愚痴や文句って才能として使えるな。なる。
ふとお風呂に入りながら思ったのだけど、怒り、愚痴、文句、批判、見下す、バカにする等々の感覚というのは、才能として使えるなと感じた。
僕はこれらの感覚はめっちゃ嫌ってた。
良い子のパターンがあるので、どうしてもこの感覚を使うのに抵抗があった。
そんなこと言っちゃダメだよ〜とか。
そんなこと言うなんて最低だし、人としてどうなんだよみたいな感覚を持ってた。
だから、文句とか愚痴とかを聞くとめっちゃ嫌な気分になることが多かった。
その度に、それすらも許容できない俺最低だなぁとか。
これ完全に投影なんだよなぁ、俺が愚痴とか文句を潜在的に持ってて、でも抑圧してるからこそ感じるんだよなぁ、とか思ってた。
でさっき、この感覚って使えるなってピンときた。
そもそもで愚痴を吐いたり文句を言ったり怒りを表現したりするには、
前提として自分の何かを少しでもよく見てないと、口に出すことはできない。
愚痴とすると、僕の場合なら、すぐに機嫌が悪くなる自分を許容できてないので、本当にすぐに機嫌悪くなるやつって最低だよなぁ、こっちは何もしてねぇってのに、こっちの気分が悪くなるわ。と感じたりする。
そして、このとき、この愚痴というのは、すぐに機嫌が悪くなる自分を感じていたら、吐き出すことができない。
何故なら、すぐに機嫌が悪くなる自分が、すぐに機嫌が悪くなる人の愚痴を吐いていたとしたら、共感してもらえないし、自分の辛さを分かってもらえないから。
そしてこのとき、自分はすぐに機嫌が悪くなる人物ではないという形で、自分に対してプラスのイメージというのを持つことができている。
つまり、愚痴を吐けるということは、自分はそんな人じゃないという、肯定を自分に対してできている状態。
他の文句や怒りに関しても同じかなぁと。
俺はこんなことしてるのに!と言った自らに対しての正当性や正しさといったような感覚がないと、相手が悪い、俺は正しいといった主張ができない。
しかし、このとき、自分は正しいといった形なのかもしれないけど、俺はこうしたことをしてるし、こうしたことをできていると肯定ができている。
だから、こうした誰かを責めたり、誰かを傷つける可能性のある言葉や行動というのは、見方を少し変えると、自分に対する肯定無くしては成り立たないなと。
ただ言われた方は、良い気持ちはしないと思う。
言われた方が、そういった言葉で引き出される感覚は、肯定できてない時の自分である場合が多い。
何故なら、相手は自分の肯定を軸にして話をしているのだが、物事が一面的に語られることなどない以上、肯定があれば同時に否定も引き出される。
要は、否定無くして肯定もないし、肯定なくして否定もないのだから、肯定だけ語られれば否定はどこにいったの?という意識が生まれ、言われた方は、その否定の部分を自らの自己否定していた時を通して理解する。だから不快感を感じる。
と同時に、愚痴とか怒りというのは危険性も含んでいる。
こうした言葉や行動というのは、自分に対する正しさや正当性といった前提を持って、展開されてることが多いと思うので、そうした前提が通用しない世界においては、脆く崩れさってしまう可能性がある。エリートは崩れやすいみたいな感覚。
状態や状況が違えば、自らも同じことをしてしまう可能性がある以上、ある意味で、正しさや正当性だけを主軸に行動などをしていくのは、その人にとっては、辛い現実になる可能性もあるのだろうなと。
だいたい、その正しさを持たざるを得なかった、悲しい寂しい体験の時に感じた感情と同じよう感情に行き着く可能性が多いんだと思う。
ただそうだとしても愚痴等々を吐くのはやっぱ必要だなぁと感じる。
持っていけないわけではなく、そもそもで持たないのは無理だと思う。
だからここでは、発想を転換できたらなと感じる。
言われた方の気持ちと、正しさなどからくる肯定のリスクを理解してない時というのは、愚痴や怒りを吐くことだけで満足したり、それを主軸にして行動してしまう可能性があると思う。
しかし、こういった二つの部分を理解すると、なるべく愚痴を吐いたり、怒ったりすることはやめていこうといった形に意識はシフトしていくはず。
自分と相手の幸せを強く望む人程、こう感じる傾向は強い気もする。
ただ、僕の場合だとすごく極端になってたよなと感じた。
人の気持ちと正しさからくる表現のリスクだけに目を取られ、愚痴や怒りの感覚のメリットに目を向けてなかった。
表現したりしてしまうと、確かに、あまり良くない現実が展開されるかもしれない。
