共感することは愛を感じる道のようなもの。
ひたすら、全てに共感するという練習をしていた時に気づいたことを纏めていく。
共感というのは、相手の感情を共に感じてあげる事であると思うが、
これは私とあなたは今同じ感情を感じている、というものだと思う。
そして、心は共感してもらえると楽になるのだけど、それがなぜなのか。
僕もそうなのだけど、深く傷つく経験をすると、
この気持ちを誰かに分かって欲しい、
誰かにこの気持ちを寄り添ってもらいたい、と感じることがある。
これは共に感じてくれる人を求める声なのだけど、
この時に、じゃあ助けを求める声以外に何を感じてるかというと、
自分じゃこの気持ちは受け止めることはできないから、とか、
あんな事をされるなんて、やっぱり自分はダメなんだ、とか、
どうしてあんな事をされたのだろうか、などなど。
自分にはそんな愛はない、自分だからあんな事をされたなどの、
無価値感と呼ばれる感情を感じている。
この感情を感じるときは絶望もセットでもあるからこそ、
諦めとか限界のような気持ちとかを感じたりするし、
その気持ちが高まれば高まるほど、助けを求めたくなるように思う。
さて、ここまで共感を求める時に、どんな気持ちを感じてるのかを書いた。
ここからはまだ説明が中々難しいのだけど、
要は、愛を求めているからこそ、共感を求めている。
どういうことかというと、共感してもらうということは、
要するに攻撃してきた対象の感情を、自分じゃ感じられない替わりに、
誰かに感じてもらえるということではないのかなということ。
無価値感という感情は自分には愛される、また愛するだけの価値がない、
と呼ばれる感情であるが、
この感情を感じていなければそこに愛を見出せるということ。
ということは、愛を求めて共感を求めるということは、
無価値感の先の感覚を、
無価値感を抱いたと同時に知っているということになる。
しかし、自分には無理だという判断によって、
そんな存在にはなれないと自分の愛に蓋をするのではないかと。
つまり、共感をしてもらうことによって、
自分が無理だと思った事を代わりにやってもらいながら、
今度は自分で無理と思った先に向かって行く。
それが、要は理解をしていくということではないかなとも感じる。
要は共感をするということは、
その人が感じられない、無理と感じた事を代わりに感じてあげる事であり、
その人が今度はその感情を一人で感じられるようにサポートする事なのではないかなということ。
・ここからは、少し例を出して説明していきたい。
例えば、いじめの経験があるとして、
いじめられる自分なんてダメだ、
いじめられるってことは自分には価値はない、って思ってたとする。
この時、この無価値感の層にいる時は、
自分はいじめられても、何もできないという判断があるので、
またいじめられるかもという恐れを強く感じるし、
いじめた存在に対して愛から分離しているだけに、
お前さえこんなことをしなければ、という怒りや憎しみも感じる。
あの体験をしたせいで、僕はこんなにも自分のことを責めただと、恐れになり、
あの体験さえなければ、自分のことをこんなにも責めなかったは、憎しみや恨みに。
自分は無価値感だと価値判断した以上、
愛はないと意識が判断したということなので、
そんな体験をしたから、しなかったら、という部分に焦点が当たる。
この状態が先に説明した、共感を求めたくなるような状態。
自分には愛がないと思ってるので、愛を持つ誰かの存在が必要になる。
分かって欲しい、誰かに側にいて欲しい。寂しい・怖い…。そんな感覚。
・次は、じゃあ共感は何を促してくれるのか?ということ。
いじめの経験があり、共感を求めてる時に話すことといえば、
辛かった・苦しかった・怖かった・不安・悲しい・助けて欲しかった、などなど。
僕はいじめられる存在だからと思いながらも、
戦い前を向いてきた時の気持ちを、
あなたはいじめられるような人ではないよと価値を見てくれる人に対して、
価値を取り戻すために、気持ちを吐き出していく形となる。
こうすることで、自分はいじめられる存在ではないと、無価値感が癒えて、
正当な価値を感じられるようになることが共感の目的となる。
・次に、なぜ攻撃してきた側の感情を感じられない判断が無価値感になるのか?について。
これがこの記事を書いた一番の理由である。
誰かをいじめるということは、その人もいじめられると思っている部分がある。
もしくは、虐げられるとか、バカにされるとか、そんな無価値感。
この時、弱さを出せれば、助けを誰かに求められるのだけど、
弱さを出せないときは、無価値感でいっぱいになってどうしようもないので、
その無価値感を感じてくれる存在が必要になる。
つまりどういうことかというと、攻撃してきた側を通して感じた感情は、
無価値感という点で対等な部分にいるので、
ほとんど同じである、ということが考えられたりしてくる。
この辺は僕もまだ詳しく理解することはできていないが、
無価値感で同じ目線に立つということは、
価値のない自分を通して様々なしんどい感情を感じることになる。
言い換えれば、大きな愛になれないと無意識に判断しただけに、
同じ感情を共に感じることで、助けようとしたのではないかということ。
つまり、人は常に愛したい生き物であるということになるのかな。
この辺はもう少し煮詰めたい部分かな。
・では、同じ感情だったと認めるとどうなるの?
