一旦、まとめ〜。

とりあえず、ぼちぼちと思ったことを一旦纏めたい。

 

論理構成として、

親との関係性で満たされなかった欲求があり、

ここでは、単純に食べたいとか、やりたいことをやりたいとか。

 

そこが満たされずに抑圧されると、

それを私の欲求に対して邪魔するものがいる、わかってくれないものがいる、

という前提を持ちながら成し遂げようとするのだろうなと。

 

ここがおそらく、男性的な思考でもあると同時にやり方や正しさの層のはず。

 

しかしあまりに男性性が傷つき過ぎてると、いじめとかで、

その欲求の行き場がなくなり、もっと破壊的になるのだろうなと。

人を害したり傷つけたりしても何とも思わなくなるーとか。

平気で非人道的な行為をしてしまったり、またそういった発想が浮かんだり。

 

ここの発想は自分も今日強く感じたけど、

こんなことされるんだったらこうして良いじゃん!といった、

非論理的というか、復讐に近いような心理であるなと感じた。

 

ここまでで一旦〆。

 

次に、親との間満たされなかったがために、

邪魔する人やわかってくれない人がいるけど、その欲求を自ら満たしていくいう発想の層にいるとき、いやとどちらかというと、

そう人のせいで、あまりに辛過ぎて自分はその欲求を満たしていけない!と思う時。

 

自分の場合は、超依存的な形で、人を好きと感じるなと思った。

もう自分には無理だし、できっこないし、今すぐに助けてほしい!

でも、この人はそれを乗り越えてる!だから、こんな苦しみにいる自分を助けて!的な発想を持つ形になるなと。

 

この時感じる感情は、寂しい、孤独、絶望、パニック等々、まだありそうだけど。

論理構成的には、一度許してもらえなかった自分にはもうこれは与えられない、誰も許してくれるわけがないし、誰も与えてくれるわけがない。

でも、この人はもうそれを持ってる。だから持ってる貴方は私のことを助けて的な形になるなと。

 

この構成から思うのは、手に入らなかった過去を一度認める必要があるなと。

手に入らないって知ってるのに、欲しいと思うから執着するし、

相手が離れてると抑圧してた手に入らない過去が現れて、怒りや悲しさや寂しさを感じるはず。だから、勇気を持って、手に入らなかった事実を認める必要があるはず。  

 

 

最近よく思うが、その手に入らなかった過去の思いは現在に強く影響を及ぼすなと。

本当はこうしたいという思いが浮かび上がってるのに、こうしたら、貴方はこう思うでしょ?と、思ってなくても投影したり。

そうして、酷い自己嫌悪を感じたり、寂しさや悲しさを感じたら、どうしてこんな自分をわかってもらえないんだろうと、あまりに辛くなったりと。

 

結局のところ、癒されてない傷は、勝手に浮かび上がってくるなぁって。

 

で、じゃあこっからどうしようかというお話なのだけど、

今は、破壊的な衝動から、悲しさや寂しさを通して満たされなかった欲求を見つけ、

親等々の関係性で、欲求を人を傷つけたり害したりする形で満たそうとしようとしていることを認め、

その後、その傷が現状の自分に与えてる影響を書き出して理解し、

そこで、その傷を自分の手で癒せなかった罪悪感に入る。

そのあと、受容をして傷と思いと行動と欲求の流れを整理して、

 

最後に、今もなお残っている悲しさや寂しさに、過去の罪悪感を持った自分から受け止めることをし、感情を引き出し、満たされなかった過去があることを認める。

そうして、本当にしたかったこと、思っていたことを、ただ認める。

という形のことを、今はやってる。

 

ただ整理して思ったけど、できるならばもう少し短縮したいよね。

この流れだとしんどいってのもあるけど、方向性が見えないから正直怖い。

 

自分の目的としては、

・幾つかの抑圧されてる感覚を取り戻したい。

・怒りや批判やまた破壊的なエネルギーを受容したい。男性性を引き上げたいから。

→だから要は、自分の本当にしたいこと、また自己実現がしたい。

・と同時に、批判的な人や否定的な人を受け止めれる柔らかさが欲しい。

→というよりも、自己実現とかの柔らかさは相関の関係性にあるはず。

 