でも抑圧しすぎると、正しさ等々からくる自己に対する肯定の感覚まで失うことになる。そうすると、中々自分に対する肯定感が引きあがらなくなる。
だから、感じることまで否定してしまうと、逆に本末転倒になると。
でそうやって、怒りとか愚痴の肯定感といったメリットに目を向けられると、誰かの愛を受け取る時に感じていた違和感に目が向いていくなと感じる。
受け取る時に感じている違和感というのは、僕の場合は、大抵、下に見られてるのかな?これをできない人と思われてるのかな?とか。あとは、俺なんかがこんなこと言われるのに相応しくないと感じてる感覚だったりする。
しかし、ここで愚痴などの肯定感のメリットを知っていると、
下に見られてると感じるということは、俺本当は、こんなことできてるんだぜ!って言いたいんだっていう視点に切り替えられるし。
俺なんかがこんなことを言われるのに相応しくないという感覚は、こんなことをしてしまっている自分は責められるといったような感じで、誰かに否定されたりして、誰かの肯定のエネルギーに潰された時があるんだなの視点に変えられる。
そうすると、自然と、俺は本当はこれだけの価値があったんだなぁとか、俺こういったことができていたんだなぁという肯定感へと変わっていくはず。
この肯定感だと、なんかあったかいし誰かに優しくしたくなる感覚がある。
そうしてここに入ると、人に対して与えていこうとか思えそうだなと感じた。
おそらく、受け取れない時の感情や、またそういったことを感じている時の攻撃性などに対する理解などが深まったために、落ち着きがでるからなのと。
あとは、受け入れない時があるだけではなく、愚痴とか文句とか怒りすらも未来の幸せに繋がる希望であり才能である、というのが自分の経験を通して実感できるはずなので、投影が変わり、不快に思われても良いや、それが相手のためになるならといったような感覚に変わっていったらとかしていく感じになるはず。
と同時に、そんなに与え方も独りよがりにならなさそうな気がする。
怒りや悲しみやまた愚痴などを受容できる形になるとは思うので、そこに対する配慮も一つの与え方だよねと自分を肯定できる感じに繋がる気がする。
ここはまだようーわからんけど。あんま悪くない感じになる気がする。
とりあえず、良かったかなぁ、今すごく自信を感じてる。無敵って感じ。
あ、何思われてもよかったんやんみたいな、とかく、自分の愚痴とか怒りとか嫌な部分に目をつければよかったんだなぁと、なんか幸せだなぁという感覚。
またこの感覚を通すと適当なことを言えたり、笑いやユーモアの方にも視点が向いて、自然と楽しいが増えるような感じになる気がする。
自分のペース、休むという感覚。
最近、僕は本当に楽しみにしていたことの直前になって、体調を崩したり、精神的な調子を崩したりしてしまうことが多い。
そうして、いつも直前になってキャンセルをするということがある。
ここ1ヶ月ほどで、それが二回ほどある。今日も二つキャンセルした。
なので、絶賛、絶不調である。
ただパターンが見つかったし、書き記しておきたいなと思う。
僕は、昔から、いや特に最近傾向として強いなと思うのだが、人に自分のために時間を使わせるということに、非常に非常に罪悪感というのを感じる。
少しでも、自分のために時間を使わせるという形で迷惑をかけたくないと思う。
だから、あまり人を頼りたくないし、人に弱みも見せたくない。
頼った時や弱みを見せたとき、人はそこに対して愛を持って接してくれる。
でも、その時に、少しでも時間を使わせるのが嫌だなと感じてしまう。
必ずそこで見せる弱さというのは、自分が様々な手段を用いることをすれば、解決できることがほどである。心のパターンが、問題でその弱さが生まれてくるのであれば、心のパターンを自分で治せば、その弱さは受容され、選択肢として人に頼ると違うものが生まれてくるから。
といってもこの自立的な思考パターンだと、問題が生じる。
非常に打たれ弱くなってしまうし、人と会うのが億劫になってくる。
時間を使わせたくないという意識を持つということは、人がもし自分に期待を持って接してきたとしたら、その期待に応えようと常に思うということ。
それは責任感というものであり、非常に大切なものであるが、誰に対してもこの責任を果たそうとすれば、当然心は潰れる。僕の場合は、父の遺伝だと感じるが、この責任のパターンというのは非常に強く持っている。
また、この時、どういった思考が生じるのかというと、
人が僕と話して僕と関わって良いものが得られたのか?楽しかったのか?