僕とあの人が同じ感情だったと認めるということは、
敵だった、傷つけるやつだったという痛みを手放すということ。
そしてここからが大事なのだけど、同じだと認めるということは、
同じ無価値感を感じている視点に立たないということを示している。
つまりそれは、相手の痛みを自分の痛みを通して感じていきながら理解すること。
そして理解していく先の、愛に触れる。
つまり、僕も君もいじめられる存在じゃないね、に至ることなのかなと。
この無価値感を超えた先にある本当の価値に触れることが怖いからこそ、
無価値感で助けることを選択するのではないかと。
そしてその恐れは、普段無意識に感じているものなので、
誰かに共感してもらうという発想を持つことしかできないのではないかと。
発想を持たない要因に、痛みが強いのもあるかもしれないが。
・ここまでのことを、纏めると…?
離婚した、失恋した、いじめられた、という人が相談をしてきた時、
あなたは離婚する人ではない、失恋する人でもない、いじめられる人でもない。
そういった、その人本来の価値を見ていくことが求められるのだと思う。
そうしないと、癒着・共依存という言葉のように、
お互いに、無価値感で繋がり合うので、
助けように対して・傷つけないようにしよう。
という、相互で助け合うことで膠着状態になる可能性がある。
だから人を癒したいならまずは自分を癒すこと、という言葉があるように、
自分を癒すことは、愛から物事が見れるようになるので、
相手の愛を見続けながら、話を進められるということなのだと思う。
・と言っても…、一人で癒しを進めるには?を考えてみる。
相談事例集などを使って、「あなたはそれを感じる必要はない。あなたはそう思い考える必要はない。なぜなら、あなたにはこうならないだけの価値があるから」
という無価値感ではなく、愛という真実から見ていく練習をするのが良いかなと感じる。
これは投影を使った練習方法でもあるが、
必要はないことを示していくことで、
「これだけの価値があるから、これは必要なかったんだ」と感じることのできる、
マインドが自分の中に出来上がるのではないかなと目論んでる。
ちょっと、やってみたい。
自己受容の練習。
自分の心を受容するやり方として、他人の心を受容するというやり方がある。
意味のわからないように聞こえるかもしれないが、
他人のネガテイブな部分を受容できたとしたら、
自分のネガテイブな部分も受容できるということである。
言い換えれば、いざとなる時に逃げたくなる人のことを、
「あまりに、みんなの想いに応えようとし過ぎると、プレッシャーを感じて逃げたくなるんだよね?それは、貴方がたくさんの人をがっかりさせたくない、むしろ、がっかりさせずに喜ばせたいという気持ちがあるからだよね」
という愛の目で見ることができると、
自分の同じような部分も「」の中のような目で見ていけるということ。
だから他人を受容することは、自分を受容することに繋がる。
しかし人というのは不思議なもので、
自分が過去に感じたり罪悪感を他人に投影するという作用がある。
例えばこれは、自分の弱さを嫌う人は他人の弱さを嫌うと言われているように、
自分が過去に弱さを通して他人に迷惑をかけたと感じるだけに罪悪感を抱き、
それによって弱さを持つ人を通して、罪悪感を感じるようになる。
それは人は愛したい生き物であり、愛したいという意欲や、
罪悪感を感じた時の自分を通して、許されたいなどの願いを持ったからなのだが、
そこが人を愛する障害になることが多くなる。
弱さを持つ人が、罪悪感と願いというニーズを持つ存在に映るので、
弱さを持つ人のことをその人が愛するには、
その願いを応えることのできる、自分になっていく必要がある。