そうーするとー。

やっぱり、破壊的なエネルギーにもっと入る形かな。

要は、愛を一旦捨てる覚悟を持つことか。良い人をやめることでもあるか。

というよりは、破壊性や攻撃性を持って孤独感に入り、

そこで初めて自分の本当の気持ちや欲求を受け止め、

そうして、縛るものがなくなった自分を通してもう一度愛を受け取る。

 

要は、再誕生を繰り返すってことかな?

とりあえず、やってみよう〜!

 

にしても、感覚がいくつか戻ってきてるなー。

というよりは、人が見る可能性のある場でこれを書けるまでに成長した自分が嬉しい。やっとここまできたかぁ。嬉しいなぁ。

 

とりあえず、ここまでくると、何回か繰り返した後の自分が楽しみになってくる!

つらららっと。

思ったことを、氷柱のようにつらっと。

 

 

僕は自他共に認める惚れ症である。

前からよく人のことを好きになるなと感じていたが、

最近、他人と比べて本当によく人を好きになりやすいなと感じる。

 

この惚れ症に関しては、なぜ起きるのか?を前々から分析していた。

俺このパターンを持ってると、絶対に浮気するなと思ったからである。

 

で、今まで分析した結果、おそらく、傷を前提として人を好きになってるのだろうなと感じていたのだが、今日明確にその原因がわかった。

 

僕が人を好きになるとき、大抵、時間が経った後に性的な感覚を感じることが多い。これまじでなんなんだろうなと思ってたのだが、どうやら、これは、相手は包み込んでくれるような、受け止めてくれるような、部分を期待してるからだと気付いた。  

 

また、もう一個奥深く進むと僕のいじめの体験が、完全に関連していることがわかった。僕のこの時に生じる好きという感情は、大概、この人じゃなければダメだ、この人がいなくなったら終わりだという感覚として感じることが多い。

 

この感覚は悲痛な気持ちを同時に感じるので、とても悲しいし寂しい。

でも、感じてる感情は、どうやらそれだけではないらしい。

毎度この感情に入ると、どうしようもない絶望と罪悪感を感じていた。

どうやら、いじめの時に感じていた感覚を感じるかららしい。

 

要は、いじめの時に感じていた感覚と感情をまだ吐き出せていない。

だから、心は常にその状況から脱する術を探している。

そこに、少しでも自分の心をわかってくれる人が居たらどうなるだろう。

 

自分では受け止められない気持ちを少しでも相手は受け止めてくれるわけだ。

当然好きになるだろう。

なぜなら、この人は、自分の絶望的な状況から抜けさせてくれる、希望のような存在なのだから。

 

というわけで、なぜ性的なエネルギーが、

生命力と言われるのか何となくわかったような気がしている。

 

心の中では常に傷から抜け出す状況を人は探していて、

抜け出してくれそうな人を見つけたら、藁にもすがる思いでくっ付こうとするのだなと。そうして、その時、特に男性の場合は、受け止めてくれるような母性のようなものに、助けてくれるだろうという投影を貼り付けるのかなと。

 

だから、それが性的なエネルギーとして感じるのかなと感じた。

つまり、俺の惚れ症は、傷を癒せば違う形になるということのはず。

 

 

またもう一つ気付いたことは、

傷があると、大概、相手に投影するのは、

この人はこの傷を抜け出してる人か、抜け出してないか?で判断するなと。

 

しかし、その判断は結構曖昧だなと感じる。

自分の場合は、いじめの時に絶対に言えなかったであろう言葉を、相手が言えてるどうか。もしくは自分が使えなかった感覚を使って行動したり自分を整えてるかどうか。そうした要素で、相手のことを判断しているのを感じる。

 

