本当に欲しいもの。

本当にしたいことって書いてパッと思い浮かぶのは、パートナーシップ。

自分でも直感でこれが出てきて驚いてるけど。まだ先だと思ってた。

 

許しが欲しいというのもあるのかな、親密な関係性になら許しがあるかもと感じてるのはあるのかもしれない。その許しの先にある、幸せと親密感を求めてる。

だからそう考えると許されたいという願望があって、でもそれは自分1人ではできないから、誰かに許してもらいたいと思ってるのかなと感じた。

 

でも結局のところ欲しいのは親密感とまたそこからくる幸せなんだろうなぁと。

ただ罪悪感がかなり残ってるので、それはまだ望めないと思ってるのかも。

 

じゃあ、その抱えてる罪悪感が全て許されたとしたら何が欲しいだろう。

パッと思い浮かぶのは、好きな人と付き合うこと。

そっか、こっから恋愛の方向に進んでいくのか、具体的なイメージ等々を描いたりとかできる方向性へ。

 

カフェ巡りとかも楽しそうに感じる。

おしゃれなカフェで一息ついたり、たわいもない話をしたり。

あとは、なんか、おしゃれなカフェという雰囲気が良いのかな。

なんとなく、ここに行っている自分のイメージはすごくおしゃれになっていて、ダンディになっていてって感じだから、本当に欲しいものはこっちかな。

 

じゃあ、すごくおしゃれでダンディな男になったとしたら何が欲しいだろうか?

パッと思い浮かぶのは、ロマンチックな関係性。

ここで初めてロマンチックな部分に入るということは、今の自分だと自分なんてという感情が多いからこそ、本当に欲しいもの、本当に感じたいものを感じたいと、心の底から望まないという感じなのかな。

 

ただその関係性のイメージとして、パッと浮かぶのは美女と野獣ダンスホールでダンスを踊ってるようなイメージ。

ということは、何か亀裂等々が生まれた後に、そこで愛し愛されるという形で互いに通じ合う経験をし、その喜びを元にしてお互いに見つめ合いながら何かを表現するみたいな感覚や感情というのを自分は感じたいってことかな。

 

この感覚や感情はただ自分に思ってもみなかったような幸せを感じさせてくれる。というか、幸せだけでは表現がつかないような、天国のような感覚。

だから、自分らしくいたいとか、自分をもっともっと許し愛したいと願ったのかなと。こうした感覚は、絶望とか闇とか孤独とか、そういったどうしても感じたくないような感情を感じて、そうしてそういった感情を感じきって乗り越えることができて、初めて感じることができるような感情だろうから。

 

そういった感情が繋がりや幸せの密度を濃くさせて、そうして濃くなった繋がりは大きな親密感や今のままで良いんだといったような感覚を大きく作り出させ、そうした肯定感は天と繋がりを持ち、新たな創造性や物事の見方を作り出すことをする、だからこそ、天国といったような表現になるのだろうか。

 

要はその、絶望や闇や孤独を癒したことで生まれる、親密感や大きな繋がりというものが欲しいと自分は願っているのかも。ただそれを手にするには自分は値しないと思っているために、ダンデイな男性になろうとかロマンチックな人になろうとか、そういった部分を身につけていこうという発想になってるのかなと感じた。

 

しかし、この理想というか、本当に欲しいと願っているこの感情から作られる視点というのは、弱さや絶望とか孤独といったどうしようもない感情は全て、この感情を感じるためにあるという視点を持てるということ。

つまりこの角度から見ると、弱さや絶望や孤独感といったようなものを感じれることが、そもそもで才能になるということなのだと思う。

 

だから、最近おかしかったのか。

なんか、変に受け取ることを意識してるよなぁとか、相手の愛をどう受け取ろうかばかり考えてるなぁとか、そういった考え方を提供してくれるところばっかりに目がいったりしていたなぁと思ったけど。

 

相手の愛を通して自分の孤独感とか絶望とかを心の中で差し出して、そこから求めていた感情というのを感じようとしていたのかなと思った。ただ受け取ったとしても違和感があったり、何かこれは違うなぁといったような不満を感じていたのは、自分がまだあの感覚を感じるに値しない存在だと思ってたからか。

 

でもそう思うと、意外と身近にこうした感覚はあるというか、自分の絶望とか孤独とかをしっかり感じて、傷つくかもしれないけど差し出していく覚悟を持つことで、それを感じられる機会は増えるのかな。