つまりこれは、罪悪感を通して分離した自分と繋がるということなので、
分離しただけに、悲しさとか寂しさとかを感じていく必要がある。
なので、その弱さを持つ存在というのは、心理学でいうシャドーとなり、
またタブーのような存在になるので、
そもそもで愛するという発想が中々出てきづらいのである。
それは、罪悪感があれば仕方のないことといえば、仕方ないことだが。
が、カウンセラーを目指すとか、より大きな愛の人を目指すとかの場合、
このシャドーとの統合はかなり重要になってくる。
罪悪感を投影していると、愛したいという意欲があっても、
中々、愛せたような気がしなかったり、
相手のニーズに応えられてないような感覚を感じることに繋がる。
というわけなので、これに対しての対応策を考えた。
それは、ただどんな文章でもどんな言葉に対しても、
貴方はそれでも素敵な人です、という言葉を投げかける練習をすること。
この練習の目的は、相手にとっての愛の存在になる、というもの。
例えば、私は過去にいじめの経験があります。
一人、ベットの中で咽び泣くこと何度もありました。
と書いてあったら。
いじめの経験があって、一人、ベットの中で咽び泣いてたとしても、
貴方は素敵な人です、と書いていく。
そしてその後、その人に対して愛を注いでいく。
僕は貴方をいじめたりなんかしませんとか、
僕は貴方が咽び泣いていたら、貴方が安心するまでずっと隣に居ますとか、
僕は貴方がいじめられたかどうかで、貴方のことを判断しませんとか。
自分が相手に愛を通して何をしてあげたいのかを、書き記るす。
本来、何をされようが、何をしていようが、
どんな人にも価値と才能もあって、素敵であることは間違いない。
しかし、自分の痛みがあると、エゴはそうは認知しないし、
愛のないという根拠をひたすらあげようとしていく。
だからこそ、この流れを通して真実に触れるということをしていく。
例えば、いじめられた状況ならば、
いじめる人が居なければ、その人は愛を感じるし、
いじめられていた時に、助けたとしても愛を感じるし、
咽び泣くときに、安心できるまで側に居たら愛を感じられる。
だとしたら、自分さえどうにかなれば、
どんな状況・思いに対しても愛を作り出せるのが真実。
そして一番最初に書いたように、誰かの状況に愛を作り出すということは、
自分の心にも愛を作り出すということになるので自己受容ができる。
この練習のコツはいくつかある。
一つは、イメージを作ることを意識すること。
その目の前の人が愛を感じられるような、
そんなイメージを作り出せるような愛の添え方をしていくこと。
もう一つは根気強くやり続けること。これが一番重要かも。
強い痛みを感じさせる文章を素敵です、と書いていくとき、
怒りとか不安とか恐れとかたくさん感じることがある。
そうすると、自分の中の愛を感じれるわけがないような気がしてくることがある。
しかしこれはやり続けていく中で、
自分のこの部分責める必要なかったじゃんとか、
この人、本当に素敵な人じゃんとか、
そんな風に思える経験が積み重なってくると、
痛みがくるなという予感と共に、
やり続けてれば勝手に愛を感じるだろうという信頼も感じられる。
というような形。
何故、自立的な人は、依存を感じさせる相手を遠ざけたくなるのか。
心理学では、依存→自立という成長過程を歩むと言われている。
その中で、依存時代の誰かを頼れなかったなどなどの痛みを通して、
誰も頼らないような一人で生きていく、生き方を身に付ける。
そうすると、弱さとかネガティヴとか、
誰かに頼らなければいけないと感じる要素は、自分の中では消す必要が出てくる。
自分の中で消すことによって、強くなろうとしたり、
