セラピー3(保存用)

3□自分の中での嫌だったこと→それに対して、肯定的な決意表明→相手の愛や良さという部分を見ることを選択する、という順で行う。

 

・例

貴方にとって僕はいらない人だとしても、僕は貴方のことを否定したり責めたりしないし、傷ついて引きこもったりはしません。

貴方にとって僕はいらない人だとしても、僕は貴方の長所・素晴らしさ・貴方にできること・貴方がした良きことを見続け、評価し続けていきます。

 

・目的

このワークの一番の目的は、自分の人生の中で未だに被害者になり続けてるマインドを、今ここで無害者に変えていくということである。

 

大抵、自分にとって傷つくことをされたり言われたとき、

相手のことを責め、文句を言い続けている。

が、それ以上に責めているのは自分自身である。

 

傷つける誰かというのは、自分が何か新しい選択をしないという理由になり、

それは、より魅力的な自分にならないということである。

 

このワークでは、相手に対して判断していた部分を変え、

相手の愛や素晴らしさを見ていくことをしていく。

これにより投影が変わるので、自ずと自分に対する認識も変わり、

自分がより魅力的になっていくことを選択していきやすくなる。

 

・解説

このワークでは、今の自分が選択している相手に対しての判断を軸に、

否定的肯定法を用いて、その相手に感じていることを、私はもう感じないと選択していく。

 

そして、後ほど説明するが、次に相手の愛や良さを見ることを選択することで、

判断という思考の垣根を超えて、

相手の本質を見ることを選択していく。

 

要するに、私が今まで知覚していたことの全ては誤りだったにも関わらず、

私は貴方のことを傷つける人にしていました、ごめんなさい。

という罪悪感を洗い流し、より自分の中の本質を選択していくということである。

 

・効果

このワークの一番の効果は、傷つく自分を減らせるということである。

個人的な体感としては、否定的肯定を行なった時には、

自分の中の本当の愛の部分と繋がる感覚がして、

元々感じていた愛が戻ってきたように感じられた。

 

そして愛を選択する部分では、僕は例の他に、

「他の人が貴方のことを愛する目で見た時と同じように、貴方のことを見ていきます」という選択を行なったりしたが、

それにより、相手の愛と繋がれることが多かったように思う。

 

あくまでこのワークの目的は、もう二度と同じようなことをされないために、などといったような現実的な変化を望むものでもなく、

 

ただ相手の愛を通して自分の愛を感じ、その愛に対する信頼によって、

相手のその行為も、自分の自分や相手に対する判断も誤りだったんだ。

私が貴方の愛を見続けられていれば、私は貴方にこんなことをさせて、罪悪感を感じさせる必要もなかったんだ。全て私の責任だったんだと。

 

自分の力と愛の大きさを思い出す目的のワークである。

 

・注意点

これもいくつかある。

まず最初の部分で痛みに入る可能性が高いこと。

 

これは判断を過去に行い、その判断を通して思考を積み重ねた以上、仕方のないことであるが、そこに愛があるわけないという誤解と共に、

苦しさが強く押し寄せてくることが多い。

 

もう一つは、否定的肯定をすることに意味を感じられないことがある。

この否定的肯定の目的は、自分を責めることに投資しているエネルギーを自分の人生を自分で切り開いてく部分に投資する目的のものだが、

奥底にある愛が信じられないと、どうして俺がという感覚が生じることがある。

 

これは被害者でいようとするエゴの作用であるが、愛を信じられないときというのは、全て誤解だが、無意味感という感覚に至ることが多い。

 

もう一つは、相手の中にある愛を信じられないこと。

行為そのものに対象を置くのは、理性的な流れであるが、

この場合、相手の行為そのものに愛を見つけるのは至難の技であることが多い。

 

・対策

何よりも大切なのは、自分であろうとしないこと。

言い換えれば、今の自分にしがみつこうとしないこと。

そして、自分の中にある愛を信じること。

 

また重要なのは、自分の知覚の誤りを常に認め続けていくことである。

辛く苦しい体験をする手前においては、自分の中で愛ではない判断と選択をしていることが非常に多い。

そして、それが結果的に現実としてもたらされたということである。

 