でも恐らくだけど、相手もそうした感情を感じれたり差し出せたりする人じゃないと、エネルギーはぶつかり合い、許しや癒しに向かわないだろうから、相手はそういった、与え受け取れるような人になるという形なのかな。

 

よし、じゃあそうした感覚と感情というのをただただ欲しいと望もう。

ただただ望めば叶うし、そっちに意識が向いていくから。

楽しみだなぁ。書いている間、ずっとずっと最高の幸せを感じてた。

こんな素敵な感情を感じれることにただただ感謝だな。

大きな闇は光への希望。

・自臭症や精神的な疾患で悩んでいる人が、それに悩まなくなったとしたらどう感じるだろう。すっごい、幸せに思う。今までの絶望が大きかっただけに、そこで手にできる自分らしさというのは輝きに満ちている。

それをその姿を想像するだけで、最高の幸せに包まれる気がする。

 

今まで散々苦しい気持ちをしていただろうけど、よかったねって。

ずっとずっと自分らしくいられなくて悩み続けてきた苦しみがあったからこその今だろうし、そこで輝いてる姿が、人の可能性と人の希望を感じさせる。

 

人によっては自臭症は食べたいものも食べられない、飲みたいものも飲めない、話したいことも話せない、やりたいこともできない、といったような風になる。

でももしその人達が、そのできなかったという悩みを克服し、できるようになったとしたらどれだけの幸せとどれだけの喜びを感じるのだろうか。

自分は本当に生きていてよかったな、といった風に思うかもしれない。

 

悩んでいたり苦しんでいたりしている人は、それを中々表に出すことはできない。

だからどういったアプローチが良いのだろうか。

自分がこうしてブログを書いて、それをもしこの症状で悩んでいる人が見たとしたらどう思うだろうか。よかった、情報が届いんだなぁと、嬉しく思うだろうし。変化してもらえるきっかけづくりを与えられたことに、ただただ喜びを感じると思う。

 

自臭症のみではなく、大抵の精神病や疾患などに対してもそう言えるはず。

ただ経験してない部分に対しては、自信のなさを感じるはず。

しかし、もし、自分の経験からきた情報などが、その人の元へと伝わったりしたとしたらどうだろうか?

 

これで良いのだろうか、これで相手は変化できるのだろうか、そうした不安や自信のなさというのは強く感じるはず。

としたら、経験がない自分が何を伝えれば相手にとっての喜びとなるのだろう?

僕が伝えられる一番のことは、気持ちだと思う。また信頼。

 

 

あなたなら大丈夫。あなたなら絶対に何とかなる。あなたにはそれだけの力がある。

相手が必ずできるという未来を通して伝える信頼というのは、自分にとってはすごく喜びのような気がする。その人が、未来で輝いている姿が見えるし、その人が未来で大きく羽ばたき活躍している姿が見えるだろうから。

 

としたら、誰かを信じるということを繰り返したい。

しかし、毎度書いてて思うけど、具体的な場所がいつも明記されない。ここは、なんか避けてるんだろうなぁ。

 

もし、直接会った人に対して、あなたは大丈夫、あなたなら幸せになると伝えて、最初は受け取れないかもしれないけど、段々と変化していったらどうだろう?

自分の場合は自分にはそんな力があったんだとか、自分にそんなことができたんだみたいなことを感じたりする。

しかし、自分にそんな影響力があったこと。もしくは言葉というものに影響力があったということを知ったとしたら、その影響力という存在で相手が受け取ってくれてどんどん意欲的な姿になっていて変わる姿を嬉しく思うはず。

 

また、相手が変わる選択をしてくれてること、日々成長というのをしてくれていることが、本当に幸せだろうなと思う。

 

もしそれがさ、その伝えたことが新宿駅の目の前で、出会った見知らぬ人であったとしても、いやめちゃめちゃ怖いしめちゃ危ない人になりそうだけど(笑)、相手のうまくいってなかった時の姿、廃れたりしている姿とかを知っていれば、そこからの変化で親密感を感じられるだろうし、同時に、ここまで人は変われるんだと人は変化できるんだと、本当に本当に最高の喜びと幸せを感じられるはず。

 

俺がお役に立てたんだなというか、この言葉や自分の言動に価値があって、それは人を幸せや大きな喜びへと導く力があるんだなと実感できるだろうから。

そう考えると、いま自分が幸せになる機会は無数にあるはず。

ただそこには大きな勇気が必要であるということかな。

 