そういったものを、人によっては気にする形になることがある。
僕の場合はこの傾向が強い。
だから、少しでも不快にさせたしまう、少しでも機嫌悪くさせてしまう。
そう感じてしまうと、一気に罪悪感の海に思考が沈みそうになる。
これはもう、幼き頃からのパターンなので、パターンを変えるまでは仕方がない。
そのため、キャンセルなどをするときに、どのような思考が形成されるかというと、本当はキャンセルせずに参加していれば、問題なかったはずだ。
別に体調が悪くても、相当悪くなければ、普通に楽しさは作り出せるし、実りのある体験にすることはできるだろうと。
といったように、まず人が喜ぶかどうかを最初に考えて、そこで喜ばないとしたらなんて俺はダメなんだ、という思考になっていく。つまり、少しでも人が喜ばないようなイメージを避けようとするため、自分のペースが形成されなくなる。
だから、人と会話するのも人と会うのも非常に苦手だし怖いのだろうなと。
特に二回目からは嫌だと感じる。前印象が残る以上、次からは接してくる距離感や話す話題というのが変わってくる。そこで、こうすれば良いんだろうなというのが感覚的にわかる以上、それができない自分が申し訳なくなってくる。
そうして、自分の場合、この誰に対しても良い顔をしようというような、八方美人的な責任感というのが、直前でのキャンセルのパターンを作ってるなと感じる。
大概、この直前になって感じる感情は楽しみである以上に、行きたくないと感じる。それは、誰かが自分に寄せてくる期待、君はこうだよねとか。君はこういったことをできるよねとか。そうした期待を考えると嫌になってくるのだろうなと。
だから、体調や精神の不調を作り出して、行けない理由を作り出すのかなと感じた。
ただそうはいってもキャンセルをしたこと、また体調不良でキャンセルしたのにこうしブログを書くことに、申し訳なさを感じる自分もいる。
それがバレたらどうしようとか、どう説明しようとか。時間を煩わせ、僕のために労力や愛を使わせたというのに、自分はこの頽落か、といったような感覚がある。
まあ、これはパターンだからしょうがないとは思うが、このパターンを持っているうちは、自分に休むことを許可を出せず。
また休むことに許可を出せないということは、誰かのために動き続けるということなので、自分らしさが欠けるだけではなく、自然な笑いや楽しさも減るはず。
だからここで求められるのは、如何に休むことを許可できるのかということ。
それは同時に、誰かに迷惑をかけたり、時間を使わせる自分になること。
誰かに自分を愛させることでもあるのかな、信頼することでもあるか。
休みを許容しないときというのは、焦りの感覚も同時に感じている。
自分はこんなんで良いのか?これではまた同じ繰り返しをするのでは?また他人にこう言われるよ?と、罪悪感の層にハマり、焦りの感覚を感じている。
しかし、この時の思考の主軸というのは、他人となっている。
だから、この焦りというのは、自分をさらに苦しめる方向に向かあわせる。
つまりこの時に、1.3.5.10年後の自分を見越して、今どういう選択をするか?と思うことができるのかが重要となってくる。
先の未来を見越して選択するということは、自分に対する信頼と肯定がなければできるものではない。今多少の失敗や迷惑をかけたとしても、自分はこうなれるから、今は自分のことを大切にしようと思えるかどうかとなる。
もちろん、その上で、他人軸の時に生じる罪悪感をちゃんと感じて、他者に配慮ができたら、尚、良いよなと感じられる。
相手の誘ってくれた気持ち、主催してくれた気持ち。
また他の作業よりも自分のことを優先してくれたこと、時間を使ってくれたこと。
少しでも、相手がより良いものを感じられるような選択が同時にできるかどうか。
誘ってくれて嬉しかったよとか。ごめんね、でも本当はすごく行きたかったとか。
相手の誘ってくれた好意に、ちゃんと嬉しかったよって形で受け取るとか。
良い時間を過ごせるよう祈ってます。楽しいものになると良いですね、など。
相手が感じた残念だなぁとか、キャンセルされると色々やることあるんだよなぁという気持ちに対して、少しでも活力や、やる気を与えたり。
自分の至らなさで時間を使わせるのだから、少しでも、参加する人や主催する人を勇気づけるような前向きになるような言葉をかけたりとか。
そこまでする必要はあるのかなぁとか、実際のところどう感じられるのか。
というのは、僕もまだ愛を受け取ってないからよくわからないけど、でもミスしたりして罪悪感を感じた時の対処法としては、一つありなのかなと感じる。
そうした上で、主軸が何年か後の自分であれば、きっと、相手の期待に強く答えようとはしないはず。なぜならば、自分が輝いていて、そしてその輝いてる姿を相手が見て、喜び幸せを感じてくれるのが確信できるだろうから。
こうやって思うと幸せを感じるんだよなぁ。
あとはアドバイスとか、人が作ったルールとかに従うということに対する拒否感拒絶感がどうなるかだよなぁと。こかも多分、自分の場合は母との癒着からくる、拒否感だったりさるんだろうけど。
男として。
男として本当にしたいことは何なのかなと。
やっぱり仕事とか社会的な成功とか、社会で何か目ぼしい結果を出すことなのかなという風に感じたりする。
ただ自分は注射や手術などが怖いと感じるのだけど、この怖いは、僕の場合は失敗するんじゃないかとか。失敗して自分はとんでもない目にあうのでは、という気持ちから生じている怖さ。
そうしてその怖さを感じてる時、手術したり注射したりする人はどれだけ経験があったり、どれだけ練習をしたりしていたとしても、失敗する人だというイメージを自分が貼り付けているので。
投影の法則により、自分にもこのイメージは適用され、自分はどれだけ経験しても練習しても、失敗してとんでもないことを起こしてしまう。という感覚に繋がる。
だから自信のなさや完璧にしなければという意識が生まれるだけではなく、自分という存在はとんでもない失敗をしてしまうと感じている以上、何をするにしても怖いという感情が生じてしまう。
