれば、きっと、相手の期待に強く答えようとはしないはず。なぜならば、自分が輝いていて、そしてその輝いてる姿を相手が見て、喜び幸せを感じてくれるのが確信できるだろうから。

 

こうやって思うと幸せを感じるんだよなぁ。

あとはアドバイスとか、人が作ったルールとかに従うということに対する拒否感拒絶感がどうなるかだよなぁと。こかも多分、自分の場合は母との癒着からくる、拒否感だったりさるんだろうけど。

 

男として。

男として本当にしたいことは何なのかなと。

やっぱり仕事とか社会的な成功とか、社会で何か目ぼしい結果を出すことなのかなという風に感じたりする。

 

ただ自分は注射や手術などが怖いと感じるのだけど、この怖いは、僕の場合は失敗するんじゃないかとか。失敗して自分はとんでもない目にあうのでは、という気持ちから生じている怖さ。

そうしてその怖さを感じてる時、手術したり注射したりする人はどれだけ経験があったり、どれだけ練習をしたりしていたとしても、失敗する人だというイメージを自分が貼り付けているので。

 

投影の法則により、自分にもこのイメージは適用され、自分はどれだけ経験しても練習しても、失敗してとんでもないことを起こしてしまう。という感覚に繋がる。

だから自信のなさや完璧にしなければという意識が生まれるだけではなく、自分という存在はとんでもない失敗をしてしまうと感じている以上、何をするにしても怖いという感情が生じてしまう。

 

だからどれだけやっても自分のことを認められないだけじゃなく。

その恐れからくるイメージが現実にならないように、現実になりそうなことは避けるようになるので、仕事とかお金を稼ぐ手段も限られてきてしまう。

そうなると、社会的な成功であったりは明らかに遠のいていくはず。

 

だからこう考えると、リスクがあったり、また傷つくとしても、人に積極的に頼りまくるという感覚は、自分が社会的に成功するには必要なんだなと感じる。

 

 

ただここまで書いて思うのは、じゃあ本当に欲しいものは何?ということ。

自分らしくいたいと願うかな、これをしたらこう思われるんじゃないか?自分はこんなとんでもないことをしてしまうんじゃないか?といったような罪悪感や恐れを感じることなく、自分を全身全霊で表現していきたいんだなと感じる。

 

 

 

 

それは今の自分にとってはできるわけがなく、そんなの実現不可能だと思うことではあるが、同時に思うのは、もし他者の理解や共感を得られて、そうした自分らしい未来を作れたとしたら、どれほど幸せでどれほど楽しいものなのかなと感じる。

 

そこに、自分の本当の幸せ、社会で成功したい意味があるかも。

つまりここでの社会で成功したいという欲求は、社会で成功している自分ならば、罪悪感のしがらみを超えて、自分らしくいるだろうという期待から生じてるのかな。

 

そう思うと、本当に欲しいものは?と言われると、自分らしさを全身全霊で表現することができる、社会というものが欲しい。個性と個性がぶつかり合うけれども、決してそれは悪いものではなく。互いが互いを認め尊重し合い、その上で自分の全てを引き出して、それを様々な形で表現ないしは、問題を解決していくこと。

 

そうして、色々な人が自分らしくいられたとしたら幸せだなと。

自分らしくいられない今は、自分らしくいられる人を見ると、なんでこの人だけという嫉妬の気持ちや、この人はできたけどどうせ俺なんか無理だという自信のなさを感じたりとかするけども。

 

実際のところとしては、自分が自分らしく入られて、そういう風になれたとしたら、他の人にも自分らしくいて欲しいなという気持ちが幸せとともにあるのかな。

そう考えると、本当は自分らしくいたいからこそ嫉妬や自信のなさを感じるのだろうし、それだけではなくその自信のなさや嫉妬は、まだ自分らしくいられてない人を見つけるものになるだけではなく。

同時に幸せへと繋がる感覚でもあるのかなと感じた。ここは少し強引か。

 

その上で、本当にしたいことは?と問われると、人のミスや失敗を許したい。その上で人の頑張りや努力をまずは認めて、その人にもっともっと自由に、自分らしく生きていって良いんだよという気付きを与えたい。

 

ただそのためには、僕がどんなしがらみやどんな困難があるところでも、自分らしくいるにはこうしたら、こうであれば良いんだよというのを、体験として知って示していく必要というのがあると思う。

 

だから本当にしたいこととは、深い闇の中でも、自分らしく生きていけるような力が欲しいかな、これがあれば様々な人を助けられるし、幸せへと導けるから。

だからこそ、今、自分の心と向き合ってるっていうのもあるのだろうか。

 

そうすると、闇そのものが才能であるというか、避けがちになるところであるが、そこを避けずに突っ込んで花がひらけば、そこそのものがリーダーシップになるはず。

あ、さあ考えると、闇に突っ込むというのは悪くないのと、リーダーシップ形成という力になるのか。

 

この闇に突っ込むことで、多くの人に自分らしさや幸せを与えられるということを考えると、世の中にある闇の多くや自分の心の中にある闇に突っ込むことに意味が生まれるだけではなく、多くの人を幸せにしていける才能の部分なので、闇が深いこと、そのものは才能になるし、またそこに逃げないことも才能になりうるはず。

 

とするならば、闇は楽しいもの、という部分まで発展して良いのかな。

これはちょっと無理があるような、強引さがあるような気もする。

 

でもむしろそう考えると、闇に入れば入るほど、光のイメージや感覚は増えるだろうし、そうすると多くの人の幸せの姿やイメージが浮かぶだろうから、多くの人の力になっていけるだろうし。同時に、多くの幸せを感じられるはず。また人に対して与える手段というのが本当に大きくなるはず。