と同時に、今の自分の場合は、相手の幸せや喜びを通して自分の何かに価値があって、人を幸せにできる力があるんだなという実感を得られることが、大きな喜びであり幸せなんだなと感じる。

夢2。

プロスピーカーになるとして、プロスピーカーというものは何となく程度のことしか掴んでいないし、どういったことを勉強する必要があるか理解していない。

自分が感じるのは、自分の考え方や自分の理論を人に対して話すことができて、それが人の役に立ったとしたらどれだけ幸せなのだろうなということ。

 

だからこう思うと、人に対して自分の理論や考え方を伝えたいのかなと思う。

なので、人に対して自分の理論や考え方を伝える方法を模索する。

本を出版しても良いかもしれない。

自分の書いた本が書店に並んでいたり、テレビで紹介されてたらどうだろう。

 

書店に並んでいたとしたら、手に入れた人達の今後の人生の豊かさや、今後の人生の幸せを考えてとても幸せで満たされた気分になる。

自分の全てを一先ずは伝えきった、そんな実感を得られるかもなぁ。

それは絶対に幸せで、喜ばしいだろうし、人が1人1人自分の本を手に取ってくれるかどうかすごく気にするだろうな。

この人は、今ここでこの本を手に取って幸せへの道を手にしてくれるのかと、そうして取ってくれたとしたら、この人は今幸せへの切符を手に入れてくれたんだな、その第一歩を踏み出してくれたんだなと思うだろうなぁと。

 

また、テレビに映っていたとしたら、まだ見ぬ人、興味を持っていなかったり、一生この本に出会えなかった人に興味を持ってもらえる機会を与えてもらえたことで、自分にとってより大きくビジョンに近付くだろうし、最高の幸せと最後の喜びというのを、自分は感じたりするはず。これ程までに幸せなことはないはず。

 

まだ見ぬ人、自分と関わってない人に対して、自分の理論や考え方を伝えるという風にしていきたい。そのためには、まずは自分とか関わってくれている人、自分のことを知ってくれている人たちに、自分の理論や考え方を通しての幸せというものをどれだけ伝えることができるのかとなってくる。

 

具体的には、自分の情報を何度も言葉で発信していきたい。

自分はこう思います、そうしてその思いや考え方のおかげで幸せですと。

 

 

そうして、自分にとっての幸せな考えや情報で溢れさせたい。

浮かび上がってくる考え方、何かを見て思ったこと。

それらはどうすれば幸せに繋がる?それを考えていきたい。

そうしてまずは、ブログでそれを書いていきたい。

 

書いていくに連れて、書き方を覚え自信をつけたら、フェイスブックツイッターでも良いから、人が直接見るであろう場所で発信していきたい。

発信していって人の反応や人がどう感じるかを見て、その時に感じた反応を更にどうすれば幸せに繋がるか?を軸にして考えたい。

そうして意見や考え方はころころ変わってもよいから、とにかく自分が幸せと感じることを増やすこと。そうして、煮詰まったら、本を書く方向へ進める。

もしくは、この情報を発信していく場所を探していくこと。

 

・プロサッカー選手は、共に価値を認め合い、切磋琢磨できるようなそんな仲間達と戦えたとしたら、どれほどの喜びと幸せを感じるのだろうかと思う。

そんな仲間達と、もし共に戦うことができたとしたら、自分の才能の全てをさらけ出せるだろうし、それは、多くの人を魅了し、多くの人達が熱狂するような形につながっていくと感じている。

 

そうして、もし誰もが熱狂するような状況を作れたとしたら、自分はどれだけ熱い熱い情熱というのを感じることができるのかと感じる。その熱い情熱は、自分だけではなく様々な人と共鳴し、その情熱というのは様々な人に生きる喜びや生きがいというものを強く与えることになる。その人達が何のために生きるのか、それは俺のプレーを見るためだ、という部分にまで昇華できるはず。

 

その、ただ誰か心に情熱の火を灯して、その人がより生きててよかったという喜びを感じてもらえるような手助けをしたい。でも、それには俺が本当に本当に情熱の炎を灯し、それを全身全霊で表現して、他者にも感じさせる必要がある。

 

だからこそ、やりたいのは、自分を全身全霊で表現するという、情熱を自分の中で強く作っていくということ。思い浮かぶのは、全力で走ること、全力でダンスをすること。特にダンスは体の全部の部位を使うため、自分の本当の全力を全身で表現していける形になるはず。