もっと一人で生き抜こうとする決意を強めていく。
しかし、一人で生きて行こうと決意を深めていくほど、
そういった決意をしていない人が気になったりしてくるのである。
例えば、困ったら誰かに頼れば良いや〜とか、
俺がやらなくても、誰かが勝手にやってくれるだろう〜とか。
別にそれは悪いことでもないのだが、自立をしている人にとっては、
「いや、やれよ」と、やる方向をその人に進めたくなるのだ。
その場合は、問題がないのだが、
「やれよ」という形で、伝えられないときストレスを感じることがある。
今回はその部分について、少し解説していきたい。
感情の痛みの中の一番下にあるのが、無価値観や罪悪感と呼ばれる感情なのだが、
これは自己否定を伴っている感情である。
だからこの感情を持つと、自分にはないと思うだけ、それを補う誰かや何かが必要なような気がする。
それが、依存と呼ばれるものである。
そして、この感情を押し殺して、自立せざるを得ない、という形で自立をしていき、
弱さが持つよりも、強くあらねばとか、
雑草のようにひたむきにコツコツと、私は這い上がっていく、みたいな、
とにかく、人に頼れなかっただけに、一人で這い上がることを試みる。
ここで、根性、忍耐、我慢、などなどの言葉がよく使われたりするように、
私は辛いし苦しいし、状況は絶望を感じるけども、
私はとにかくある目標のために突き進む、という選択をしていく形で、
前へ前へと進んでいく。
これらは、仕事とかであれば、
辛そうな人とか苦しそうな人とかに対して、
「お前も今は苦しいかもしれないけど、ここを乗り越えるかどうかが成長の鍵だからな、諦めるなよ」などなど、情熱的に助言をできる形に繋がる。
しかし、目的や目標が曖昧な友人関係。特に恋愛関係であると、
心と心が触れ合う場面というのが増えてくるわけなので、
苦しそうだったら、辛そうだったり、また依存的だったりすると、
この自分の乗り越えてきて身に付けた助言が伝えられなくなるのである。
そうすると、辛い苦しい依存などをそのまま相手を通して感じることになる。
要は、その辛さや苦しさを、乗り越えられる選択を自分で言葉を通して置くことができないので、
そこの苦しさなどから抜ける力のない人が、寄ってくるように感じるのである。
と書いて、今回は終わり。
何故、人の良いところを見ることが、自分のためになるのか。
心理学には投影の法則と呼ばれる、他人は自分の鏡という法則があるが、
この法則を活かした心の見方として、
人の良いところは自分の中にあるから見つけられる、というものがある。
これはすなわち、人の良いところを見つければ見つけるほど、自分の良いところも才能も、たくさん見つけることができますよ〜ということ。
しかし、人の良いところを見つけるということには別の効能がある。
それは簡単に言えば、自分のことがどんどん好きになっていく。
これを詳しく説明すると、人は子供の頃から、怒る親、責める親、自分のことを構ってくれない親など、親の自分に対する扱い方を通して自己を認識する。
この時の誤った認識の仕方が無価値観や罪悪感と呼ばれるもの。
つまり、直ぐに怒る親と怒られるダメな自分、という感覚がセットになる。
これは成長をしてからもパターンとして残るもので、
このパターンがあると、怒ってくる相手のことを許せなくなる。
どういうことかというと、人は自動的に愛を感じようとするので、
怒る親という認識が残ったままであると、
怒る親に愛を感じさせようと、自分が助け救おうとする。
つまり、このパターンがあると、大人になってからでも、
怒ってきた相手は愛を感じられない人なんだと認識し、
その人を無意識に助け救おうとしてしまうので、
その人を許そうとしても、許してしまったらこの人はどうなるの?