自分で自分の人生を切り開いていくという視点においては、

どんな経験すらも、自分の選択の結果。

 

セラピー2(保存用)

 

2□自分のある部分を見せる→それを見せた時にして欲しい態度、という順で書く。

 

・例

貴方達に今日自分のことしか考えていなかったときの自分を見せます。

貴方達がそれを今日は受け入れてください。

 

・目的

このワークは特に自分の中のネガテイブな感情やネガテイブな体験を用いる。

大抵、自分の中に隠している体験や感情というのは、

それを愛に変えてくれる存在など居ないという不信感からくるものであるが、

全て投影である以上、それは自分の愛に関する不信感である。

 

と言っても、自分の愛に対する不信感は強いエゴとともに生じている以上、

自分の愛があるという前提でワークをやるのはとても辛いものである。

 

エゴは酷い自己概念を前提として、他の人に対して飢餓感のような形で愛を求めてるので、ならエゴの順序で、今それを満たしてしまおうという目的。

 

・解説

この手法ははっきりと言えば、根本的な解決にはならない。

なぜなら、自分の中に、このネガテイブな自分を受容できる程の愛があったんだ、という実感には至らないからである。

けれども、それに向けた足がかりを作ることはできる。

 

 

このワークを繰り返すことで、「ああ俺はこんな自分が嫌だと思っていたんだな」といったような形で実感を得ることが可能となる。

 

これは1のワークとほど似たような形であるが、

エゴの流れとして酷い自己概念を持っているときというのは、相手が愛してくれて当然だに近いような思いを抱えている。

 

なので、今ここでその愛してくれて当然だという思いに乗っかるように、

自分のどんな部分でも愛してくれるような存在を今ここで作ることにより、

自分の中にある愛というものを少し感じることができるようになる。

 

・効果

一番大きな効果は、自分の中にあるネガテイブな理由を無くせるということである。

行動の足枷になる時に生じているものは、大抵、罪悪感である。

 

例えば、人を批判していたという経験は、

人と出会った時に、この人は批判する人かもという投影や、

私は人を批判するから、私に幸せは相応しくない。

などの気持ちに繋がることがあり、

私の本当に欲しいものに向けた行動の足枷となることが多い。

 

このワークは、「本当にダメだと思っていた自分」という、罪悪感や無価値観まみれとなっていた、自己嫌悪している自分に対象が当てられるものであり、

そんな自分に本当にして欲しかったことを罪悪感を超えて得るというワークである。

 

簡潔に言えば、許しが与えられるワークである。

言い換えれば、今私は許されることを選択するワークであり、

自分のダメな部分を許し愛してくれる人の存在を信頼するワークである。

 

なので、このワークにより、

罪悪感を通して取得していた、私を傷つけたり攻撃してくる人という見方が変わり、

新しい選択ができるようになるのである。

 

長々と書いたが、罪悪感が癒えますよというお話である。

 

・注意点

注意点はいくつかある。

一つは、辛さと苦しさが強く生じることがある。

これは、自分のことを受け入れてくれる存在などいるわけがない、という不信感から生じるものであるが、

その時の痛みが強ければ強いほど、苦しく辛いものになる。

 

特にこの辛さや苦しさは、過去の苦い思い出を一言で書き記する時。

その痛みを肯定してくれる存在を創造する時。

の二つで特に生じるように思う。

 

これは過去の痛みがある以上、仕方のないことであるが、

悲しさ辛さ苦しさ、特に寂しさが強く生じるように感じる。

 

もう一つは、受け入れてくれる人を創造する時に、罪悪感を感じることが多い。

これは隠してきただけにしょうがないことではあるのだが、

責められてるように感じることがある。

 

・対策

前回と似たような形になるが、

何よりも重要なのは「自分の人生の責任は自分で取る」という強い覚悟である。

 

言い換えると、何の目的意識を持つかということである。

「効果を求める」「現実的な変化を強く望む」等々の、

変わることを望む目的で行っていると、中々難しいように思う。

 

あくまでこのワークは、

誰かに何かをしてもらうためにやるのでもなく、

自分が誰かに何かをするためにやるのでもなく、

自分の感情の責任は自分で取るためにやるものである。

 