 

そうして、ここでは守破離の考え方を用いたい。本当に自分の底から情熱を全身全霊で表現することだが、まずは、他の人の情熱的な表現を真似たい。

でもそれを考えると絵を描くこともある。情熱の表現は人それぞれ。

 

なら、情熱等々で調べて出てきた作品や何かというのを、書き写したり真似する。

これには紙やもしくは動く場所が必要なはず。どちらも確保できてる。

だから、それを見つけたら、とにかくやってみること。

とりあえずやるだけでよい、あとは勝手に進むから。

 

そうして何度かこれを繰り返したい。繰り返したのちに、これをどこかで実際に表現したい。またはどこかのスクールや講座とかに通ってみたい。そこで人に表現する。

やがて、守が出来上がってきたら、情熱の感覚は自分に馴染んでると思うので、サッカーの部分でも自分の才能というのを本当に発揮できるはず。

 

 

・お金を一億円稼ぐのは、より多くのところに通いたいし、より多くのところに場所を運びたいと考えているから。

多くの場所に行けるということは、ミスをしたり失敗をしたとしてもリカバリがるできるし、毎度大きなものを得なくてよいと完璧的な思考から脱することができるので、何度も繰り返し挑戦できる。

そうして、自分が本当にしたいことをしていける。

 

もしその本当にしたいことを自分がしていたとしたらどうだろう。自分は確実にイキイキした人生というのを探してるはず。

イキイキし始めたとしたら、自分は幸せを感じる。

幸せを感じてるとかならば、人に対して優しくすることができる。

人が必要なものを与えてあげようと意識を向けられる。

 

そうすることで、人が幸せになるためや成功するための協力ができる。

だから自分はお金が欲しいというよりは、より多くのことに挑戦するために、お金というもの、その挑戦するためのチケットが欲しいと感じる。

それさえできれば、お金というのは後で付いてくると感じてる。

 

とするのなら、挑戦する機会を増やしたい。

挑戦というものは視野を広げれば多くある。

フェイスブックでコメントするのも一つ、友人申請するのも一つ。

自分がしていなかったことを何でもよいからしてみること。

 

なら、フェイスブックで一日一つコメントなどをする。

恥ずかしいならば、フェイスブックではなくてもよい。

とにかく、挑戦したんだ、新しいことをしたんだの経験が必要。

だからまいにち、したことないなとは何だろう?と考える癖をつける。

 

挑戦の毎日をした後に、より大きなものに挑戦すればよい。

本格的にお金を稼ぐでもよい、何か両立させるでもよい、

夢。

願えば叶うから定期的に書き出す。

 

プロスピーカーになる。

演説をすることプレゼンをすることが好きなんだなと感じるから。

世の中に多くの情報や価値を届けたい。それが人々にとっての幸せに繋がるから。

 

・プロサッカー選手になる

自分の才能が全て生きる場が、ここだと思ってる。

今まで苦しんできた全てはこのためにあると思ってるし、全てを表現できたとき、どれだけの人を勇気付けられるか、どれだけの人に意欲や夢や希望を与えられるか、そうした情景が幸せと共に浮かぶし、自分ならそれが出来ると確信してる。

 

・プロカウンセラー、セラピストになる

人が好きなのもあるけど、人にたくさんの幸せと喜びを届けたい。

サッカーとは違い、こっちはより強く自分が喜びと幸せを感じるもの。

人が幸せになってくれたり、成功してくれたり。幸せになるための一歩を踏んでくれることが、どれだけ嬉しいか。その一歩のお手伝いがしたい。

 

・栄養や調理の資格を取る。

料理することや栄養管理をすることになぜかものすごい喜びを感じる。

料理を作るという創造性がすごく好きなのと、自分の作ったもので誰かを喜ばせたり幸せにしたい。それがきっかけで、人が新たな一歩を進めば良いなと思う。

またパートナーとたわいもない話をしながら料理を一緒にしたり、

作った料理でピクニックとか行きたいのもある。子供といたら、なお最高。

やっぱり、自分の作ったもので誰かが喜んでくれるのは最高に嬉しいのだろうな。

 