という恐れや不安が先行してしまい、許せなくなるのである。
だからよく心理学では許すために相手の心を理解してみましょうね、と言われる。
これは怒ってきた人や親の心の中を理解することを通して、
意欲や願いや祈りといったような、愛を選択できない事情があることを理解し、
その人は愛を選択できなかった事情があるだけで、愛がないわけではなかったんだ、という実感を自分に得ていくことを目的としている。
そうすると、その相手は愛がある存在なので、助ける必要も救う必要もない。
つまり、愛があるなら大丈夫やん、さようなら〜と手放せるわけである。
それは同時に怒る相手を通して生まれたダメな自分という認識も手放すことに繋がるので、無価値観や罪悪感も消え、自分にはふさわしい自己評価が入ってくる。
普段は自分が無価値観や罪悪感にはまっているとはまさか思わないので、
このパターンに気付くために、セラピーとかヒーリングワークとかを使い、
愛に触れる機会を増やすことで、愛を感じられてない思考習慣に違和感を抱けるようにしていくという手段が求められたりもする。
ちなみに、こういった手放しを一人で行う場合は、とにかく愛を見ることを選択すること。
例えば怒ってくる相手だとしたら、この場にくるのは自分で選択してる。
選択っていうのは愛に呼応するから、それは愛だな、とか。
怒れてるってことは、自分で選択してるじゃん、なら大丈夫だな。
怒るという選択をできるくらいの力がその人にはある、とか。
一つ見るたびに、一つ自分の中の無価値観や罪悪感が手放せることに繋がる。
もしそこでスッキリしないのであれば、その痛みがもっと深い層にあるということ。
その時は、もう少し相手を理解する形で見ていくこと。
怒ってくる人を許せないとするのなら、
この人は、ここにくる前に、もしかしたら怒りを感じるような何かがあったのかもしれないけど、そこでその状況を理解するなどの愛を選択できたかもしれない。
なら、その人に愛を感じる力はあるじゃんなどなど。
より深い形で相手の愛を見ることを選択していくこと。
それを繰り返していくたびにより繊細により抑圧した思いに触れていくことになる。
つまりこうすることで、癒しと許しが起こっていく。
他には、「この状況を違った見方で見たいのです」と口に出すのも良い。
必ず、無意識の愛を感じている部分に触れることができるので、
インスピーションが落ちる時は、人により違えど、
相手の愛に触れることができるようになるので、許しや癒しが進む。
とにかく、愛を選択すること、それに尽きるように感じる。
コツは、誠実に投げかける感じ。
感覚的には、くっきりとしたイメージに対して言うのではなく、
漠然としているようなイメージに目掛けて、そう呼びかけること。
長々と書いたが、そうすることによって、
人の力が本当に細かいところからも見れるようになるので、
自分にもそれだけの力があると感じられるし、
相手の良いところや力もたくさん伝えられるしで、
自分の評価は勝手に上がるし、自分のことも凄く好きになるのである。
そして余談だが、無価値観や罪悪感を通して、相手を助け救おうとする時は、
相手の意欲や願いや選択といった、相手の力そのものを見ることなく、
何とかしてあげよう、何とかしないと、という気持ちが働くので、
これが共鳴することで、意欲や選択の力を持っていた相手にも、
無価値観や罪悪感があると、愛を感じるための力が抑圧されるので、
救おうとしてるはずなのに、状況が悪くなりすぎるみたいなことになり得る可能性があるのである。
この時、うざいとか邪魔とか重いとか言えれば、自分の選択に力が戻ってくるのだが、
互いに無価値観や罪悪感が共鳴すると、どららも対応は違えど、相手のことを救おうとしているので、状況が悪くなることもある。
この場合も痛みを手放しながら愛に触れていくことで、
お互いに対等な関係性なっていくので、
互いの愛が循環しあって関係性が上手くいきやすくなったりもする。
という形で、人の良いところを見ると自分のためになるという話を、思いついたままに纏めてみた。
怒りや不満を上手く使う。
なんでこの人はこんな最低なことを言うのだろうか。
なんでこの人は、こちらのお願いを聞いてくれないのだろうか。
そんな不満や怒りという感情は、
使い方によっては誰かを傷つけるものであり、中々扱いづらい感情。
僕もこの感情を扱うのはあまり得意ではない。
怒ったり、不満を言うくらいならば、
何も言わない、何も感じてないフリをする、ということを選択することが多い。
これは、あくまで誰かの気持ちを考えているという優しさから生じるものであるが、
本人が心の中で感じるのは、こんな気持ちを感じてしまってごめんなさい。
という罪悪感であるので、中々人と近付けなくなるのである。
怒りや不満を押し殺すことは、人を傷つけない利点があっても、
人との距離を何故か遠ざけてしまうことに繋がる。
誰かのため、という思いが逆に誰かを遠ざけるというのは不思議なものであるが、
何故か心の仕組みそのようになっているみたい。
・じゃあ、怒りや不満って何のためにあるの?