なので、この感情や体験は自分で満たせるようにしよう。

もしくは、この体験とこの感情を落ち着いて話せるようにして、

誰かが愛し救いやすいような状態にしようという目的で望むのが大事である。

 

 

あと、少し付け足すのであれば、

この一連のワークで感じる感情というのは、

自分が嫌ってる体験と感情と、

それを許し愛してくれる人との距離感を表している。

 

日常において、許し愛してくれる人に対してこの感情を感じてるということであり、もしかすると、表面的に感じているのは怒りといった別のものかもしれない。

 

「効果」の部分でも前述したが、この感情の多くは、行動の時の制限となることがあるので、

要はこのワークで、その感情を超えて、本当に欲しかったものを手にしてしまいましょう、というわけである。

 

そして、選択したあとは、委ねるというだけである。

セラピー1(保存用)

10.20年後、これを見た人が世界に羽ばたいていきますようにという思いを込めて。

 

1.□自分の与えるもの→相手にしてほしいこと、の順で書く。

 

・例。

貴方に優しくします→貴方は僕の優しさを本当に嬉しそうに受け取ってください。

 

・目的。

自分の中の承認されたいマインドを引き出す目的。

ただ単純に与えたいというマインドを通して与えてる時、人は傷つかないが、

何かを貰おうとしている時、人は受け取ってもらえないと傷つく。

 

このワークにより、もう傷つきたくないから、私は与えないというマインドを変えることが可能になってくる。

 

・解説

イメージを持つならば、それは全てファンタジーという手法を用いて作ったもの。

基本的に、誰かに対しての承認を求めてるマインドが存在している時、

何かを与えた時にこのマインドを巡った思考が生じる。

 

そうすると、自らの承認欲求を嫌っている人ほど、

私はまずいことをしたかしてないか、という自責思考になりやすく、

また、近い関係性になると、このマインドを通して怒りが生じることになり、

どちらにしても、喜びという感情が受け取れなくなる。

 

・効果

心は心の中で完了さえさせてしまえば、現実に受け取ったことと同じ体感が起きる。

承認とは名ばかりで、選択をしていないだけであるので、

欲しいものとそれを受け取ったという選択により、その現実を今ここで創造し、

自分の承認を求めているマインドを完了させる。

 

これにより、同じ思考が無意識的に生じることはなくなる。

 

この承認されたい部分を隠すための保障行為も減る、

というよりは、補償行為をして手に入れたかったものを今ここで手にするので、

その部分においての補償行為はやらなくなる。

 

つまり、自分の何かを求めるためにこの行動をする、という一つの選択がなくなるので、そのぶん、余裕ができ、落ち着きがでるという効果がある。

 

・注意点

与えるものを何にするかによって、強い怒りが生じることがある。

例えば、親に満たしてもらえなかった何かを引き合いにして、

その時に与えたものを書いた時、

場合によっては、「私の人生がこうなったのは貴方のせいだ」というマインドが生じることがある。

 

基本的にこのワークは、与えた時に喜びを感じないのならば、

それは何かを奪うために与えたという前提を用いてるので、

子供の時に満たしてもらえなかった痛みにモロにぶつかることがある。

 

過去に満たしてもらえなかったものを、自分で満たすと選択する時、怒りが生じるのは、期待があっただけに仕方がないことである。

それを満たしてもらえていればこうはならなかった、と感じるの当然である。

ある意味でそれは事実でもあり、事実でもない。

 

・対策

ここで何よりも求められるのは、アカウンタビリティの概念である。

例え子供だから判断能力に欠けるという事情があれど、

奪うために与える選択をしたのも、親の言葉を間に受けて自分を酷く責めたのも、自分の責任である。

 

全てが今ここにあるという前提においては、子供の時の痛みを選択し続けているのは常に今の自分。

 

つまり、今の自分が子供の頃の痛みを選択してるのだから、

子供の時の自分も、自分の最善でその選択をしたんだよね、

という部分に入る必要がある。

 

この概念は、自分を責めるためにあるものではない。

子供の頃の自分に最善の選択をしたんだよねと、

ありのままをただ認めてあげるための選択である

 

要は、自分で自分を満たすという選択をするために、

今までの自分は自分なりの最善の選択をしたんだよね、という風に卒業証書を贈るようなイメージで承認することである。

 