・カウンセラーや心理学に纏わる資格を取る。

資格を取ることで、より多くの人を救える知識を身に付けられるし、より多くの人を救えるはず。そうして救う人が増えれば、また自分が知識を習得できれば、誰かを育てることもできるし、育てることでその人にも自分のビジョンのお手伝いをしてもらえば、より自分の望むような未来を手にすることが早くなる。

 

・まずは1億稼ぐ。

毎日、様々なところに行くとして、宿泊代を入れても5万以上はかかるだろうから、月に150万以上かかるはず。また、研修や勉強代としてお金もかかる。月に100万以上はかかるだろうし、場合によってももっとかかる。お金を稼げば稼ぐほど行ける場所も増えるし、学ぶことと増えるので、人に提供できるものが増えるし、より幸せにできる人が増える。だからお金は稼ぐ。

そうして、余ったお金は、人を育てることなどに費やす。

あとは生活費や旅行などにも行きたい。そこで、自分の感性を磨きたいし、大切な人と様々なものを共有することで、より多くの幸せや愛を感じたい。

 

・筋肉や関節関連の資格を取りたい。

自分が筋肉や関節や骨などの使い方を教えるときに、自分が知識を持って理解することは非常に重要となる。教えることで、多くの人が夢を叶えられるようになるだろうし、その人が夢を叶えることで多くの人が喜びや希望を感じるはず。

その人がより輝いて行くためのサポートをしたい。

 

・サッカーの監督になる、強豪チームの。

そこで自分が人生で培った様々な知識や理論を提供し、選手を育て優勝に導く。

その有志や姿が様々な人に希望や夢を与えるだろうし、様々な人を笑顔にするし生き甲斐を与える。またこれを日本人が成し遂げるということ、今まで何の結果も出せないボロボロだった自分が成し遂げることで、どれだけの人に感動と勇気を与え、どれだけの人を救えるか。ここまでどん底で、でもこうして輝か機会を与えてもらった自分の使命だと感じる。だから様々な理論や知識の勉強を惜しみたくない。

そうなると、やはりお金は多く手に入れる必要がある。

 

・自分の感性をただひたすらに磨く。

もっともっとロマンティックになりたい。世界の景色や芸術に、心で感じたい。

そうして、それを元にして人に影響を与える何かを提供、表現したい。

また、パートナーに愛情表現をしたり、最高の幸せと愛を届けるために、ここは徹底的に磨いていきたい。自分とパートナーと共に最高の幸せと最高の人生を作りたい。

だから自分の心とは徹底的に向き合いたいし、どんな闇にも入っていきたい。

そうした未来を作り出すためにも。

 

とりあえず、こんな感じかな。良い感じに幸せや喜びを感じてる。

また自分にならできるし、もうこれが自分の中で現実化してるような、そんな感覚も僅かに感じてる。この感覚を信じて突き進んで行くかたちかなぁ。

やっぱり書き出すって良いなぁ〜。定期的にこれはやろう。

 

親密感と幸せが土台。

今日思ったのは、言葉や行動というのは、親密感と幸せが土台になってるなと。

 

僕の場合、父親との関係性で親密感という感覚が、誰かを貶す、バカにするといったような形で出来上がっている。だから仲が良いなと感じる人や、仲良くなりたいなと感じる人に対しては、無意識にバカにするような言葉が浮かんでくる。

 

本気でバカにしてるつもりとかはなくて、ただ自分にとっては、それが幸せで親密な感覚だったからこそ、そういった言葉が浮かんでくる。

 

しかしここには問題があって、この僕にとっての親密感という感覚は、

他の人にとっては、多く親密な感覚ではないということ。

つまり、僕が親密感のままに言葉を発すると、人は傷ついたり嫌がったりする可能性が非常に高いということ。

 

そうして僕の場合は、その言葉を発したことで傷ついたことがたくさんあった故に、今の自分の性格というものが出来上がっているのだろうなと感じる。

 

この親密感は、人の話を最後まで聞かないし、自分の話しかしない。

人が話せば途中で遮って、こうでしょ?と判断したり。

途中途中の言葉に、バカにするような言葉や後ろ向きな言葉を言ったり。

とかく、未来に対しての、絶望とか自信の無さとか自己嫌悪とかが多くベースとなっている親密感なので、人が聞くと嫌だなと感じる言葉が多くなる。

 

だからこその、人の話はちゃんと聞かなければと思ったり。

また、あまり口数は多くせずに、余計なことは言わないようにしようとか。

話の中であまりネガティヴなことは言わずにしようとか。

そうしたような、心持ちや姿勢を創り出したりしているはず。

 