だからどれだけやっても自分のことを認められないだけじゃなく。
その恐れからくるイメージが現実にならないように、現実になりそうなことは避けるようになるので、仕事とかお金を稼ぐ手段も限られてきてしまう。
そうなると、社会的な成功であったりは明らかに遠のいていくはず。
だからこう考えると、リスクがあったり、また傷つくとしても、人に積極的に頼りまくるという感覚は、自分が社会的に成功するには必要なんだなと感じる。
ただここまで書いて思うのは、じゃあ本当に欲しいものは何?ということ。
自分らしくいたいと願うかな、これをしたらこう思われるんじゃないか?自分はこんなとんでもないことをしてしまうんじゃないか?といったような罪悪感や恐れを感じることなく、自分を全身全霊で表現していきたいんだなと感じる。
それは今の自分にとってはできるわけがなく、そんなの実現不可能だと思うことではあるが、同時に思うのは、もし他者の理解や共感を得られて、そうした自分らしい未来を作れたとしたら、どれほど幸せでどれほど楽しいものなのかなと感じる。
そこに、自分の本当の幸せ、社会で成功したい意味があるかも。
つまりここでの社会で成功したいという欲求は、社会で成功している自分ならば、罪悪感のしがらみを超えて、自分らしくいるだろうという期待から生じてるのかな。
そう思うと、本当に欲しいものは?と言われると、自分らしさを全身全霊で表現することができる、社会というものが欲しい。個性と個性がぶつかり合うけれども、決してそれは悪いものではなく。互いが互いを認め尊重し合い、その上で自分の全てを引き出して、それを様々な形で表現ないしは、問題を解決していくこと。
そうして、色々な人が自分らしくいられたとしたら幸せだなと。
自分らしくいられない今は、自分らしくいられる人を見ると、なんでこの人だけという嫉妬の気持ちや、この人はできたけどどうせ俺なんか無理だという自信のなさを感じたりとかするけども。
実際のところとしては、自分が自分らしく入られて、そういう風になれたとしたら、他の人にも自分らしくいて欲しいなという気持ちが幸せとともにあるのかな。
そう考えると、本当は自分らしくいたいからこそ嫉妬や自信のなさを感じるのだろうし、それだけではなくその自信のなさや嫉妬は、まだ自分らしくいられてない人を見つけるものになるだけではなく。
同時に幸せへと繋がる感覚でもあるのかなと感じた。ここは少し強引か。
その上で、本当にしたいことは?と問われると、人のミスや失敗を許したい。その上で人の頑張りや努力をまずは認めて、その人にもっともっと自由に、自分らしく生きていって良いんだよという気付きを与えたい。
ただそのためには、僕がどんなしがらみやどんな困難があるところでも、自分らしくいるにはこうしたら、こうであれば良いんだよというのを、体験として知って示していく必要というのがあると思う。
だから本当にしたいこととは、深い闇の中でも、自分らしく生きていけるような力が欲しいかな、これがあれば様々な人を助けられるし、幸せへと導けるから。
だからこそ、今、自分の心と向き合ってるっていうのもあるのだろうか。
そうすると、闇そのものが才能であるというか、避けがちになるところであるが、そこを避けずに突っ込んで花がひらけば、そこそのものがリーダーシップになるはず。
あ、さあ考えると、闇に突っ込むというのは悪くないのと、リーダーシップ形成という力になるのか。
この闇に突っ込むことで、多くの人に自分らしさや幸せを与えられるということを考えると、世の中にある闇の多くや自分の心の中にある闇に突っ込むことに意味が生まれるだけではなく、多くの人を幸せにしていける才能の部分なので、闇が深いこと、そのものは才能になるし、またそこに逃げないことも才能になりうるはず。
とするならば、闇は楽しいもの、という部分まで発展して良いのかな。
これはちょっと無理があるような、強引さがあるような気もする。
でもむしろそう考えると、闇に入れば入るほど、光のイメージや感覚は増えるだろうし、そうすると多くの人の幸せの姿やイメージが浮かぶだろうから、多くの人の力になっていけるだろうし。同時に、多くの幸せを感じられるはず。また人に対して与える手段というのが本当に大きくなるはず。
やっぱり、闇そのものは与えるための才能か。愛の才能か。
としたら、楽しみかな。闇があればあるほど、大きな幸せに繋がるため、その人の将来は楽しみなものである。この視点からは人に対する絶対的な信頼と安心を与えるような形に向いていくはず。だから、良い感じになってる気もする。
よーし。良い感じかなぁ。楽しみであると同時に、まだ不安もあるけど、幸せのイメージや感覚が見えたから、あとはこれを欲していくだけかな。欲しいと願う。
本当に欲しいもの。
本当にしたいことって書いてパッと思い浮かぶのは、パートナーシップ。
自分でも直感でこれが出てきて驚いてるけど。まだ先だと思ってた。
許しが欲しいというのもあるのかな、親密な関係性になら許しがあるかもと感じてるのはあるのかもしれない。その許しの先にある、幸せと親密感を求めてる。
だからそう考えると許されたいという願望があって、でもそれは自分1人ではできないから、誰かに許してもらいたいと思ってるのかなと感じた。
でも結局のところ欲しいのは親密感とまたそこからくる幸せなんだろうなぁと。
ただ罪悪感がかなり残ってるので、それはまだ望めないと思ってるのかも。
じゃあ、その抱えてる罪悪感が全て許されたとしたら何が欲しいだろう。
パッと思い浮かぶのは、好きな人と付き合うこと。
そっか、こっから恋愛の方向に進んでいくのか、具体的なイメージ等々を描いたりとかできる方向性へ。
カフェ巡りとかも楽しそうに感じる。
おしゃれなカフェで一息ついたり、たわいもない話をしたり。
あとは、なんか、おしゃれなカフェという雰囲気が良いのかな。
なんとなく、ここに行っている自分のイメージはすごくおしゃれになっていて、ダンディになっていてって感じだから、本当に欲しいものはこっちかな。
じゃあ、すごくおしゃれでダンディな男になったとしたら何が欲しいだろうか?
