親密感と幸せが土台。
今日思ったのは、言葉や行動というのは、親密感と幸せが土台になってるなと。
僕の場合、父親との関係性で親密感という感覚が、誰かを貶す、バカにするといったような形で出来上がっている。だから仲が良いなと感じる人や、仲良くなりたいなと感じる人に対しては、無意識にバカにするような言葉が浮かんでくる。
本気でバカにしてるつもりとかはなくて、ただ自分にとっては、それが幸せで親密な感覚だったからこそ、そういった言葉が浮かんでくる。
しかしここには問題があって、この僕にとっての親密感という感覚は、
他の人にとっては、多く親密な感覚ではないということ。
つまり、僕が親密感のままに言葉を発すると、人は傷ついたり嫌がったりする可能性が非常に高いということ。
そうして僕の場合は、その言葉を発したことで傷ついたことがたくさんあった故に、今の自分の性格というものが出来上がっているのだろうなと感じる。
この親密感は、人の話を最後まで聞かないし、自分の話しかしない。
人が話せば途中で遮って、こうでしょ?と判断したり。
途中途中の言葉に、バカにするような言葉や後ろ向きな言葉を言ったり。
とかく、未来に対しての、絶望とか自信の無さとか自己嫌悪とかが多くベースとなっている親密感なので、人が聞くと嫌だなと感じる言葉が多くなる。
だからこその、人の話はちゃんと聞かなければと思ったり。
また、あまり口数は多くせずに、余計なことは言わないようにしようとか。
話の中であまりネガティヴなことは言わずにしようとか。
そうしたような、心持ちや姿勢を創り出したりしているはず。
ただこの姿勢、相手からするとどうなのかなという感覚がある。
僕が人との親密の度合いを、この昔形成された親密感から判断するように、
人も、大抵こうした自分の親密感を通して親密度を測るはず。
そうすると、あまり口数が少ないというのはどうだろうか。
相手からのこういった人なんだなという理解が入るまでは、
ここにこう言ってくれないんだな?とか、
こうした反応をしてくれないんだな?とか、そうした印象を抱かせるはず。
まあそれは良いとして。
大概、相手と話していると罪悪感を感じることが多くなる時がある。
それは、相手の話を聞いてると、自分の中の抑圧された感覚が引き出されるからだと思ってる。
大抵、そこで感じた言葉を話すことが、相手との親密な関係性を作るにあたって必要なはずなのだが、罪悪感を感じるのでいつも難しくなる。
そうして、大抵、罪悪感をきっかけにして、孤独感や自己嫌悪を感じるなと思う。
これなんでなのかなぁと感じた時に、思ったのは、親との間で責められた部分は今だに自分の中で抑圧されたまま残っているからだなと感じた。
だからそこで、抑圧された感覚を使うことは責められるように感じる。
また、怒られら所なのにしようとすることで罪悪感を感じる形になる。
しかし、相手が言って欲しそうなこと、これを言ったら親密になれるよなという幸せな感覚が目の前にあるとわかるだけに、それができない自分に二重の罪悪感を感じ、同時に俺はもうできないんだという絶望にハマり、孤独感に入るのだなと。
そうして気付いたのが、人は幸せを土台にして語るなということ。
自分が、この罪悪感と近い距離にいるとき、大概言葉が出てこないし、出てきたとしてもこんなことを自分が言うのは、という感覚にハマったりする。
しかし、幸せが土台にある時は、言葉がスイスイ出てくる。
他の方が幸せそうな話をした時に、ただただ感じてイメージを膨らませる。
すると、勝手に言葉は出てくるし、幸せと幸せで繋がりを感じてるからなのか、罪悪感も特になく、楽しみながら語っている自分が居ることに気付いた。
そう思うと、つまり、自分の中での幸せや親密感の感覚を増やせば増やすほど、話しのパターンは増えるだろうし、より深みのある話もしていけるはず。
ともう一つ、この関連で思ったのだが、幸せや親密感をその場で感じてる時というのは、こうかもしれないけどこうだよね、という感覚が入ってる気がした。
誰かの愛を受け取る時、抵抗が入るのだけど、それでも受け取ると、
こうかもしれないけど、こう見てくれている、だから幸せ。
だから繋がっている、みたいなことを感じたような気がした。
だからこの観点から見ると、弱さとは親密感や幸せを作る道具だなと。
あとは、昨日気付いた、自分1人でもうやらないということ。
何やるにしても、自分でやるが土台になっていたなぁと。
行動として自分1人でやるのは構わないけど、心の中で自分1人でやるということは、傷ついたもう傷つきたくないから1人でやる、と視野を制限する選択。
これだと、確実に精神は疲弊する。
だから、1人でやらない視点はすごく大事だなと。
この視点が、ハートブレイクを癒す鍵になるなぁと感じた。
あとは、相手がこう思ってると決めつけないこと。
この心持ちは傷ついてる時はしたくなるけど、この決めつけをすると、
傷を抑える形となり、いつまで経っても深い感情に入らないなと。
ずっとずっと、さっきの罪悪感の層に居てしまうなと感じた。
だからこうやって思うと、幸せと親密感の感覚をひたすら描くこと。
これはもう、繰り返しだろうな。そこで必ず罪悪感を感じるはず。
ただそれはパターンだと理解していれば、何とかなっていくはず。
言葉も行動も罪悪感を避けてするはずなので、幸せや親密感を通して、罪悪感の正体を対比の関係性で見つめられるようになれば、手放しやすくもなるだろうし。
同時に、自分の才能というのも罪悪感が癒されることで、たくさん入ってくるはず。そうするともっと出来る幅や考える幅も広がると思う。
とりあえず願えば叶うから書き出そう。
・幸せで望む将来から逆算して、記事を書いていく。
ロマンチックなところに行きたいのなら、それ関連の記事を書く。
・なりたい姿から逆算して記事を書く。
同じようだけど、ダンディな男性になりたいのなら、ダンディな男性がやってることを記事にしてみたりとか。
ともかく、理想から語ることを意識して、記事を書いていくことかなぁ。
ちょっと不安だけど、楽しみかなぁ。やってみよう。