要は過去との決別と未来への選択を今行うということである。

価値の差別化を、ちゃんと行う。

人狼において、価値の差別化を行うのは非常に重要だと感じる。

強者弱者という概念もそうだが、どの情報が重要なのか仕分ける能力も大切となる。

 

こうした価値を軸に仕分ける能力というのは、私にはそれだけの価値はないという無価値観と、価値を見れなくて申し訳ないという罪悪感がぶつかり合う部分である。

故に繊細な人ほど、この仕分けるということに対して嫌悪感と抵抗感を抱く。

僕もどちらかというと、その口である。

 

しかし、世の中の多くは仕分けるという男性的なエネルギーを軸にして展開している。

論理的思考、分析、行動、決断等々。

感情という曖昧なものを省き、とにかく事実を大切にする。

 

コミュニケーションにおいても、感情という曖昧なものを省いた時、

何に価値があるか?何が重要か?という目線を持つことは非常に重要となる。

 

物事を思い通りに動かしたり、相手の中でしっかりと事実を共有するには、この曖昧なものを省いていく視点というのは必要不可欠になってくる。

なので、人狼においても特にその能力が重要視されてくる。

 

 

では、その仕分けはどのように行っていけば良いのだろうか。

まず何が大事か?何が大切か?というのを分かる必要がある。

そしてそれを分かるには、「嫌」という感覚を大切にしていく必要がある。

 

基本的に、物事を思い通りにしたいという、思い通りにならないのは嫌だという発想から、価値や重要なものを仕分けようとする。

つまり、勝負において弱者が嫌であれば強者である必要がある。

 

ではなぜ弱者が嫌なのか?と問えば、弱者であると負けるからである。

そうして負けるのが嫌なものは、強者になろうとするし、

負けるのも弱者も嫌なのだから、強者や勝つことに価値を置くだろう。

 

そうすると、弱者は虐げるだろうし、

弱者を省いた形で、戦略を立てていくことになるはずである。

 

具体的に例をあげれば、単騎で戦況を変えれないものは、とりあえず駒にでもなってくれといったような、人間を人間と扱わない合理的な発想になるはずである。

 

ここまではあくまで一例。

次はちょっと違った角度から書いていこうと思う。

 

 

3人で一つのケーキを食べたいとする。

この時、3等分にするのと4等分にするのとでは、どちらが平等だろう?

と、問われれば、3等分が適切な答えになるだろう。

1人、1人に同じ量のケーキが与えられるからである。

 

しかし、1人1人が最高に満足する場合、何等分にすれば良いだろう?

と問われた場合、3等分にすることが必ずしも正解ではなくなる。

もしかしたら、食べたくない気分な人もいるかもしれない。

誰かに食べてもらうことで、満足する人もいるかもしれない。

 

人の欲求充足は違うので、どれが正解かは人によってくる。

という形で、与えることを前提にして与えるのが、男性的な部分であり、

可能性を考えて、満足させるかを重点的に考えるのが、

女性性的な部分なのかなと感じる。

 

つまり、物事を仕分けるときというのは、人がどう感じるか?

というのはおいておいて、どう与えるか?というのを、

自分の嫌な感覚を軸に考えていくことなのかなと感じる。

罪悪感と男らしさの関係性。

いじめられた当時の怒りの感情と向き合っていたのだけど、

その時に、誰かを自分の未熟さゆえに傷つけたり、苦しめてしまった時のことを思い出したりした。しかし、その罪悪感から今まで逃げていたのだなと感じた。

 

いじめられた時の傷を持っている自分というのは、いじめてきた相手に対して、不幸や破滅を本気で望んでいる。

そうすると、自分の中で誰かを傷つけてしまった罪悪感を受け入れるということは、自分は幸せになれず一生不幸であるということを受け入れること。

 

ということは、いじめられた傷を許すというのは、同時に人の不幸せを望む依存を引き受けて、私は幸せになれないけど、幸せにならずあなたにどうされても良い、私はそれくらいのことをしてしまったから、と覚悟を決めることだなと感じた。

 

なぜかというと、全て近くするものは投影であるので、不幸せを望まれてると感じるのは、自分が誰かの不幸せを望んでるからである。

つまり、自分が不幸せになる誰かを受け入れるということは、不幸せを望む傷ついた自分を許し受け入れるということに繋がる。

 