怒りや不満を隠すことで人との距離が遠のき、
自分の中に寂しさや悲しさが溜まるとしたら…。
怒りや不満という感情は何か自分のために必要だから生じていることになる。
じゃあ、何のために必要なのかといえば、自分の愛を感じるためであると言える。
例えば、自分の夢をもし否定されて怒りを感じたとしたら、
その人はその夢に何か願いや祈り、という愛を込めていたかもしれない。
けど、その人もどこかで、その願いや祈りに迷いや自信のなさがあり、
そこを突かれたことで、怒りを感じたのかもしれない。
自分はそんな願いや祈りをする存在ではないというのか…。
自分がそんなことを思うことの何がいけないんだ…。
そんな思いを持っても良いじゃないか!
自分だってそんな風に誰かのことを思っても良いじゃないか!
過去にその愛を否定したという痛みがあればあるほど、
こんな形で強く悲しみと怒りを感じるのもかしれない。
だから、怒りや不満は、その愛に触れる機会を求めるために、
自分の心の中から生じてきているのだと思う。
要は、その自分の中の愛を持つのに自分が相応しいと思うと、
自信のなさや迷いを自分の中から弾き出すためにも、
怒りや不満という形でその愛を感じようとするのだと思う。
・怒りや不満を上手く使うには?
無価値観や罪悪感と呼ばれる感情があるが、
この感情は自分の愛は愛ではないとの判断から生まれたものである。
これを心の痛み、という形で表現するのであるが、
この痛みの奥にあるのは、祈り、願い、意欲等々の、
誰かのためにという純粋な愛が埋まっているのである。
この愛をほじくり返し、その愛を感じることが怒りの目的である。
つまり、ここからは論理的に詰めていくが、
・誰かの言葉を通して傷ついた時、優しい人は怒りや不満を押し殺す。
→しかし、この時、心の中はそんな感情を感じた罪悪感と、
その言葉を通して引き出された無価値観で心はいっぱいになる。
→すると、心の中では怒りとか憎しみとかごろごろでるのである。
→この時に、怒りをぶつけられれば、万々歳なのだが、
人の気持ちを考える優しさを持つ人はそれが難しい。
→なので、何でそんなことを言うのだという怒りを通して、
そんなことを言われると、僕はこう思えないという悲しさを引き出す。
→悲しさは同時に愛の存在を示しているので、ここまで感じることができると、
自分の中の純粋な愛というものを見つけることができる。
・もう一つは罪悪感から距離が離れた時に感じる寂しさを使う。
→この時に、何故責められた自分がこうしないといけないの?
という癇癪を感じることがある。
→この癇癪は、愛に触れられないという強い痛みであるが、
同時にこの癇癪は愛の存在を感じられるからこそ生じるもの。
→だからこの癇癪のもう一個下にある、僕もこれを感じたい。
僕もこの人と一緒にいたいという、寂しさをちゃんと感じられると、
自分の中の純粋な愛に近づくことができるのである。
要は、僕の中の欲圧した、願い・祈り・意欲などの愛を持っている人に、
寂しさという感情を抱くので、
癇癪という形の怒りを使ってその感情を探すこともできるのである。
と、長々書くことをしたが、
愛を感じられたからこそ、怒りや不満を感じることができるわけである。
場合によっては、誰かに対しての何かしてほしいというニーズの形での怒りや不満であることもあるかもしれないが、
この時は、相手の価値を自分の愛を通して感じられているからこそ、
その愛を求めて、くれない相手は怒りや不満が生じるのである。
だから論理的に詰めていくと、無価値観や罪悪感とは違う
生の新鮮な寂しさや悲しさなどの感情を感じれる時には、
どこかの愛に呼応し自分の愛が反応しているとも言えるのである。
そこで、過去の痛みを通して嫉妬や疑いの気持ちを感じることもあるが、
その裏には自分の中の純粋な願いや意欲や祈りなどの愛が存在しているという目で見られると、その奥底の部分にまで触れる機会を得られるのである。
承認欲求の本質。
暇なので、溜まったものをつらつらと書いていく。
承認欲求というと、僕は今まであまり良いイメージがなかった。
何だか、自分の欲求で誰かを振り回すような気がしたり、
自分の都合で誰かを動かしてしまったり等々、