この時の言葉だと、まじ楽しいー!とか、私こう感じるんだよね〜とかとか。

僕の場合、自分が何を感じてるかを表現することすら許せないし、あり得ないと判断していたので、今もその感覚は封印されている。

その感覚を使った瞬間、その感覚を使っていじめられた時のことが思い浮かぶので、怖さや絶望で深く心が覆い尽くされ、死にたくなる。

 

といった形なので、その感覚を使っている人に対しては、

あんな荒波を乗り超えたすごい人だ!という投影が無意識に起こる。

なので、調子に乗りそうになる自分をいつも感じる。

こんなに凄い人になら、何を言っても良いの偶像崇拝が起きるのである。

しかし、事実はそうではないので、大概調子に乗ると後悔する形になる。

 

で、なぜこの話をしたのかというと、

この時の心理パターンというのが、依存と自立の関係性なのだろうなと。

この人は私が乗り越えられなかったところを乗り越えてる人!だって、私の出来なかったことをできてるから!という判断が起きれば、相手の気持ちをあまり考えたり配慮したりせずに、行動に移るようになるだろう。

 

たこの時、大概自分なんての思いに陥りやすいはず。

自分はめちゃくちゃこのパターンに陥ってると感じる。

自分なんかとよく感じることが本当に多いので、表現するのも怖いし、話すのも怖いし、いつもしてる分析や理解の力を他者に使うのもものすごく怖い。

何もできていなかった、自分なんかがやるのは、お後がましいのでは?の思いに駆られるから。

 

 

だからこれらを踏まえて強く感じるのは、いじめの傷が癒えれば、人生は更に大きく変わるだろうなと。

 

自分なんてという気持ちが癒えれば、

自分なんてに投資していたエネルギーが消えるので、今まで自分のことを分析するのに使っていた力の数々を他人に投資できるはず。

 

使えなかった感覚を取り戻せれば、その分、嫉妬の嵐も止まる。

それだけではなく、使える感覚が多くなるので、表現の幅が絶大に広がるはず。そうすると、本当に自分のやりたかったこともできるようになるはず。 

 

またいじめの傷を癒していく中で、生命力の引き上げかたのコツも掴めるはず。

生命力は状況や状態関係なく生き抜くという、1人で状況を切り開いていく力なので、男性性もかなり上がるだろうし、様々な人の役に立てるはず。

と同時に、ここに書いた三つのエネルギーを纏めあげれる形になるはず。

 

この感覚を書くと、浮き上がってくるのが恋愛か。

前にカウンセリングを受けた時に、あるカウンセラーさんに、

あなたが自分らしく生きていた時に、後ろにそっといる人にすると良いと言われたことを思い出した。

 

好き的な性的な興奮を伴う形での恋愛はそれもまた良いけど、

10年、20年経つとなんか違うなという感じや微妙なストレス等々を感じたり、場合によっては離婚に繋がったりするという話を聞いた。

そして、元々は本能的な部分で恋をするから、

男性として引き上がった時に、初めて男と女は違うものと理解し、本当に女性的な人を好きになると言われたのを思い出した。

 

なんかこれ書くと、すご〜くスッキリするなぁ。

そうだよなぁ、それが幸せな感じだったりするよなぁと。

お互いに、自分らしくなって、男と女で違う生き物であり、そうして、お互いに違う形での魅力をくっきりとはっきり表現していく形。めっちゃ良いな〜!

書くだけでも、幸せなのがわかる〜!

 

というわけで、さっき書いた三つの部分を引き上げてから、恋愛って形かなぁ。 

そこにすごく、自分らしさを前面に引き上げて表現していて、最高に自分らしくて幸せで楽しすぎる感覚を感じる。めっちゃめっちゃ楽しみだわ〜!

 

仮説的には、いじめの傷が癒えればというところだから、

もうじき引きあがるはずだが、約1週間くらいでどこまで入れるか。

ここまで仮説が立てられるのなら、そう遠くない日に現実になりそうだが、さてどうなるか。まだ修正するところでてくるかな。

とりあえず、明日から色々試行錯誤しながらやってみよー!