やっぱり、闇そのものは与えるための才能か。愛の才能か。

 

としたら、楽しみかな。闇があればあるほど、大きな幸せに繋がるため、その人の将来は楽しみなものである。この視点からは人に対する絶対的な信頼と安心を与えるような形に向いていくはず。だから、良い感じになってる気もする。

 

よーし。良い感じかなぁ。楽しみであると同時に、まだ不安もあるけど、幸せのイメージや感覚が見えたから、あとはこれを欲していくだけかな。欲しいと願う。

本当に欲しいもの。

本当にしたいことって書いてパッと思い浮かぶのは、パートナーシップ。

自分でも直感でこれが出てきて驚いてるけど。まだ先だと思ってた。

 

許しが欲しいというのもあるのかな、親密な関係性になら許しがあるかもと感じてるのはあるのかもしれない。その許しの先にある、幸せと親密感を求めてる。

だからそう考えると許されたいという願望があって、でもそれは自分1人ではできないから、誰かに許してもらいたいと思ってるのかなと感じた。

 

でも結局のところ欲しいのは親密感とまたそこからくる幸せなんだろうなぁと。

ただ罪悪感がかなり残ってるので、それはまだ望めないと思ってるのかも。

 

じゃあ、その抱えてる罪悪感が全て許されたとしたら何が欲しいだろう。

パッと思い浮かぶのは、好きな人と付き合うこと。

そっか、こっから恋愛の方向に進んでいくのか、具体的なイメージ等々を描いたりとかできる方向性へ。

 

カフェ巡りとかも楽しそうに感じる。

おしゃれなカフェで一息ついたり、たわいもない話をしたり。

あとは、なんか、おしゃれなカフェという雰囲気が良いのかな。

なんとなく、ここに行っている自分のイメージはすごくおしゃれになっていて、ダンディになっていてって感じだから、本当に欲しいものはこっちかな。

 

じゃあ、すごくおしゃれでダンディな男になったとしたら何が欲しいだろうか?

パッと思い浮かぶのは、ロマンチックな関係性。

ここで初めてロマンチックな部分に入るということは、今の自分だと自分なんてという感情が多いからこそ、本当に欲しいもの、本当に感じたいものを感じたいと、心の底から望まないという感じなのかな。

 

ただその関係性のイメージとして、パッと浮かぶのは美女と野獣ダンスホールでダンスを踊ってるようなイメージ。

ということは、何か亀裂等々が生まれた後に、そこで愛し愛されるという形で互いに通じ合う経験をし、その喜びを元にしてお互いに見つめ合いながら何かを表現するみたいな感覚や感情というのを自分は感じたいってことかな。

 

この感覚や感情はただ自分に思ってもみなかったような幸せを感じさせてくれる。というか、幸せだけでは表現がつかないような、天国のような感覚。

だから、自分らしくいたいとか、自分をもっともっと許し愛したいと願ったのかなと。こうした感覚は、絶望とか闇とか孤独とか、そういったどうしても感じたくないような感情を感じて、そうしてそういった感情を感じきって乗り越えることができて、初めて感じることができるような感情だろうから。

 

そういった感情が繋がりや幸せの密度を濃くさせて、そうして濃くなった繋がりは大きな親密感や今のままで良いんだといったような感覚を大きく作り出させ、そうした肯定感は天と繋がりを持ち、新たな創造性や物事の見方を作り出すことをする、だからこそ、天国といったような表現になるのだろうか。

 

要はその、絶望や闇や孤独を癒したことで生まれる、親密感や大きな繋がりというものが欲しいと自分は願っているのかも。ただそれを手にするには自分は値しないと思っているために、ダンデイな男性になろうとかロマンチックな人になろうとか、そういった部分を身につけていこうという発想になってるのかなと感じた。

 

しかし、この理想というか、本当に欲しいと願っているこの感情から作られる視点というのは、弱さや絶望とか孤独といったどうしようもない感情は全て、この感情を感じるためにあるという視点を持てるということ。

つまりこの角度から見ると、弱さや絶望や孤独感といったようなものを感じれることが、そもそもで才能になるということなのだと思う。

 

だから、最近おかしかったのか。

なんか、変に受け取ることを意識してるよなぁとか、相手の愛をどう受け取ろうかばかり考えてるなぁとか、そういった考え方を提供してくれるところばっかりに目がいったりしていたなぁと思ったけど。

 

相手の愛を通して自分の孤独感とか絶望とかを心の中で差し出して、そこから求めていた感情というのを感じようとしていたのかなと思った。ただ受け取ったとしても違和感があったり、何かこれは違うなぁといったような不満を感じていたのは、自分がまだあの感覚を感じるに値しない存在だと思ってたからか。

 

でもそう思うと、意外と身近にこうした感覚はあるというか、自分の絶望とか孤独とかをしっかり感じて、傷つくかもしれないけど差し出していく覚悟を持つことで、それを感じられる機会は増えるのかな。

でも恐らくだけど、相手もそうした感情を感じれたり差し出せたりする人じゃないと、エネルギーはぶつかり合い、許しや癒しに向かわないだろうから、相手はそういった、与え受け取れるような人になるという形なのかな。

 

よし、じゃあそうした感覚と感情というのをただただ欲しいと望もう。

ただただ望めば叶うし、そっちに意識が向いていくから。

楽しみだなぁ。書いている間、ずっとずっと最高の幸せを感じてた。

こんな素敵な感情を感じれることにただただ感謝だな。