パッと思い浮かぶのは、ロマンチックな関係性。
ここで初めてロマンチックな部分に入るということは、今の自分だと自分なんてという感情が多いからこそ、本当に欲しいもの、本当に感じたいものを感じたいと、心の底から望まないという感じなのかな。
ただその関係性のイメージとして、パッと浮かぶのは美女と野獣かダンスホールでダンスを踊ってるようなイメージ。
ということは、何か亀裂等々が生まれた後に、そこで愛し愛されるという形で互いに通じ合う経験をし、その喜びを元にしてお互いに見つめ合いながら何かを表現するみたいな感覚や感情というのを自分は感じたいってことかな。
この感覚や感情はただ自分に思ってもみなかったような幸せを感じさせてくれる。というか、幸せだけでは表現がつかないような、天国のような感覚。
だから、自分らしくいたいとか、自分をもっともっと許し愛したいと願ったのかなと。こうした感覚は、絶望とか闇とか孤独とか、そういったどうしても感じたくないような感情を感じて、そうしてそういった感情を感じきって乗り越えることができて、初めて感じることができるような感情だろうから。
そういった感情が繋がりや幸せの密度を濃くさせて、そうして濃くなった繋がりは大きな親密感や今のままで良いんだといったような感覚を大きく作り出させ、そうした肯定感は天と繋がりを持ち、新たな創造性や物事の見方を作り出すことをする、だからこそ、天国といったような表現になるのだろうか。
要はその、絶望や闇や孤独を癒したことで生まれる、親密感や大きな繋がりというものが欲しいと自分は願っているのかも。ただそれを手にするには自分は値しないと思っているために、ダンデイな男性になろうとかロマンチックな人になろうとか、そういった部分を身につけていこうという発想になってるのかなと感じた。
しかし、この理想というか、本当に欲しいと願っているこの感情から作られる視点というのは、弱さや絶望とか孤独といったどうしようもない感情は全て、この感情を感じるためにあるという視点を持てるということ。
つまりこの角度から見ると、弱さや絶望や孤独感といったようなものを感じれることが、そもそもで才能になるということなのだと思う。
だから、最近おかしかったのか。
なんか、変に受け取ることを意識してるよなぁとか、相手の愛をどう受け取ろうかばかり考えてるなぁとか、そういった考え方を提供してくれるところばっかりに目がいったりしていたなぁと思ったけど。
相手の愛を通して自分の孤独感とか絶望とかを心の中で差し出して、そこから求めていた感情というのを感じようとしていたのかなと思った。ただ受け取ったとしても違和感があったり、何かこれは違うなぁといったような不満を感じていたのは、自分がまだあの感覚を感じるに値しない存在だと思ってたからか。
でもそう思うと、意外と身近にこうした感覚はあるというか、自分の絶望とか孤独とかをしっかり感じて、傷つくかもしれないけど差し出していく覚悟を持つことで、それを感じられる機会は増えるのかな。
でも恐らくだけど、相手もそうした感情を感じれたり差し出せたりする人じゃないと、エネルギーはぶつかり合い、許しや癒しに向かわないだろうから、相手はそういった、与え受け取れるような人になるという形なのかな。
よし、じゃあそうした感覚と感情というのをただただ欲しいと望もう。
ただただ望めば叶うし、そっちに意識が向いていくから。
楽しみだなぁ。書いている間、ずっとずっと最高の幸せを感じてた。
こんな素敵な感情を感じれることにただただ感謝だな。
大きな闇は光への希望。
・自臭症や精神的な疾患で悩んでいる人が、それに悩まなくなったとしたらどう感じるだろう。すっごい、幸せに思う。今までの絶望が大きかっただけに、そこで手にできる自分らしさというのは輝きに満ちている。
それをその姿を想像するだけで、最高の幸せに包まれる気がする。
今まで散々苦しい気持ちをしていただろうけど、よかったねって。
ずっとずっと自分らしくいられなくて悩み続けてきた苦しみがあったからこその今だろうし、そこで輝いてる姿が、人の可能性と人の希望を感じさせる。
人によっては自臭症は食べたいものも食べられない、飲みたいものも飲めない、話したいことも話せない、やりたいこともできない、といったような風になる。
でももしその人達が、そのできなかったという悩みを克服し、できるようになったとしたらどれだけの幸せとどれだけの喜びを感じるのだろうか。
自分は本当に生きていてよかったな、といった風に思うかもしれない。
悩んでいたり苦しんでいたりしている人は、それを中々表に出すことはできない。
だからどういったアプローチが良いのだろうか。
自分がこうしてブログを書いて、それをもしこの症状で悩んでいる人が見たとしたらどう思うだろうか。よかった、情報が届いんだなぁと、嬉しく思うだろうし。変化してもらえるきっかけづくりを与えられたことに、ただただ喜びを感じると思う。
自臭症のみではなく、大抵の精神病や疾患などに対してもそう言えるはず。
ただ経験してない部分に対しては、自信のなさを感じるはず。
しかし、もし、自分の経験からきた情報などが、その人の元へと伝わったりしたとしたらどうだろうか?