ただこの姿勢、相手からするとどうなのかなという感覚がある。

 

僕が人との親密の度合いを、この昔形成された親密感から判断するように、

人も、大抵こうした自分の親密感を通して親密度を測るはず。

そうすると、あまり口数が少ないというのはどうだろうか。

 

相手からのこういった人なんだなという理解が入るまでは、

ここにこう言ってくれないんだな?とか、

こうした反応をしてくれないんだな?とか、そうした印象を抱かせるはず。

 

 

まあそれは良いとして。

大概、相手と話していると罪悪感を感じることが多くなる時がある。

それは、相手の話を聞いてると、自分の中の抑圧された感覚が引き出されるからだと思ってる。

 

大抵、そこで感じた言葉を話すことが、相手との親密な関係性を作るにあたって必要なはずなのだが、罪悪感を感じるのでいつも難しくなる。

そうして、大抵、罪悪感をきっかけにして、孤独感や自己嫌悪を感じるなと思う。

 

これなんでなのかなぁと感じた時に、思ったのは、親との間で責められた部分は今だに自分の中で抑圧されたまま残っているからだなと感じた。

だからそこで、抑圧された感覚を使うことは責められるように感じる。

また、怒られら所なのにしようとすることで罪悪感を感じる形になる。

 

しかし、相手が言って欲しそうなこと、これを言ったら親密になれるよなという幸せな感覚が目の前にあるとわかるだけに、それができない自分に二重の罪悪感を感じ、同時に俺はもうできないんだという絶望にハマり、孤独感に入るのだなと。

 

 

そうして気付いたのが、人は幸せを土台にして語るなということ。

自分が、この罪悪感と近い距離にいるとき、大概言葉が出てこないし、出てきたとしてもこんなことを自分が言うのは、という感覚にハマったりする。

しかし、幸せが土台にある時は、言葉がスイスイ出てくる。

 

他の方が幸せそうな話をした時に、ただただ感じてイメージを膨らませる。

すると、勝手に言葉は出てくるし、幸せと幸せで繋がりを感じてるからなのか、罪悪感も特になく、楽しみながら語っている自分が居ることに気付いた。

 

そう思うと、つまり、自分の中での幸せや親密感の感覚を増やせば増やすほど、話しのパターンは増えるだろうし、より深みのある話もしていけるはず。

 

 

ともう一つ、この関連で思ったのだが、幸せや親密感をその場で感じてる時というのは、こうかもしれないけどこうだよね、という感覚が入ってる気がした。

誰かの愛を受け取る時、抵抗が入るのだけど、それでも受け取ると、

こうかもしれないけど、こう見てくれている、だから幸せ。

だから繋がっている、みたいなことを感じたような気がした。

 

だからこの観点から見ると、弱さとは親密感や幸せを作る道具だなと。

 

あとは、昨日気付いた、自分1人でもうやらないということ。

何やるにしても、自分でやるが土台になっていたなぁと。

行動として自分1人でやるのは構わないけど、心の中で自分1人でやるということは、傷ついたもう傷つきたくないから1人でやる、と視野を制限する選択。

 

これだと、確実に精神は疲弊する。

だから、1人でやらない視点はすごく大事だなと。

この視点が、ハートブレイクを癒す鍵になるなぁと感じた。

 

あとは、相手がこう思ってると決めつけないこと。

この心持ちは傷ついてる時はしたくなるけど、この決めつけをすると、

傷を抑える形となり、いつまで経っても深い感情に入らないなと。

ずっとずっと、さっきの罪悪感の層に居てしまうなと感じた。

 

 

だからこうやって思うと、幸せと親密感の感覚をひたすら描くこと。

これはもう、繰り返しだろうな。そこで必ず罪悪感を感じるはず。

ただそれはパターンだと理解していれば、何とかなっていくはず。

 

言葉も行動も罪悪感を避けてするはずなので、幸せや親密感を通して、罪悪感の正体を対比の関係性で見つめられるようになれば、手放しやすくもなるだろうし。

同時に、自分の才能というのも罪悪感が癒されることで、たくさん入ってくるはず。そうするともっと出来る幅や考える幅も広がると思う。

 

とりあえず願えば叶うから書き出そう。

・幸せで望む将来から逆算して、記事を書いていく。

ロマンチックなところに行きたいのなら、それ関連の記事を書く。

・なりたい姿から逆算して記事を書く。

同じようだけど、ダンディな男性になりたいのなら、ダンディな男性がやってることを記事にしてみたりとか。

 