 

本当、めっちゃ楽しみだわ〜!書いてる瞬間も幸せ過ぎる!

いじめられて、本当に良かったかも、嬉しいって!ありがとう!って感じる笑。

思ったこと。

今なんとなく、権威との葛藤の感覚と、男性性に対する許可が降りなかった理由がわかった気がするので、書き留めておきたい。

 

きっかけは父に判断されたこと。

ジャンプを読まずに溜めたのだけど、その幾つかを母に捨てられていた。

それを、僕が捨てちゃったよねーと言ってて残念がってたら、

父が、1週間に一つ読まないのは、余裕がないからだと指摘をしてきた。

 

こちらとしては、内観に励んでてて、それくらい余裕がないというか、

ジャンプ読んでる時間も勿体無いなーと思っていただけに、

色々やってて余裕ないだけだし、あえて余裕のない状況を作り出してるだけと。

内観してない時に、余裕にジャンプ読めてる時があったのでそれを伝えた。

 

それでもなお、余裕がない的な指摘をしてくるので、

こりゃ内観の辛さとか、こちらが余裕を持ってジャンプ読めてる時があることが伝わってないと感じ、お互い取得してる情報が少ないし、というか情報の共有ができてない以上、一方的な判断や理解にしかならないからやめよう、余裕がない形で良いからと伝えた。

 

そこで、自分があまり理性的に考えずに、行動してるみたいな判断をされた感じがして、イライラを感じつつ、

そこでなお、切り込まれて、それは心の器が小さいからだと指摘された。

ここで黙って聞いてた時に、いやお前、すぐ切れるだろう、という文句と、

自分の中の小さな子が憧れのような感覚を発してるのと、

自分はただこういう理屈でこういう状態を作り出してるだけなのだけどな、表面的にはそう見えるだろうけどさ、と感じてる自分に気付いた。

 

特に三つ目がすごく重要だなと思って、

表面的に見えるものとこちら側で感じてるものは違う、という観点から、

自分と人は違うんだなっていう感覚に行き着いた気がする。

 

 

なんとなくこれが、表面的な部分から自分の気持ちをわかってくれよ、という気持ちに対する、変化を与えてくれた気がする。

そりゃ理解されないよなという感覚と、ここに対して情報を付け足して理解してもらえないとすると、自分の愛し方が違うだけかなに行き着くなと感じた。

だから、ここにすごく父との間の対等性を感じた。

これが見えなかったから、父に対する葛藤が癒えなかったのかなと感じた。

 

 

もう一つ、すぐ切れるだろうという部分と憧れの自分が対立の関係性にあると感じた。憧れの自分を封印する形として、この父に対する攻撃心や、態度を僕のために改めて欲しい、という依存心が生まれたのかなと感じた。

 

父がその後、自慢話的な話を聞いてるときに、すごく憧れやその話に心惹かれてるのを強く感じた。そうして、そうなりたいと意欲を持ってる自分がいた。

しかし、その反面そういう話をする父を攻撃してる自分もいた。

 

つまりこの時の関係性としては、こんなことができる言える父親すげぇのマインドが最初の部分。しかし、そこから父に教えてもらった時に、おそらく、できなかったのだと思う、そうして父のようにならない自分というのを感じた。

 

それが、本当に悲しかったんだろうなと。

悲しすぎて、もっともっと優しくして欲しい、もっともっと柔らかく教えて欲しい、そうすれば、自分も父のようになれると思ったのだと思う。

しかし、それをそのまま伝えるのは怖すぎるし、失望した時が辛すぎるので、父に対する反感や攻撃性として訴えかける形になったはず。

 

つまり父の攻撃性や厳しさなどが嫌というよりは、

できなくて、父のようになれなった自分を感じるのが嫌だったんだろうなと。

 

だから、意見をするとか行動するとか、

主体となって行動していくということが本当に嫌だと感じていたのだと思う。

他の人に対して、こんなことをしたらなんでこんなことをするの?教えてくれたり、こっちにもそうした体験をさせてくれても良いじゃんと思われると投影してたから。

だから、男性性が引きあがらなかったんだろうなぁと感じた。

 