これで良いのだろうか、これで相手は変化できるのだろうか、そうした不安や自信のなさというのは強く感じるはず。
としたら、経験がない自分が何を伝えれば相手にとっての喜びとなるのだろう?
僕が伝えられる一番のことは、気持ちだと思う。また信頼。
あなたなら大丈夫。あなたなら絶対に何とかなる。あなたにはそれだけの力がある。
相手が必ずできるという未来を通して伝える信頼というのは、自分にとってはすごく喜びのような気がする。その人が、未来で輝いている姿が見えるし、その人が未来で大きく羽ばたき活躍している姿が見えるだろうから。
としたら、誰かを信じるということを繰り返したい。
しかし、毎度書いてて思うけど、具体的な場所がいつも明記されない。ここは、なんか避けてるんだろうなぁ。
もし、直接会った人に対して、あなたは大丈夫、あなたなら幸せになると伝えて、最初は受け取れないかもしれないけど、段々と変化していったらどうだろう?
自分の場合は自分にはそんな力があったんだとか、自分にそんなことができたんだみたいなことを感じたりする。
しかし、自分にそんな影響力があったこと。もしくは言葉というものに影響力があったということを知ったとしたら、その影響力という存在で相手が受け取ってくれてどんどん意欲的な姿になっていて変わる姿を嬉しく思うはず。
また、相手が変わる選択をしてくれてること、日々成長というのをしてくれていることが、本当に幸せだろうなと思う。
もしそれがさ、その伝えたことが新宿駅の目の前で、出会った見知らぬ人であったとしても、いやめちゃめちゃ怖いしめちゃ危ない人になりそうだけど(笑)、相手のうまくいってなかった時の姿、廃れたりしている姿とかを知っていれば、そこからの変化で親密感を感じられるだろうし、同時に、ここまで人は変われるんだと人は変化できるんだと、本当に本当に最高の喜びと幸せを感じられるはず。
俺がお役に立てたんだなというか、この言葉や自分の言動に価値があって、それは人を幸せや大きな喜びへと導く力があるんだなと実感できるだろうから。
そう考えると、いま自分が幸せになる機会は無数にあるはず。
ただそこには大きな勇気が必要であるということかな。
と同時に、今の自分の場合は、相手の幸せや喜びを通して自分の何かに価値があって、人を幸せにできる力があるんだなという実感を得られることが、大きな喜びであり幸せなんだなと感じる。
夢2。
・プロスピーカーになるとして、プロスピーカーというものは何となく程度のことしか掴んでいないし、どういったことを勉強する必要があるか理解していない。
自分が感じるのは、自分の考え方や自分の理論を人に対して話すことができて、それが人の役に立ったとしたらどれだけ幸せなのだろうなということ。
だからこう思うと、人に対して自分の理論や考え方を伝えたいのかなと思う。
なので、人に対して自分の理論や考え方を伝える方法を模索する。
本を出版しても良いかもしれない。
自分の書いた本が書店に並んでいたり、テレビで紹介されてたらどうだろう。
書店に並んでいたとしたら、手に入れた人達の今後の人生の豊かさや、今後の人生の幸せを考えてとても幸せで満たされた気分になる。
自分の全てを一先ずは伝えきった、そんな実感を得られるかもなぁ。
それは絶対に幸せで、喜ばしいだろうし、人が1人1人自分の本を手に取ってくれるかどうかすごく気にするだろうな。
この人は、今ここでこの本を手に取って幸せへの道を手にしてくれるのかと、そうして取ってくれたとしたら、この人は今幸せへの切符を手に入れてくれたんだな、その第一歩を踏み出してくれたんだなと思うだろうなぁと。
また、テレビに映っていたとしたら、まだ見ぬ人、興味を持っていなかったり、一生この本に出会えなかった人に興味を持ってもらえる機会を与えてもらえたことで、自分にとってより大きくビジョンに近付くだろうし、最高の幸せと最後の喜びというのを、自分は感じたりするはず。これ程までに幸せなことはないはず。
まだ見ぬ人、自分と関わってない人に対して、自分の理論や考え方を伝えるという風にしていきたい。そのためには、まずは自分とか関わってくれている人、自分のことを知ってくれている人たちに、自分の理論や考え方を通しての幸せというものをどれだけ伝えることができるのかとなってくる。
具体的には、自分の情報を何度も言葉で発信していきたい。
自分はこう思います、そうしてその思いや考え方のおかげで幸せですと。
そうして、自分にとっての幸せな考えや情報で溢れさせたい。