ともかく、理想から語ることを意識して、記事を書いていくことかなぁ。

ちょっと不安だけど、楽しみかなぁ。やってみよう。

まめまめ。

思ったのは、孤独感という感情が、重要だったんだなと。

 

さっき、自己嫌悪から生じる、怒りや破壊的な気持ちなどから入っていって、

どんな人にでも怒ることや破壊的な気持ちが生じる可能性があるというのを投影していたところに行き着き、そうして、そのきっかけを作らないように、自分の影を消そうとしている自分がいることに気付いた。

たこの時、主体性の感覚を抑圧しているみたいなので、誰かの判断に物凄く傷ついている自分がいることにも気付いた。

 

こっから結局、入っていたのは誰も助けてくれなかった、誰も救ってくれなかったし気付いてくれなかった、だから自分には味方が居なかったんだの気持ち。

そうして、壮絶な孤独感に入ったなというのを強く感じた。

 

今までは期待するという形や、怒るという形でその孤独感を抑圧してた。

でも蓋を開けてみて思ったのは、味方なんてどこにも居なかったじゃん。自分の感じていた気持ちを感じていた人なんて誰もいなかったじゃんと。

 

結局、人は1人だし、1人でなんとかしていくしかないし、1人で自分のことをわかっていくしか道はないんだなという感覚に行き着いた。

膝を抱えた自分がなぜか歩いているし、人と話している、そんな、蹲っている自分を隠して生きてきた、というような孤独な気持ちを感じた。

 

ただそこに入って思ったのは、それはある意味で事実だった。

1人で自分のことをわからなきゃいけないのも、結局1人で切り開いていかないといけないのも事実。人は、大抵人のことはわかってくれないし分かれるものでもない。

 

でもその事実をただただ孤独感を持って受け入れると、不思議と少しでも分かろうとしてくれたこと。少しでも優しくしてくれたことが、とんでもないとほど、大きな愛だったことに気付く。孤独な中でもこうした愛は注がれてたんだって。

 

 

 

 

そうして思ったのは、大人になるっていうのは、こうした孤独感を自分の中で受け入れて、その上で人の愛を受け取るということなのかなって。

孤独感を受け入れることができない時、自分の場合は、人に対してなんでわかってくれないんだという不満を、知らずの内に強く持っていた。

 

この不満は、人の距離を作り、人生の流れの停滞を作るなと感じた。

 

 

またもう一つ思ったことがある。

それは、したいという感覚って本当に大事なんだなと。

本来、怒りに対して怒りがぶつかるものだし、殴るという行為に関しては殴るという行為がぶつかるもの。 

 

人はみんなしたいという気持ちを抱えているのだから、殴られたら殴り返してそれを止めないと、したいの実現の道はなくなる。だから殴り返す。 

けど、自分の場合、この感覚がなかったのだろうなと。

 

受け止めてもらえなかったことで、したいという気持ちは誰かを不幸にすると罪悪感を抱いてしまったのかなと。ここは、まだ想像の範囲だけど。

 

でもそう思ったりすると、やっぱり同じエネルギーでぶつかれるように、まずはしていくことかな。そうして、したいの感覚を大切に守ること。

そうしてその相手のエネルギーを自分のエネルギーの受容を通して捌けるようになれば、同じ土俵で戦わなくてよくなるはず。

 

あと思ったのは、このしたいという部分がどこかを感じ取り、それに対して人はどう行動したりしているのか、という観点から罪悪感を感じるのかなって。

この人は自分のせいで本当にしたいことをできていない的な感覚。

 

とりあえず、したいを大切にすれば良いと気付けたからなのか、幸せを感じるし嬉しいなって、これから楽しみだなって思えてくる。

同じエネルギーをぶつけた後に、どんな答えが待ってるのか、どんな景色が見えるのかめっちゃ楽しみだな〜!

一旦、纏め。

勝ち負け、という競争の感覚はやはり大切だなと感じる。

細部を感じ取る繊細な感覚は、競争の感覚がないと、

身近な不安や恐れというものに変わってくるような気がしてる。

 

いじめられた自分に対して弱いと見なしていた感覚は、ある角度から見ると事実だったなと感じた。もし、敗北すなわち死であったとしたら。

いじめられていた自分というのは狩られる側であったために、客観的に見た時に、弱者という表現になり得ることもある。

 

もちろん、ここは心の側面のアプローチをなくした場合の視点。

しかし、男性性を引き上げるには、弱いという事実を、やはり受け入れる必要があるなと。君は弱いんだって、生き抜けなかったんだって。

もしそれが、戦場だったら?