だから、もしいじめの傷を許せないとしたら、同じなようなこと、もしくは近いようなことをしたりしまったことと、向き合う必要があるのかなと感じた。

 

 

そして、これを書いたとき、一つ例を思いついた。

それは極道の世界。

人が場合によっては死ぬし、殺すような現実に直面することがある。

そうして、誰かを殺してしまった人が、実際に自分の死に目にあった時に、自分が殺される立場になったことで、殺していった人の気持ちが罪悪感とともに感じられる可能性がある。

 

そうして、そこでその罪悪感を受け入れて、なお、何かのために自分のために生きようと選択した時、その人は一回り大きくなるはず。

 

 

基本的に人は罪悪感ストーリーを恐れる。

罪悪感から生じている、自分が死ぬかもしれないという現実。

だから、直接的に煽られたり、暴力を振るわれたりすると、それに対してやり返そうと、抗おうとする。

 

しかし、その罪悪感ストーリーを罪悪感を感じることをもって受け入れたとしたら、暴力を振るわれたりしたとしても、頭はきっちりクールなままで居られる。

だから、死線を越えた人は、落ち着くし余裕がでる。

それだけじゃなく、引き受けられる依存の幅が広いので、めちゃめちゃ男らしく頼もしい人間になるのだろうなぁという風に感じた。

 

心の中で死んでも良い、俺は幸せにならなくて良い、そうした形で、自分の人の不幸を望んだり、殺意を持った自分を受け入れ、許したから。

 

 

この罪悪感の感覚とは日常でも強くは媚びる。

大概、人は罪悪感を元にした人のことを判断するし、状況を見極める。

 

抑圧された罪悪感を持って、ここではこの言葉や行動はこう受け取られないよな?といった期待を持つことをして、言葉を発し行動をしていく。

そうした時に心では、常に恐れと不安に支配される。

なぜなら、期待があるということは、自分にとって避けたい罪悪感ストーリーがあるということ。つまり、少しでも期待通りにならないと落ち込む形となる。

 

たこの時、少しでも罪悪感ストーリーに入るようなニュアンスの言葉を与えられると、そのストーリーが今ここで現実になると錯覚するようになる。

すると、意識はそれを避けようとするので、相手を変えようとしたり、相手のことを責めたりして、そのストーリーを何とか避けようとする。

 

つまり、誰かの不幸を望んだりしてしまったという、自分を責めている罪悪感という感情が、他人を責める感情というのを生むわけである。

 

 

だから、自分を許し、他者を許し、そうして自分が不幸せになること、自分が今ここで死ぬことを、受け入れることができた時、人は変わるといって良いと思う。

そこで受け入れることができると、期待がまずは減る。

 

期待が減るということ、人の良さや魅力やまた欲求が本当に見えるようになる。

すると、この人にはこういう行動をしてあげよう、こういったエスコートをしてあげよう、といったように相手の愛して欲しいように愛せるようになる。

 

すると、男として深みも落ち着きも風格もでるはず。

それは男らしさや安心感等々に繋がるだけでなく、様々な人を育てる力にもなる。

 

またそうした罪悪感を癒せば癒すほど、ユーモアの力も上がる。

ユーモアとはそもそもで罪悪感である。

普通だったら罪悪感を感じるところを、少しバカにしてみたり、ふざけてみたりするというわけである。

 

だから罪悪感を引き受けると、場や相手を見ながらユーモアを述べることができ、相手の緊張をほぐし、安心させていくことにつながっていくはず。

 

また罪悪感は緊張感とも関連している。

罪悪感を癒すと、相手のことが本当に見えてくるとするなら、

緊張状態にあるときというのは、期待があるということ。

 

同時に、自分はこうした風な未来が起きたとき、罪悪感を引き受けていない以上、こうした問題や現実を作り出してしまう。

彼女や相手が醸し出すことをしている魅力というのは、多くの人を魅了し好きにさせる。そうして争いや喧嘩が起きたとき、自分は彼女を守れないし、救うこともできない、といったような感覚などが緊張状態を作り出す。

 