浮かび上がってくる考え方、何かを見て思ったこと。
それらはどうすれば幸せに繋がる?それを考えていきたい。
そうしてまずは、ブログでそれを書いていきたい。
書いていくに連れて、書き方を覚え自信をつけたら、フェイスブックやツイッターでも良いから、人が直接見るであろう場所で発信していきたい。
発信していって人の反応や人がどう感じるかを見て、その時に感じた反応を更にどうすれば幸せに繋がるか?を軸にして考えたい。
そうして意見や考え方はころころ変わってもよいから、とにかく自分が幸せと感じることを増やすこと。そうして、煮詰まったら、本を書く方向へ進める。
もしくは、この情報を発信していく場所を探していくこと。
・プロサッカー選手は、共に価値を認め合い、切磋琢磨できるようなそんな仲間達と戦えたとしたら、どれほどの喜びと幸せを感じるのだろうかと思う。
そんな仲間達と、もし共に戦うことができたとしたら、自分の才能の全てをさらけ出せるだろうし、それは、多くの人を魅了し、多くの人達が熱狂するような形につながっていくと感じている。
そうして、もし誰もが熱狂するような状況を作れたとしたら、自分はどれだけ熱い熱い情熱というのを感じることができるのかと感じる。その熱い情熱は、自分だけではなく様々な人と共鳴し、その情熱というのは様々な人に生きる喜びや生きがいというものを強く与えることになる。その人達が何のために生きるのか、それは俺のプレーを見るためだ、という部分にまで昇華できるはず。
その、ただ誰か心に情熱の火を灯して、その人がより生きててよかったという喜びを感じてもらえるような手助けをしたい。でも、それには俺が本当に本当に情熱の炎を灯し、それを全身全霊で表現して、他者にも感じさせる必要がある。
だからこそ、やりたいのは、自分を全身全霊で表現するという、情熱を自分の中で強く作っていくということ。思い浮かぶのは、全力で走ること、全力でダンスをすること。特にダンスは体の全部の部位を使うため、自分の本当の全力を全身で表現していける形になるはず。
そうして、ここでは守破離の考え方を用いたい。本当に自分の底から情熱を全身全霊で表現することだが、まずは、他の人の情熱的な表現を真似たい。
でもそれを考えると絵を描くこともある。情熱の表現は人それぞれ。
なら、情熱等々で調べて出てきた作品や何かというのを、書き写したり真似する。
これには紙やもしくは動く場所が必要なはず。どちらも確保できてる。
だから、それを見つけたら、とにかくやってみること。
とりあえずやるだけでよい、あとは勝手に進むから。
そうして何度かこれを繰り返したい。繰り返したのちに、これをどこかで実際に表現したい。またはどこかのスクールや講座とかに通ってみたい。そこで人に表現する。
やがて、守が出来上がってきたら、情熱の感覚は自分に馴染んでると思うので、サッカーの部分でも自分の才能というのを本当に発揮できるはず。
・お金を一億円稼ぐのは、より多くのところに通いたいし、より多くのところに場所を運びたいと考えているから。
多くの場所に行けるということは、ミスをしたり失敗をしたとしてもリカバリがるできるし、毎度大きなものを得なくてよいと完璧的な思考から脱することができるので、何度も繰り返し挑戦できる。
そうして、自分が本当にしたいことをしていける。
もしその本当にしたいことを自分がしていたとしたらどうだろう。自分は確実にイキイキした人生というのを探してるはず。
イキイキし始めたとしたら、自分は幸せを感じる。
幸せを感じてるとかならば、人に対して優しくすることができる。
人が必要なものを与えてあげようと意識を向けられる。
そうすることで、人が幸せになるためや成功するための協力ができる。
だから自分はお金が欲しいというよりは、より多くのことに挑戦するために、お金というもの、その挑戦するためのチケットが欲しいと感じる。
それさえできれば、お金というのは後で付いてくると感じてる。
とするのなら、挑戦する機会を増やしたい。
挑戦というものは視野を広げれば多くある。
フェイスブックでコメントするのも一つ、友人申請するのも一つ。
自分がしていなかったことを何でもよいからしてみること。
なら、フェイスブックで一日一つコメントなどをする。
恥ずかしいならば、フェイスブックではなくてもよい。
とにかく、挑戦したんだ、新しいことをしたんだの経験が必要。
だからまいにち、したことないなとは何だろう?と考える癖をつける。