つまり、ここは、父のようになれなかった自分、誰かのようになれなかった自分を受け入れることで、解決するはず。

そうすると、おそらく個性もくっきりと色づくはず。

 

そこに至ると投影が変わるはずだから、孤独な感覚も癒えるだろうし、

自分の本当にやりたかったこともできるはず。

また、できなくて誰かのようになれなくて苦しむ気持ちもわかるようになるから、

教えるとか指示するとか、そうした部分の才能も入ってくるはず。

いや多分、ここに入ると、父の才能も入ってくる気がする。

父は自分を傷つけるものではなかった、という感覚になるはずだから。

 

いやー!楽しみだなー!よかった〜!!

やっと、入ってくれた〜!

今日のこのタイミングで父に判断されたのはラッキーだったなぁ。

嬉しいなぁ。父に感謝だなぁ。

こっから多分、色々恩恵が入るはずだからそれをまずは楽しみに。

あとは、ワークやってどうなるかってところかな。

まだ修正入るかな、どうだろう、とりあえずやってみよー!

カリスマ性。

カリスマ性、めっちゃ欲しい。

人を惹きつける何かしらの魅力を持っている人、

という意味合いで自分は捉えている。

 

人を惹きつける何かというのは、たくさんあると思うが、

カリスマ性を発揮してる時というのは、

心理的に自己評価が良いものになってるときだと感じる。

 

人は、私には無理と感じる時、罪悪感を感じている。

発言として、私なんてとか。

俺にはそれができっこないとか、そういった発言が表れる。

 

そうした時、大概、心の感覚として、

自分がとんでもないことを起こすような、

そんな自分の影響力が悪い方向に現実を進める、

というダークストーリーを強く感じている。

 

とすると、自分の影響力と罪悪感ストーリーが一致してしまうので、

自分の影響力が良い現実を作り出すとは思えない。

 

すると、人は主体性や創造性を失う。

結果的に、人を惹きつけるとは逆のエネルギーを発する。

 

って考えると、どれだけ自分の影響力を良いものと見れるか。

これが、カリスマ性を発揮させていくのに必要なことだと感じる。

 

 

罪悪感ストーリーを心の中で受け入れることができた時、

大概、創造性というのが生まれる。

 

ダークストーリーというのは、

私は人にこんな気持ちで見られたくない、

私はこんな風に判断されたくない、

そして、そう見られてるのが私だとは思いたくない、

そういった、気持ちが自分の中に溢れている状態。

 

だから、ダークストーリーを人は恐れる。

そんな誰からも望まれてない状態で、

幸せを望まれてない状態で生きていけるとは思えないから。

 

それはある角度から見ると事実である。

自分の行いによっては、自分の幸せや成功を望まない人もいるだろう。

逆に、こちらの不幸や失敗を望むものもいるだろう。

 

そこに、どれだけ自分が入っていけるかが鍵となる。

私は誰かに望まれない生き方をするものである、

誰かにとって、幸せを感じさせないことをしてしまうものである。

しかし、私はその事実を受け入れた上で、こう感じていきたい。

私はこれをこの人達に、届けていきたい。

そうして始めて、本当の意味での主体性と創造性が生まれる。

 

これは組織の変革と似ていると感じる。

組織で問題となっているものを変えようと試みる時、

その人は白い目や批判的な目で見られることだろう。

そこで、その目を自分に向けられているということを受け入れ、

その上でも組織やここの人達のために本当の幸せや愛を届けたい。

その思いを貫けたとき、組織は大きく変革すると感じる。

 

具体的に言えば、私がこういった判断をされるということは、

周りの人達も自らを同じように判断しているということであり、

その判断は恐れや不安の方にエネルギーを投資することを意味するため、

幸せを手にすることには繋がらない。

だから、私が判断の全てを受け入れて、私が不安や恐れにエネルギーを投資することをやめて、幸せを選択しよう。そしてそれをみんなに届けよう。

そう思うことだと感じる。

 