だから、より罪悪感を引き受けて、男らしさを魅力として受け取ると、

対処できる場面も増えるので、緊張状態も収まり、落ち着いて接することができる。

 

というわけで、俺は世界一男らしい人になると今決めた。

自分が先。

人の喜んでる姿を逆算してと考えたとき、でもそもそもで人が喜ぶ姿って何を元にしてわかるんだ?って思ったけど、これ自分の喜んでる姿からわかるんだなと思った。

 

だから、まずは自分の喜んでる姿、笑い楽しんでる姿、ここから考えていくことか。

俺、何書いたら、楽しい〜!って、笑ってるかなぁ〜。

 

自分が受け取ってる時、やっぱり味わってる時だなぁと感じる。

食事に関しても、ただ食べている時は、作業的な感じで楽しくない。

 

でも、どのくらい暖かくて冷たいんだろう。食感はどうなんだろう。

味わいはどんな感じだろう、噛み具合によって味は変わるかなぁ?

あ、変わった!めっちゃ上手いわ〜!こうやって上手くなるんだなあ!と。

興味を持ったとき、興味を持って何かを発見した時、食事は楽しくなる。

 

あとは、この食べ物を作った方は、一体どんな想いを込めて作ったんだろうなぁ。

どこを気を付けて、どこに細かく神経を尖らせて作られたんだろう。

そこにはたくさんの愛や思いが込められてるんだろうなぁとか。

作った人の思いや、また作られれてから運ばれたりした時のことにイメージを馳せると、より食べ物が美味しく感じられたり、ただ感謝の念が湧くから、楽しくなる。

 

でも自分なんて、っていう思いがあるとき、この食べ物が自分に与えられたものではなく、この食べ物も自分の元にきて、不幸だろうなぁと思ったりするだろうから、その食べ物を自分を喜ばせてくれるものとして、みなすことができないはず。

あぁ、だからこの食べ物やこの相手は自分のことを喜ばせてくれるものという前提が大事なのかな。

 

そうして、あとはなんだろう。

ああこういうの記事にしても良いのか。食べ物買ってきて。食べログ的な。

そういうのも、自分が楽しいと感じるものの一つかな。

 

 

でもなんかが、奥歯に詰まってるような気がする。

前から思ってたのだけど、小中高の時に勉強したところに可能性がある気がする。

前々から、あの時の授業や勉強の、楽しみ方を見つけたいなってずっと思ってた。

歴史にしても、古典にしても、数学にしても、楽しめたとしたら、人生の幅は広がる。やることは増える。というか、ここが楽しめたら何やっても楽しいはず。

 

資格とるのも、資格とるに向けて勉強するのも、学ぶことも楽しいだろうし。

それを誰かに説明したり、解説したりするのも楽しいはず。

俺ここがずっと奥歯に引っかかってたんだなぁ。

ずっと楽しいみたいと思ってたけど、楽しめてなかった。

そうして、そこを楽しんだらスポーツも趣味も全て楽しめる気がする。人生変わる。

 

なんでだろう、なんとなくそんな感じがする。学校教育を楽しめたら無敵だなと。

じゃあ、やる。学校教育を今から楽しむ。無限大の楽しみを見つける。

多く、展示されたり、人々を楽しませているものの根本にあるのは、学校教育の時の感覚のような気がしてる。だからこれを取り戻すことだろうな。

そこに、ユーモア的な感覚もあるはず。国語力の部分でもあるかな。

 

あれでもそう考えると、今までにないくらい楽しい。なんでだろう。

俺、学校教育が好きなのかな。それとも勉強が好きなのかな。

まあいいや。やってみる。ここで楽しみ方を見つけた自分を望む。

本当に伝えたいこと。

自分が誰かに本当に伝えたいことは何か?と問われれば、相手を大切に思ってる気持ちだなと感じる。会えて嬉しかったとか、出会いという縁に感謝しますとか。

ただただ、人に会えるということは嬉しいから、その気持ちを伝えたい。

 

でも恥ずかしいのかな。自分なんてっていう気持ちがあるからなのかな。

いつも、そういった気持ちは押し込めて人と接してる気がしてる。

会えて嬉しいなんて、自分が言うのはおこがましいだろう、とか。

相手は、自分なんかと会っても、嬉しくなんてないだろう、とか。

 