もし相手が、感情のままに殴り倒すタイプだったら?死んでいたよねと。

 

冷酷であり残酷であるが、この事実に入らないと

どんな状況でも手段を厭わず、生き抜くという感覚が入ってこないなと感じた。

そしておそらくこの感覚が入ってこないと、

どんな困難だろうと、この状況を打破する手は必ずあるの視点に向かわないはず。

 

 

実際これに近いワークをさっきやってみたけど、

やはり心の中で一旦、死を迎えるなという風に感じた。

やりたかった自分の気持ちというのは、誰かの言葉により実現しなかったし、誰かの言動により、もうできなかったと感じた。

 

それはすなわち角度を変えれば、そのやりたいの感覚を感じていた自分はかつて生き残ることができなかったということ。だから死を感じるのだろうなと。

 

 

 

 

そこに入って、絶望に入り、ここで自己否定が見つかり、

恐らく、これが自己否定し続けるというパターンになってたのだと思う。

そうして次に、怒りや憎しみと同時に、やりたいとかしたいという、繊細な気持ちが浮かび上がってくるなという風に感じた。

 

そうすると、大概死んでいた感覚が情熱と共に戻ってくるなと。

どんな手傷を負ったとしても、たとえ死にそうになったとしても、

やりたいという思いだけは、何があっても貫いていくという信念に繋がるなと。

 

と考えると、やはり、死と生はイコールなのかなぁと感じる。

 

ここから考えられるのは、問いかけとして、

・結果が出なかったら、死が待ってるとしたらどうする?

・ここで負けたら、死が待ってるとしたらどうする?

 

といったような死を含んだ問いかけは、本当はやりたいのにやりたくないと思ってることを、引き出すのに役立つだろうから。

これで、ひとまずやれなかった自分を引き上げて、やるに変えていくこと。

これで、傷を乗り越えた自分と、やるを信念とした自分が出来上がるはず。

そうして、これが、状況や状態問わず、やり抜くという力に変わるはず。

 

 

いじめられていた時にも、脱する手段というのは他にも恐らくあった。

しかし、自分の場合、耐える我慢するという選択肢を取った。

これは、恐らく、殴るとか殴り倒す〜とか、徹底的に打ちのめす〜とか、

そういった相手の今後がどうなろうとも俺は生きる、俺は何かをやるために、いじめから脱する、という感覚が、親との間で傷ついていたのだろうな。

 

恐らく、親父がすぐ切れる人だったとか。暴言をよく吐いたりするような荒っぽい人だったというのは、強く関係しているのだろうな。

いじめられていたとき、殴るなんてとんでもないとと思ったり。

もし殴って喧嘩して、自分が大怪我したらどうする?それこそバカでしょと思ったり。俺よりもあいつのが強いし、俺はいざとなったら殴れないしとか。

 

そういったできない、乗り越えられない情報ばかりを取得してたのは、

乗り越えることで不都合な何かがあったのだろうな。

要は、その乗り越えようとする感覚を持ってる自分が死んでいたので、

乗り越えた先には死しか見えないといった形だったはず。

だから、こうした死に繋がるような情報ばかりを取得していたのだろうな。

 

 

そう考えた時に、今後どうしていこうかな。

この何があっても乗り越えるという男性性は、理解や受容という女性性を使うことで、俺はこの状況を乗り越えるけど、自分も相手も幸せになるような形で抜けていく、といったような方向へと変わっていくはずだと思う。

 

とすると〜、

ひとまずはいじめの体験を変えること、父を超えることかな。

ここでの超えるの意味合いは、彼らが俺に何をしてこようが何をいってこようが、俺はやりたいことを貫いていく。たとえ、そこで俺がどうなろうとも、その意思だけは貫く、という姿勢を作ることかな。

 

ひとまず、これを繰り返そうか。ここは結構未知な感覚だなぁ。

死の感覚と絶望があるからなのか、嬉しいや楽しいが湧いてこない。

湧かそうとすると、いやまだ乗り越えると決まったわけではないと感じるし。

とりあえず、今日でここを乗り越えようー!