この意識を持った人物は、カリスマ性を大きく持った人物なのではと感じる。

 

ただ、不都合な判断を受け入れるときというのは、恐れや不安に入り、

その不都合な判断を下した人物に対して、怒りや憎しみを吐き出し、

悲しさや寂しさを持って、判断をされる前に、私の感じていたこと、私の意図していたことを引き出していく必要がある。

 

そうして表れた、私の感じていたことはとても繊細で脆い。

判断されると簡単に、自己否定や罪悪感の方向性へと向かっていく。

つまり、その時に、その繊細な気持ちを自分が大切に扱うという覚悟が必要となる。

それは、実は感じていたことを抑圧することで人を愛していたということと、

引き出された私の感じていたことというのは、判断してきた人達に対して、絶対的な愛を持っていたということを、自分の中で受け入れること。

 

つまり、何がどうであれ、自分はその人のことを愛したいんだと。

その気持ちと繋がることが繊細な気持ちを守るのに必要である。

なぜなら、ただ感じたということには、自己愛と他者愛が含まれてるから。

ここはちょっとうまく言語化できない、

 

ただその真実と繋がらないと、感じていたことは受容に繋がらないはず。

そうすると、ただただ自分の幸せと愛が引き出てくるので、

そこからじゃあこの人達にこれを届けようと思える。

しかも、今度は判断された時の痛みや感覚を受容した上でそうできるので、

本当に相手の問題となっている部分を愛していけることに繋がる。

 

しかも、自己受容ができてるので、心が折れない。愛し続けられる。

と、個人的には思っている。

 

 

あとは、回りくどいことをせずに、ただ自分に良い言葉を送る。

人は行動するとき、自分の影響力を判断材料として行動したりする。

要は、過去に自分はその行動や発言で上手くいったのか?を気にする。

つまり上手くいかなかった、罪悪感として感じられてる部分は避ける傾向にある。 

 

なので、ただ自分に対して良い言葉を送ることが、結構効果ある。

良い言葉を送るときというのは、創造性の感覚と繋がってる。

要は、イメージのない空白性を今ここで作るということ。

 

もっと簡単に言えば、選択だけして、良い手段がくることを信頼すること。

別の言い方だと、ただ委ねるという感じになるのかな。

 

ただコツがあって、どれだけその言葉を言うときに、

頭の中で、空白を作れるかどうかが鍵となる。

要は頭を空っぽにできるかどうかが鍵となる。

この空白の時は、自分の奥に眠っている純粋な人への愛と繋がってる。

 

なぜかっていうと、人に対する純粋な愛を持ってる時は、大概迷いが生まれないので、空白の状態を選択するということは、

今ここにおいて、その純粋な愛と繋がるということ。

そうして、あとは、委ねるだけという選択になる。

あとは、勝手に無意識辺りがそれを現実としてくれるという形となる。

 

どちらを選択するのかは人の好みだとは思うけど、

どちらを選択するにしても障害となるのは確実にエゴのエネルギー。

許さないとか、やりたくないとか、受け入れたくないとか、

純粋な愛と繋がりたくないという気持ち。

 

だからオススメなのは、純粋な愛と繋がることを繰り返して、

エゴのエネルギーを論理的に理解していった上で、

純粋な愛のエネルギーはこれだなという実感を掴むことだけど、

それもまた1人でやるのはしんどいし苦しいし、

 

じゃあどうしたものかと思うと、これもようわからんし、

やっぱりそのエネルギーを知っている人と繋がるのが、あくまで今は

最短かなぁと感じる。

 

 

という感じですかね、今回はなんか孤独と分離エネルギー多めで書いた気がするから、ここはまた修正していきたいなと。

孤独と抽象性はやはり比例するなと感じる。

 

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

投影を変えるとは。

基本的に、人は様々なものを相手に投影します。

投影とは、自分の中の抑圧された無価値観や罪悪感を通して、

相手を見るということです。

 

具体的には、自分が1人で楽しむことに許可を出せない時、

1人で楽しめない相手を見て、

そいつは楽しむことができないと判断をし、

その人に対して不快な印象を持つということです。

 

 

この投影という考え方は、自らの人生を、

主体的に生きるために、とても大事な考え方だと思っています。

 

誰かに対し、楽しめない人だという判断を行うとき、

それは、自らも主体的には楽しむことができない、

という、依存的な立場を取っていることになります。

 

なぜなら、楽しいという感情の選び方が、相手次第だからです。

だから、私のことをどう楽しませたくれるの?