本当は相手のことが好きだし、すごく尊敬しているし、凄いなぁ、こんなに良いところがあるんだなぁって、感じてるはずなのに。

そんなの、僕なんかに伝えられるのは嬉しくないだろうなって思ってしまう。

 

でも、自分なんてって思う中でも、本当はどうしたいの?って問われたら、

もっともっと目の前にいる人達を大切にしたいし、目の前にいる人達の幸せや成功をただただ願って、そのために何かしらの協力というのがしたいなって思う。

 

ただただ、こんな自分に話しかけてくれたり、接してくれたり、様々な言葉をかけてくれたという愛がどうしようもなく嬉しく、感謝してるし。

色々な選択ができた中で、僕に時間を使ってくれたことが嬉しい。

だから、感謝の意味も込めて、その人に何かができたらなって思ってる。

 

ただ本当のところとしては、もっと違う形にしたいなって感じる。

自分なんてっていうのが前提にあって、そこから受け取る愛はたくさんあるし、感謝もたくさん生まれるだろうけど。自分なんてが引き合いにずっとあったら、誰かに愛を与えることが、できなかなってしまう思う。それが現状のはず。

 

それでもどうしたいか?と問われれば、誰かに自分の考えや何かを伝えたい。 

それが、自分の中の何かと繋がり、何かを感じられるようになるから。

 

だから俺は、自己表現などをしない姿勢を取って、この何か、幸せや最高の喜びに近い何かを感じないようにしているんだろうなと思っている。

おそらく、自分の手で誰かが喜んだり、幸せを感じたりすることを避けてる。

その時に、今まで形成していた自分というものが壊れてしまうからだろうな。

すんごく、それは怖いし恐怖だよなと感じる。

だから、すんごく誰かに依存したい、みたいな気持ちがある。

 

誰かが成せば、僕の手で誰かを喜ばせ笑顔したわけではないから、報酬を受け取らなくてよくて、僕はその最高の幸せや喜びを手にせず済む。

でも、内心では欲しいと願ってるから、嫉妬をするんだろうなと。

 

 

じゃあその上で、本当は何がしたい?と問われたら、

誰かが笑顔になること、誰かが喜ぶこと、誰かが幸せを感じ、楽しんでくれること。

このイメージから逆算して、自分を表現していきたいな。

 

いつもイメージの中で、誰かのこうした姿を感じることを避けて、文章を書いているので、誰かに向けたものになってないような気がしてる。

勿論、その道は怖いだろうな。そうしたイメージから逆算したとしても、現実としてそれが得られるかどうかは相手次第な部分になってくるだろうから。

だから、いっぱい無力感や罪悪感を感じるだろうな。

でもそうだとしても、このイメージから逆算することは価値がある。

 

 

自分の手で、誰かが笑っている。

僕の書いたことで、僕の伝えたことで、相手が嬉しそうにしてる。

それは、僕自身が作り出すことができたもの。

勿論、相手が受け取ってくれて初めて、感じられるもの。

そうした、素敵な愛を手にしたい。

 

僕が僕であることで、誰かが喜び笑ってくれたとしたら、最高だろうな。

そんなに人に出会いたい、いやもうたくさん出会ってるだろうから、ただその姿はもうすでに手に入っているってことに気付きたい。あとは、僕の勇気だけだと。

 

僕が書いたり、表現したりしたことで、これはきっと笑ってくれるだろうな。

これは喜んでくれるだろうな、相手の笑顔や嬉しそうな姿が思い浮かぶな。

そう思うことができたとしたら、どれだけ日々は楽しくなり、どれだけの幸せと喜びを感じながら、表現していくことができるんだろうな。

ただただ、そんな姿はもう既に手に入ってることに気付きたい。

 

そうして気づいた上で、表現し続けたいな。

結局のところとして、もう自分には誰かを喜ばせ笑顔にできるという、現実は手に入ってるんだよ?という部分から、逃げたかったんだろうなと。

だからここに気付いて、とにかくここを信頼すること。

もう、自分にはそれだけの力があるし、そうした風に感じてくれる人達はいる。

でもそれは、生まれた時から変わらないことで、ただ自分が気付こうとしなかっただけ。そういった感じにはなるのかな。