挑戦の毎日をした後に、より大きなものに挑戦すればよい。
本格的にお金を稼ぐでもよい、何か両立させるでもよい、
夢。
願えば叶うから定期的に書き出す。
・プロスピーカーになる。
演説をすることプレゼンをすることが好きなんだなと感じるから。
世の中に多くの情報や価値を届けたい。それが人々にとっての幸せに繋がるから。
・プロサッカー選手になる
自分の才能が全て生きる場が、ここだと思ってる。
今まで苦しんできた全てはこのためにあると思ってるし、全てを表現できたとき、どれだけの人を勇気付けられるか、どれだけの人に意欲や夢や希望を与えられるか、そうした情景が幸せと共に浮かぶし、自分ならそれが出来ると確信してる。
・プロカウンセラー、セラピストになる
人が好きなのもあるけど、人にたくさんの幸せと喜びを届けたい。
サッカーとは違い、こっちはより強く自分が喜びと幸せを感じるもの。
人が幸せになってくれたり、成功してくれたり。幸せになるための一歩を踏んでくれることが、どれだけ嬉しいか。その一歩のお手伝いがしたい。
・栄養や調理の資格を取る。
料理することや栄養管理をすることになぜかものすごい喜びを感じる。
料理を作るという創造性がすごく好きなのと、自分の作ったもので誰かを喜ばせたり幸せにしたい。それがきっかけで、人が新たな一歩を進めば良いなと思う。
またパートナーとたわいもない話をしながら料理を一緒にしたり、
作った料理でピクニックとか行きたいのもある。子供といたら、なお最高。
やっぱり、自分の作ったもので誰かが喜んでくれるのは最高に嬉しいのだろうな。
・カウンセラーや心理学に纏わる資格を取る。
資格を取ることで、より多くの人を救える知識を身に付けられるし、より多くの人を救えるはず。そうして救う人が増えれば、また自分が知識を習得できれば、誰かを育てることもできるし、育てることでその人にも自分のビジョンのお手伝いをしてもらえば、より自分の望むような未来を手にすることが早くなる。
・まずは1億稼ぐ。
毎日、様々なところに行くとして、宿泊代を入れても5万以上はかかるだろうから、月に150万以上かかるはず。また、研修や勉強代としてお金もかかる。月に100万以上はかかるだろうし、場合によってももっとかかる。お金を稼げば稼ぐほど行ける場所も増えるし、学ぶことと増えるので、人に提供できるものが増えるし、より幸せにできる人が増える。だからお金は稼ぐ。
そうして、余ったお金は、人を育てることなどに費やす。
あとは生活費や旅行などにも行きたい。そこで、自分の感性を磨きたいし、大切な人と様々なものを共有することで、より多くの幸せや愛を感じたい。
・筋肉や関節関連の資格を取りたい。
自分が筋肉や関節や骨などの使い方を教えるときに、自分が知識を持って理解することは非常に重要となる。教えることで、多くの人が夢を叶えられるようになるだろうし、その人が夢を叶えることで多くの人が喜びや希望を感じるはず。
その人がより輝いて行くためのサポートをしたい。
・サッカーの監督になる、強豪チームの。
そこで自分が人生で培った様々な知識や理論を提供し、選手を育て優勝に導く。
その有志や姿が様々な人に希望や夢を与えるだろうし、様々な人を笑顔にするし生き甲斐を与える。またこれを日本人が成し遂げるということ、今まで何の結果も出せないボロボロだった自分が成し遂げることで、どれだけの人に感動と勇気を与え、どれだけの人を救えるか。ここまでどん底で、でもこうして輝か機会を与えてもらった自分の使命だと感じる。だから様々な理論や知識の勉強を惜しみたくない。
そうなると、やはりお金は多く手に入れる必要がある。
・自分の感性をただひたすらに磨く。
もっともっとロマンティックになりたい。世界の景色や芸術に、心で感じたい。
そうして、それを元にして人に影響を与える何かを提供、表現したい。
また、パートナーに愛情表現をしたり、最高の幸せと愛を届けるために、ここは徹底的に磨いていきたい。自分とパートナーと共に最高の幸せと最高の人生を作りたい。
だから自分の心とは徹底的に向き合いたいし、どんな闇にも入っていきたい。
そうした未来を作り出すためにも。
とりあえず、こんな感じかな。良い感じに幸せや喜びを感じてる。
また自分にならできるし、もうこれが自分の中で現実化してるような、そんな感覚も僅かに感じてる。この感覚を信じて突き進んで行くかたちかなぁ。
やっぱり書き出すって良いなぁ〜。定期的にこれはやろう。