という発想になりがちになってしまいます。

 

そうすると、自分が楽しませる側に回ったとき、

非常に苦しくなってくると思います。

 

 

自分が楽しみ方を相手に求めていただけ、

自分が楽しませる側に回る時に、

相手が楽しんでくれないのではないか、という思いを持ちがちになります。

 

つまり、人は主体的に楽しいと感じることを選択するではなく、

人によって楽しいと感じることを選択する、

といった見方をすることになるわけです。

 

 

さて、ではこのパターンをどう変えていきましょうか。

一つは、人が楽しませてくれたことを受け取っていくことです。

 

心の底から楽しいと思ってなくても良いんです、

ただ心の中で一回でも良いから、楽しいって言ってみる。

 

そうすると、今までのパターンが変化します。

 

楽しいという一言により、何が楽しいか見つけるようになります。

 

もう一つは、楽しい楽しいと心の中で言い続けることです。

最終的には楽しませる側の時の、不安や怖さを感じなければ、

勝手に楽しむことはできるはずです。

 

なので、誰かがネガテイブな発言をした時、

すごく緊張で真面目な発言をしていた時、

自分の中で何を感じるのかに目を向けて、

もし不快感に似たような感覚を感じるのなら、

その不快感が求めてる言葉を相手に言ってあげるのです。

 

例えば、お前がいるだけで俺は楽しい。

お前の声を聞けるだけで俺は嬉しいし最高に幸せなんだ。

 

とにかくコツは、自分が言って欲しいことを、

心の中でも相手に言ってあげることです。

 

そこで幸せや楽しいなどを感じれば成功です。

その瞬間からイメージは変わり、

緊張していようがネガテイブな発言をしていようが、

楽しいもん楽しいし幸せなもんは幸せだ、という考え方になります。

 

すると、自らが何かを話すとき、

俺は何を話しても人は楽しいと幸せと感じるはずだ、

といった見方で人を見ることができるんですよね。

 

そうすると、きっと、みんな楽しんでくれると思います。

楽しい人に目を向けられれば、楽しいですからね。

 

今回もお読みいただかありがとうございました。

エネルギーという感覚。

僕は、なんとなくエネルギーを取り込みやすい性質な気がしてる。

相手の底に秘めた感覚を、心と体で感じることが多い。

 

だから、人と仲良くなるのには結構時間がかかる。

相手のエネルギーを感じると、

このエネルギーに合わせないと、という意識がよく先行するため、

一気に緊張度が高まることが多い。

 

特に、何かしらの責任が生じる、制限のある場ではそうなりやすい。

人の、しなければならないというエネルギーは本当によく感じる。

 

だいたい、それを感じたときというのは、めっちゃしんどい。

心の中で、相手のそうしなければならない、

という気持ちが本当に伝わってくる。

 

具体的には、今からこれを言おうとしてるのだろうなとか、

今からこれをしようとしてるのだろうな、というのが伝わってくる。

それは表情や体のわずかな動き、目などから感じ取っているはず。

 

 

いつも人と話したりするときというのは、相手の感覚と

チューニングすることを意識しているのだが、

場が広い時だと、様々な人のエネルギーを取り込み、

そんなことしなければならないなんて無理、

といったような感覚も取り込むため、

チューニングすることに非常に罪悪感を感じる。

 

そうすると、大概顔が顔が引きつるのと、笑顔がぎこちなくなる。

また、言葉が全くをもってでてこなくなり、

誰かと話すのが本当に本当にめんどくさくなってくる。

 