自分勝手なことをしてしまうような印象があったから。
心理学ではよく、「自己承認が大切ですよ〜」とか、
「自分を愛してくださいね」と、よく言われることがある。
僕もこれには同意する。
自分勝手に行動したくないとずっと思っていたので、
それさえできれば、自分は自分勝手な行動をしなくなるからだと思ってたから。
しかし、意味を取り違えると、少し大変なことになる。
自己承認にしても自分を愛することにしても、
誰かに迷惑をかけない、誰かの邪魔にならないようにするなどの、
罪悪感を動機として行おうとすると、
自分を小さくするために自分を愛そうとするので、
自分の心に対する理解が深まったり、それを通して状況に対しての理解も増すが、
邪魔にならないように動ける範囲が増えたと感じられるだけになってしまう。
これは自分が誰かのためにできることが増えたという愛の解釈とは異なる、
罪悪感による解釈の仕方なので、
どうしても息苦しさというのが増してしまうのである。
そしてじゃあ、溜まった承認されたいという欲求はどうなるの?というと、
以前として、自分にはないと思うものを持っている人に対して、
認めて欲しいという気持ちは抱き続けるので、
どれだけ理性でコントロールしようとしても、消えないのである。
つまり、ずっと持っていた罪悪感も消えないので、
その承認欲求を見せないために引きこもるという何もやらない人になるか、
すっごい辛いし苦しいけど、
惨めな自分とした何もやらない自分を見せないために、
必死にやるべきことをこなす人になるのかのどちらかになることが多い。
というわけでなぜか、承認欲求を消そうとするとあまり良い結果にならない。
じゃあ、そもそもで承認欲求とは何なの?というお話になる。
承認欲求の多い人というと、どんなイメージがするだろうか。
僕は支配的な人、暴力的な人、直ぐ怒る人、ナルシストな人をイメージする。
何となく、自分を強く主張する人、自分を一番にしようとする人を挙げた。
これはあくまで僕が感じたことなのだが、
そう感じさせる人の共通点として、
自分を何かに近付けようとしているという部分が共通する感じがする。
そうでもしなければ、自分は価値がない。
要は誰かを喜ばせられない、そんな感覚を感じるのである。
ということであくまでこれは僕の見解だが、
承認欲求とは、その人の本当の愛の大きさと、
それを認められない自己との葛藤で生じるものかなと感じた。
承認欲求の強い人は自分のことを認められない、愛せない人、
という言い方をされることがあるが、
これは言い換えれば、本当は凄く愛の大きい人なのだが、
その愛を否定された経験により、
自分の愛を疑っている人という見方になるのかなと思う。
つまり、無価値観からの目線で見れば、
自信がない、威張りすぎ、偉そう、疑い深いし執念深い、自分勝手等々、
あまり名誉ではない見られ方をする。
が、愛の目線から見ると、
自分を低くしてまで人を大切にしようとしてるとか、
多くの人が喜ぶ何かを大切にしているとか、
様々な人を支え仕切る立場の愛の大きさを知ってるとか、
より大きな自分になると誰かが喜ぶことを知ってるとか。
自分という立場を置いて相手のことを見て見ると、
相手が凄く大きな愛になろうとしていることが見えてくるなと感じる。
悔しく説明すると、権威を振りかざすことができるのは、
権威があるものとないものとでは、
できることが変わるということを知っているからであり、
それを知れるのは権威のある人の愛を知っているからとなる。
と言っても、権威を振りかざされると、
振りかざされるものは、
自分には権威を持つ人ほどの愛はないという無価値感を感じるので、
すんごいその人に対する印象が悪くなってしまうのである。
そんな対象にされる存在は、大抵権威の愛を知っている人であることが多く、
知ってるからこそ、その存在と目の前にいる存在の差が違いすぎて、
ふざけるな、お前なんか権威を持って良い存在じゃない、
引きづり降ろせ、こいつがいるから全て悪いんだ、みたいな感じになる。
とちょっと話が逸れたけど、
承認欲求というのは、かつて感じた愛を感じられなかったという痛みから、
僕にそのかつて感じた愛をもう一度感じさせてという、
その人の心からの助けを求める声なのかなという風に感じる。
そこまで大げさに考えなくても良いかもしれないが、
私に愛があるって言って?みたいな感じなのかなと思う。
ということで、じゃあ承認欲求があるならどうするの?となり、
これに対しての問いは、愛の大きい人の価値を見ることで解決するように感じる。
一番は嫉妬する存在。自分にはないを見せつけられるような相手を承認すること。
嫉妬は、承認されなかった痛みや、無価値感や罪悪感を持った時の痛み。
また価値のある存在にもらえなかった悲しみや寂しさ。
またそれを得られない悔しさ、辛さ、しんどさ等々。
色々な感情を呼び起こす最悪な感情ではあるが、ここが抜け道になると感じる。
本来、その人の愛を感じているからこそ、
その上にそこを否定せざるを得なかった痛みがのしかかるのだが、
その人の愛を感じた部分まで感じることができれば、
価値のある存在と自分を分離させるものはなくなるのである。
つまり、自己承認できるという状態になるのである。
ということでこれはさっきの記事にも連なる部分であるが、
今ここで嫉妬する存在の価値を認め続けること。
またその認めた貴方の目で、相手を支え、協力すること。
そういった相手の愛や価値を通して、
自分の価値や愛を感じる機会を増やすことが求められると思う。
目の前の人を喜びという目で見るには。
誰かの価値を見るということは、
その価値が自分にも与えられるものだという見方を通常する。
それが自分に対しての喜びをもたらすことに繋がる。
多くこのような見方は幼い頃、
自分にできることが少なかった時にもたらされるものである。
しかし、その見方通りのものをもらえなかった時、
人は傷つき悲しみ、痛みを強く抱えてしまう。
その時、価値のある存在の愛を覚えているために、
僕たちはもらえない理由を自分にあると決めつけ、
無価値感、又の名を罪悪感と呼ばれる感情が形成される。
その後、その痛みを味わうことないような人になろうと決断し、
僕達は自立していくわけなのだが、
そこではしたいからするというわけではなく、
せざるを得ないという義務や役割で生きていくことになる。
価値あるものを自分の不徳によって失ったと判断した僕らは、
不徳をしない自分になってその価値を得ようと必死に頑張る。
そこでは、ただ誰かの価値を見る存在や、
ただ自分を責めて動こうとしない存在などは、
依存という形で自分のシャドウとなり、
自分の痛みを誘発させるような存在になることがある。
この段階で、心理学の投影という考え方は有効となり、
人は皆、自分の心の中を映し出した存在、という考え方の元、
切り離した自分を統合していく旅が始まる。
そして、過去の痛みと向き合い、過去の感情を感じることを通して、
誰かの価値をみるという愛を自分が持っていたことを知ったり、
そんな価値のある存在を助け救おうとした愛が自分にあったことを知ったり、
感情の一番下にある愛を感じることで、
本来の自分に戻っていくことを試みていく。
依存と決めつけ切り離した部分を統合すればするほど、
人の価値というのは見えるようになり、
また、無価値観や罪悪感が減るにつれて、
自分はその価値を受け取るに相応しいという肯定感を得られるので、
より多くの喜びが受け取れるようになっていく。
掻い摘んで言えば、今ここで誰かの価値を見ることを、
誰かの愛を見ることを選択すれば、
喜びは今ここで感じることが可能になる。
今喜びを感じさせない感覚の全ては、本来の相手の価値を知り、
本来の相手の愛を知っているからこそ感じるものだという目線を持てれば、
その誰かの価値や愛を見ようとした意欲は失われることなく、
自分のやり方とは異なる、しかも簡単なやり方で喜びがもたらされる。
そしてそこで得られる感覚というのは、
無価値を通して作られた敵という存在から身を守るという感覚や、
罪悪感を通して作られた偽りの自己という感覚ではなく、
自分のダメな部分はこの人の愛を通して好きになれたという喜びや、
自分の良い部分をこの人は受け取ってくれたから好きになれたという、
誰かによって自分は成り立っている、という真実の感覚へと至っていく。