ただ、大体こうして取り込んだエネルギーは、

自分の中の未消化となっている感情である可能性が高い。

大抵、自分の中の未消化の感情を癒していくこと、

もしくは、感覚を引き上げることで、

そこに対して愛や持つことが可能となり、

罪悪感を抱かなくなることが多い。

 

しかし、そうは言っても取り込むからめんどくさい。

人が、不足感を軸にして意思決定を行えば、

それは目線の固定や、視野として取り込む場所の制限として、

現れることが多い。

 

大体それを見ると、必死に頑張ってるけども、

これで良いのかなといった不安を感じてることが伝わってくる。

そうすると、僕が主体的に動くことができなくなる。

僕が相手が見えてなかった部分から答えを導いて、 

それによって、相手はきっと罪悪感と無価値観を感じるだろうなと。

 

そう思うと、何も言えないし、

答えは知っていても、何もやらなくなること、

何も言わなくなることが非常に多い。

だから、主体的に動くということは本当に嫌いだと感じる。

ここは、おそらくというか、間違いなく、

未消化の感情からの投影だろうけど。

 

だから、やらないとか、しないとか、

そうした意思決定を持ってる人の近くは非常に楽だと感じる。

何もやらなくて良いと感じる。

この場では、そういった対応もありかと感じられる。

そうすると、ただ感覚のままにアドバイスしている自分を感じる。

 

おそらく、自分の中の投影が変わったからだろうけど。

そう思うと、自分の中の未消化の感情が多い故に、

そうした選択になっているのかなと、非常に感じられる。

 

だから選択肢にもっと許可を出すことで、これを打破する必要が、

あるなという風に感じられる。

 

あとは、だから人のどんな部分でも、

受け止めようと思うのかなと感じる。

 

自分が楽さを作り出すには、相手のその縛られた観念を、

解いてあげることが大事だろうなと感じていて、

自由になって、飛び立ってくださいと願ってるのかなと感じる。

だから自由のような、意思決定を自らが主体となって選択するような人が、

好きだったりするのだろうなという風に感じられる。

 

つまり、この相手の自由さに好きを抱いて、

自分の自由さに許可を出さないパターンというのは、

自分の中にある様々な縛られたような感覚を癒していかないと、

変わることのないものだと感じる。

 

おそらくこのパターンを変えないと、彼女ができたときに、

そんなに自由にして俺のことを愛してないのか?といったような、

俺は自由でないし、俺が自由を許可してるのに、なぜ君は、

俺の君に対する気持ちをわからない?とおった形の、

攻撃心に変わることは強く感じる。

思いのままに。

人は形であり姿であり私であると、すごく感じた。

人が過去を語るときは形を帯びるし、

未来を語るときは姿を表すし、

感情を素直に表現するときは、私を表す。

 

ただただその人であるということは、

こういった言葉が、時間軸を超えて、

様々な形で、ただただ事実となるのだと感じた。

 

それは、凄く難しいことのように思う。

どれだけ本気でも、どれだけ全力でも、

怖いし不安だし恐れるし諦めたくもなる。

 

過去を語るとき、人は形となるが、

話してる本人が肯定できてないとき、

また過去を隠しているときは、それは形とならない。

未来に関しても、同じ。

語らなければ、姿にはならない。しかし、語ると姿になると思う。

 

 

言葉は本当に不思議なもので、様々な性質を帯びる。

なりたいは、なぜか姿にさせる不思議な力がある。

夢を語れば、なぜかそれが叶うようになる。

 

でも思うのは、言葉に様々な性質を帯びさせることは難しいということ。

過去を語り、それを肯定という形で完了させることは、

中々難しいということ。

 

 

 

 

大概、なりたい姿というのは、弱い部分、隠していた部分から、

現れてくることが多いようには感じる。

けれども、そうした部分を表現する機会に恵まれない。

 

でも、そこを肯定した先に、初めて、本気というか、

自分らしさや自分の明確に進みたい道がでるのかなと感じる。